扉の向こうから戻った影
「窓口、開きます」
いつもの合図で、大扉が開く。
冒険者たちのざわめきが流れ込み、書記官たちが忙しなく走る姿が視界の端を過ぎる。
下位冒険者の顔ぶれは、ほぼ昨日と同じ。
酒場帰りのふらついた足取り。
報酬の前払いを求める成金の商人。
政治的な匂いをさせた貴族の使い。
どれも、“いつもの世界”だ。
わたくしはひとりひとりを捌きながら、頭の片隅で別の計算を続けていた。
(死の砦・第七次調査隊。
表向きは、本日をもって“消息不明扱いから死亡扱いへ切り替え”。
遺体は戻らず、遺品もなし。 生存者も——
生存者も、いないはず。
少なくとも、そういう扱いになる。
そう結論づけたところで、扉のほうから、空気の色が変わる気配がした。
ざわめきが、縫い目からほつれるように変質する。
「……おい、あれ……」
「嘘だろ……?」
「砦から……?」
扉の外で、声が一瞬かすれる。
わたくしは、反射的に顔を上げていた。
白い大扉が、軋んだ音を立てて、ゆっくりと開く。
雨に濡れた灰色の光の中に——
“死んだはず”の匂いを纏った影が、二つ立っていた。
◇
最初に視線が捉えたのは、少年のほうだった。
ライトメイスからメイス盾へ。
村の推薦状を携え、三つの依頼をこなし、
死の砦行きの特別任務を告げられたときも、ほとんど揺れを見せなかった少年。
——ちゃたろ〜。
全身濡れているのに、その歩みは崩れていない。
鎧の縁には乾ききらない血と泥。
目の下には深い疲労の影。
それでも、その眼は、砦に向かう前と同じように「静か」だった。
(……生きて、戻った)
想定の外側の事象が、現実として目の前にいる。
わたくしの指先が、帳簿の上で僅かに止まる。
その隣に、小さな影が立っていた。
フィーネではない。
年の頃は、十にも満たないだろうか。
大きすぎる外套にすっぽりと身を包んだ少女。
顔色は悪く、唇は青い。
だが、眼だけは妙に冴えていた。
焦点の合い方が、普通の子どもと違う。
遠くの何かと、近くの何かを同時に見ているような目。
(……この子も、“向こう側”をかすめてきた)
死の匂いを知っている者の瞳だ。
ただ怯えているだけの子どもなら、もっと濁る。
けれど彼女の瞳には、恐怖に染まり切らない透明さが残っていた。
「……次の方」
列を整理し、わざといつもと同じ調子で声をかける。
ざわめきは、わたくしのその一言で、かろうじて“日常”の体を取り戻した。
少年は、少女をかばうように半歩前に立ち、こちらへ歩み寄る。
足取りにふらつきはある。
けれど、それは疲労ゆえであって、恐怖ゆえではない。
わたくしの前で足を止めたとき、その眼差しが一瞬だけ揺れた。
王都の空ではなく、
このギルドの天井でもなく、
ましてわたくしの顔でもない。
——何か、背後のもっと遠いものを、一瞬だけ確認するような視線。
(……砦の底を、見てきましたのね)
心の中だけで、そっと呟いた。
◇
「……お帰りなさいませ。
無事で、何よりですわ」
口から出た言葉は、形式的なものだった。
本来なら、ここで「死亡報告」の補正処理に入るはずだった。
“生還者なし”として整理されるはずだった書類を、“あり”に書き換えねばならない。
けれど、書類の修正よりも先に、この目で確かめたいことがあった。
「任務の報告書は、お持ちで?」
少年は、濡れた外套の内側から、一つの封書を取り出した。
紙は湿っているが、文字は読める程度には守られている。
わたくしはそれを受け取り、封を切った。
中身は、驚くほど簡素だった。
《死の砦内部、調査困難。
霧状の魔力濃度高く、侵入者の精神・肉体に異常影響あり》
《同行者の一部、霧に呑まれ消息不明》
《砦内部構造、変容の兆候》
《これ以上の人員投入は、危険性高》
——それだけ。
具体的な階層構造も、
遭遇した現象の詳細も、
戦闘の描写も、ほとんどない。
