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普通を連れ出すもの

「……あなたが?」



 思わず、問い返してしまう。



 冒険者が孤児を引き取ることは、原則として認められていない。

 生活の不安定さ、安全性の低さ、教育環境の不備——

 理由はいくつもある。



 この街の制度は、“あのような子”を守るために作られているわけではない。



「王都の孤児院は、悪くない場所ですわよ」



 わたくしは、事務的な言葉を並べる。



「最低限の衣食住が保証され、教育も施されます。

 危険な場所へ連れ出されることもありません。

 あなたのような方と違って」



 わざと、最後の一文に棘を仕込む。



 それでも彼は、眉ひとつ動かさなかった。



「この子は……砦にいた」



「ええ、そう伺いましたわ」



「砦は、もう“戻れない場所”だ」



 短く、当たり前の事実を言うように。



「だったら、せめてこの子にとっての“普通”を……俺が作る」



 普通。



 この王都で、その単語をこんな形で使う人間を、わたくしはほとんど知らない。



 貴族にとっての普通。

 冒険者にとっての普通。

 商人にとっての普通。



 それらはすべて、「自分の側」の都合で定義される。



 けれど少年の言う“普通”は、

 どうやら自分のためではないらしかった。



(この子の“普通”を……?)



 砦から連れ出され、王都の石畳を初めて踏んだこの少女にとって、

 普通など、まだ何ひとつ形になっていないはず。



 その空白を、自分が埋めると言ってのける愚かさ。

 ——あるいは、勇気。



「あなた、ご自分の立場が分かっていて?」



 わたくしは、あえて冷たく問う。



「上位職登録を終えたばかりのメイス盾。

 安定した収入も、定住先も確保していない。

 危険な依頼に身を投じる職業。

 そんなあなたが、“保護者”を名乗ると?」



 普通であれば、ここで引き下がる。

 あるいは、少し声を荒げて反発する。



 どちらも、わたくしの想定の範囲内。



 だが——



「立場なんか、どうでもいい」



 少年は、静かにそう言った。



 声量は上げない。

 視線も逸らさない。



「この子を置いていくくらいなら、

 メイス盾を“なかったこと”にしてもいい」



 その瞬間、

 わたくしの思考が、一拍遅れた。



(……今、何と?)


 この街で、上位職登録を得ることがどれだけの意味を持つか、

 彼は知らないわけではないはずだ。



 三つの依頼をこなし、

 死の砦という特別任務を生き延び、

 ようやく掴んだ「盾としての道」。



 それを、「この子を守れないなら要らない」と言っている。



 計算が、合わない。



(あなたの目標は、“メイス盾になること”ではなかったのですの?)



 わたくしは、彼の記録を思い出す。



 村で等級外魔獣を退け、

 自分の命を顧みず仲間を庇い、

 それでも「自分の功績」として申請することに興味を示さなかった少年。



(……ああ、そういうこと)



 脳内で、いくつかの点が線になる。



 この少年にとって、“職”は目的ではない。

 道具だ。

 自分が「こうありたい」と望む姿に、世界を少しでも近づけるための。



 だから、道具そのものを失うことは、大した問題ではない。

 道具を手に入れたうえで、「望む形」を選べないほうが、彼にとっては致命的。



(厄介ですわね、本当に)



 世界の側は、そういう人間が一番嫌いだ。



 妥協せず、

 諦めず、

 制度の外側から「こうあるべきだ」と平然と言い放つ者。



 時にそれを英雄と呼び、

 時にそれを災厄と呼ぶ。



 どちらに転ぶかは、力の行使の仕方ひとつ。



「……困りましたわね」



 わたくしは、ため息を漏らすふりをした。



 内心では、別の感情が静かに膨らんでいる。



(読み違えましたわ、完全に)



 この少年を、わたくしは「死の砦で消える駒」として盤に置いた。

 生還は、数字の上ではゼロに限りなく近い可能性。

 生還したとしても、砦の底を覗き込んだ目は、二度と日常に戻れない。



 そのどちらか——

 そういう種類の賭けだと思っていた。



 けれど、実際に目の前にいるのは。



 砦の底から、見知らぬ少女を引きずり出し、

 自分の道具をすべて投げ出してでもその子の「普通」を作ろうとする。



 ——世界のほうを、少し動かしてしまった側。



     ◇



「規則のうえでは、あなたの言い分は通りません」



 わたくしは、あえて冷淡に言う。



「孤児院という制度は、戦災孤児や事故死の子どもたちを守るために作られたもの。

 不安定な冒険者に、簡単に“保護者”の座を渡すわけにはまいりません」



「そうか」



 彼は短く答えるだけだ。



 諦めた声でもない。

 怒った声でもない。



 ただ、次の手を探しているだけの沈黙。



「……ですが」



 わたくしは、書類の束をぱらりとめくる。



 規則には、穴がある。

 制度は、運用する側の人間の“解釈”によって、いくらでも形を変える。



 わたくしはこの数年間、その穴を塞ぎ続けてきた。

 利己的な利用を防ぎ、

 弱者が不当に搾取されないように調整してきた。



 でも——



(今くらいは、その穴を“開く側”に回っても構いませんわよね)



「死の砦から戻った者は、原則としてギルド管理下に置かれます」



 これは、半分は本当で、半分は嘘だ。



「しばらくのあいだ、あなたには王都近郊の依頼のみを斡旋いたします。

 宿もこちらで仮手配。  そのうえで——」



 ペン先を、一枚の紙の上に走らせる。



《死の砦帰還者監視対象:一名》

《保護対象(身元不詳の少女)一名を伴うことを許可》

《保護責任者:メイス盾(上位職登録)ちゃたろ〜》



 文字にしてしまえば、それはもう“決定”になる。



「あなたとそのお嬢さんは、しばらくのあいだ“監視下の特例扱い”として、王都に滞在していただきます」



 監視——という単語に、周囲の空気が僅かに張り詰める。



 冒険者たちは、それを嫌う。

 自由の対価として、常に何かを差し出している者たち。



 けれど少年は、ほとんど迷わず頷いた。



「それで、この子を俺から引き離さないなら……構わない」



「ええ。少なくとも、わたくしの窓口を通る限りは」



 それは約束でも保証でもない。

 ただの“宣言”だ。



 ギルドという巨大な組織の中で、

 受付嬢一人にできることには限りがある。



 それでも、窓口という“入口”を抑えているのはわたくしだ。



 その入口を通る書類の形くらいは、変えられる。



「……感謝する」



 そう言ったときの少年の顔は、不思議と静かだった。



 安堵でもなく、喜びでもなく。

 ただ、「道が一本確保された」と理解した者の顔。



 横で少女が、彼の袖を掴む指を少しだけ強くする。



 まだ名前を持たない、小さな手。

 砦の霧からこちら側へ戻ってきた、小さな生命。



(あなたたちを、ここまで連れ戻したのは誰かしら)



 少年か。

 砦の何かか。

 あるいは——この国の、まだ見ぬ“別の意志”か。



 わたくしには、まだわからない。



     ◇



 手続きが一通り終わり、

 少年と少女がギルドを後にする頃には、外の雨はさらに強くなっていた。



 大扉の向こう、灰色のカーテンの中に、二つの影が溶けていく。




 少年は、少女の歩幅に合わせて歩いている。

 決して急がない。

 決して引っ張らない。



 ただ、隣にいる。



(あの砦で、誰の手も届かなかったであろう場所で、

 あなたはその子の手を取ったのですわね)



 想像でしかない。

 でも、わたくしの中では、それ以外に考えようがなかった。



 フィーネは霧に呑まれ、

 名も知らぬ少女は、霧の向こうから連れ出された。



 死と生の線引きを、

 この少年は自分の都合で引き直した。



(世界の側が決めた“線”を、勝手に動かす——)



 その行為を、

 わたくしは恐ろしいと思う。



 同時に、限りなく魅力的でもあると思ってしまう。



(わたくしは、この少年を“駒”として扱えると思っていた。

 死の砦という盤の上で、使い捨てることも辞さないつもりだった)



 そこに、一片の迷いもなかったはずだ。



 辺境伯閣下への報告書にも、

 「盤上に乗るが、既存の駒との連携は困難。死の砦級の案件においては利用価値あり」

 ——そう明記した。



 けれど、現実に起きたことは。



 盤の外側から、わたくしの知らないルールで駒を動かされ、

 「死ぬはずの子」がひとり、生きて帰ってきた。



(これは、敗北ですわ)



 誰に言うでもなく、心の中で認める。



 わたくしが誇っていた“読み”が、

 初めて、世界に対して負けた瞬間だった。



 それは怖い。

 同時に——堪らなく嬉しい。



 世界は、まだわたくしの知らない形で、壊れ方を用意している。

 その壊れ方のひとつが、あの少年の歩幅に紛れている。



「……本当に、厄介な子を拾ってきてくださいましたわね、閣下」



 小さく呟き、窓から視線を外す。



 これから先、

 ちゃたろ〜という少年の動きは、

 辺境伯閣下も、ギルドも、教会も、誰もが注視することになるだろう。



 でも。



(最初に“読み違えた”という記録は、

 わたくしの中だけに残しておきますわ)



 死の砦で死んだはずの少女が、生きてここにいる。

 名も与えられていないその子を、「普通」に連れ出そうとする少年がいる。



 白い窓口の内側で、

 わたくしという小さな怪物は、別の怪物を見つけてしまった。



 これが、わたくしとちゃたろ〜との、

 長い長い“観測”の始まりだった。

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