(……“語れない”のか、“語らない”のか)
文章の端々から伝わるのは、丁寧さでも怠慢でもなかった。
砦という場所そのものが、
言葉にした瞬間、嘘になる類いのものだと理解している者の書き方。
目の前の少年が、そこまで自覚的なのかどうかはわからない。
でも、少なくとも“無理に説明しようとしていない”ことだけは分かる。
「死者の確認は?」
わたくしの問いに、少年は一瞬だけ目を伏せた。
その仕草に、フィーネの面影がよぎる。
霧の向こうに消えていったであろう少女。
死と生の境界に、あまりにも近すぎた魂。
「……戻ってこなかった」
それだけ。
名前も、状況も、彼は口にしない。
でも、それだけで十分だった。
(フィーネ。——死亡。
これは、“予見どおり”)
帳簿の端に、赤い印をつける自分の手つきが、ほんの少しだけ重く感じた。
一方で。
その隣に立つ、名も知らぬ少女は、生きてここにいる。
霧の境界をかすめ、
砦の底を覗き込んだはずの眼をしながら、
それでも「こちら側」に戻って来ている。
(この子は、名簿に載っていなかった)
わたくしが把握している限り、死の砦に送られていた名簿には、この年頃の少女の名前はない。
つまり——
「そのお嬢さんは、砦の内部で?」
少年が、微かにうなずく。
「生きてた。
……そこに置いておくわけには、いかなかった」
簡潔な言葉。
だけど、その一行の裏には、相当数の“選択”が詰まっているとわかる。
(砦に囚われていた者か、
あるいは、契約破棄の際に取り残された者の血筋か。
どちらにせよ、“この国の帳簿には存在しない子”)
本来なら、連れ帰るべきではなかったのだろう。
砦の歴史を知る者たちにとっては、
この子の存在そのものが“余計な真実”になる。
けれど——
目の前の少年は、そういう計算で動かない。
(この子を置き去りにする未来を、この子自身に選ばせなかった)
そういう種類の“異物”。
◇
「では、生存者二名。……いえ、一名と、一名“保護対象”。
死者多数。霧に呑まれ、遺体の回収は不可能」
事務的に言葉を整えながら、わたくしは帳簿をめくる。
死の砦に関わったものは、本来すべて闇に封じる。
生還者が出たという事実すら、本当は“不都合”な情報だ。
(それでも——)
目の前で息をしている者を、
「いなかったこと」にはできない。
それが、わたくし個人の倫理なのか、
ギルド職員としての矜持なのか、
それとも単に“算盤の癖”なのかは、自分でも判然としない。
「保護対象のお嬢さんについては、身元の確認が必要ですわね」
少女は、わたくしの言葉にびくりと肩を震わせた。
濡れた前髪の隙間から覗く瞳が、
わずかにこちらに向く。
怯えと、警戒と、それから——
かすかな期待。
名を問おうとして、わたくしは唇を閉じた。
(……今、ここで名前を与えるべきではありませんわね)
砦の底から戻ってきたばかりの魂に、
この王都の記録用の名を貼りつけるのは、まだ早い。
彼女が自分で口にするときまで、
せめてそれくらいの余白は残すべきだ。
「身元不明の少女として、一時的にギルド保護扱いといたします。
そのうえで、孤児院への斡旋手続きを——」
「待ってくれ」
少年の声が、その言葉を切った。
鋭くも荒くもない。
ただ、真っ直ぐにこちらへ伸びてくる声。
わたくしは、ゆっくりと目を上げる。
「……何かしら?」
「その子は……」
一拍の間。
ほんの短い沈黙の中で、
少年の視線が横の少女に向かう。
砦の霧の匂いをまだ纏った、小さな肩。
この王都のどこにも居場所を持たない、小さな背中。
それを見下ろす彼の眼が、わたくしにははっきり見えた。
「その子は、俺が……見る」
“引き取る”という言葉を選ばなかったのは、
彼がこの街の制度をよく知らないからか。
あるいは、あえて“自分の枠”を限定しようとしたのか。
どちらにせよ、その宣言は十分だった。




