81. 【番外編】 運と勝負の神の事情 5/13
運と勝負の神は、ただただ愛し子を見守っていた。
生まれてきたのは、小さな小さな命。
神の庭に降り立つその瞬間から完成形である神からしたら、人の子こそ神秘そのものだった。
泣いては眠る小さな塊が、気がつけば体が大きくなり、自分で動くようになる。
大きくなる。大きくなる。
当たり前のことらしいが、生まれた時のフォルムとその小ささが衝撃的過ぎて、そしてそこからの変化が激し過ぎて、運と勝負の神は片時も目が離せなくなった。
愛し子は、いわゆる『裕福』な環境下にはないようだった。最初はそれなりだったようだが、住む場所が変わり、身なりが変わり、暮らし向きが変わるにつれ、愛し子の両親は喧嘩が絶えなくなった。その片方、父親というらしいが、それが、愛し子に暴力を振るい始めた。
人の子は弱い。
その未完成形はもっと弱い。
そのことを、運と勝負の神はもうわかっている。
充分に食べなければ弱り、病気になる。適切な体温を保つために適切な衣服を着なければ、病気になる。殴られれば、怪我をする。
罵られ続ければ、心が弱る。
ソラ・ティリオスは、誓約通り、愛し子をあえて見ず、関わりを持たないようにしている。だから、愛し子の今の状況を、ソラ・ティリオスは把握していない。
運と勝負の神も、誓約を破るわけにはいかない。これはソラ・ティリオスが消されないための挑戦であって、自分が愛し子に手を出すことで、ソラ・ティリオスの心を壊してしまったら本末転倒だ。
だが。
日に日に笑顔をなくして、言葉少なくなっていく愛し子を見るのは辛かった。
辛いのに、目が離せない。
ある日、とうとう愛し子が命に関わるほどの熱を出した。
命には、輝きがある。神にはそれが見える。愛し子のそれが、ひどく儚いものになっているのを見て、運と勝負の神はひどく動揺した。
愛し子がいなくなれば、挑戦が失敗に終わる。
一番に心配しなければいけないのはこのことだったはずだが、運と勝負の神の心の内には、その時そのことは、かけらも浮かばなかった。
(嫌だ)
ただ嫌だった。
喪われるかもしれない。そのことに、恐怖にも似た感情に襲われた。
(嫌だ)
まだ、見守っていたい。生まれてまだほんの、数年しか経っていない。
それは神にとって、まばたきすらもできないような短い時間。
愛し子を通してこの箱庭を見るようになって、わかったことがある。
命あるものの住む場所は、ただ薄明るいだけの神の庭よりもずっと、美しい。
ただそれと同じだけ、「生きて」いくためには過酷な場所でもある。
だから、箱庭には調整が必要なのだ。
命あるものが「生きて」いくことは難しい。だが、過酷な環境だからこそ、まばゆいほどにその有り様は美しい。
箱庭の調整ができない自分が、愛し子に優しい環境を作ってやれない自分が、初めて悔やまれた。
(嫌だ)
何とかしなければ。追い立てられるようにそう思った。
(こいつはまだ、何も見ていない)
愛し子が、この挑戦のために失われてはならない必要不可欠なパーツだからではない。
ソラ・ティリオスが消されるからでも、自分が名付けられず消えゆくからでもない。
ただ、愛し子に生きてほしかった。
このままでは、愛し子は―――。
運と勝負の神は、衝動的に愛し子にありったけの力を行使した。
***
「悪かった」
運と勝負の神は、ソラ・ティリオスのもとを訪れていた。
ソラ・ティリオスは、弱りきって、横たわったまま体を動かすこともままならない。
愛し子に運と勝負の神が「手を出し」たことは、すぐにソラ・ティリオスに伝わった。ソラ・ティリオスは、激しい嫉妬と本能的な嫌悪感、怒り、それに伴う身体的な痛みと戦って、消耗した。
「誓約を破った。俺を痛めつけてもいい」
運と勝負の神は、ソラ・ティリオスのあまりの憔悴ぶりに、表情を曇らせた。
本能と抗う、というのは並大抵のことではないのだと知れた。名付けられた神でなければ、消滅していたかもしれない。
命あるもので言えば、飲食を許されない、眠ることを許されない。きっと、そういう根本的なレベルの苦痛。それに、ソラ・ティリオスは耐えていた。
ただ「俺を消してもいい」、とは言えなかった。挑戦の成功うんぬん以前に、神が神を減らしたら、全能神に呼ばれて、消される。
ソラ・ティリオスは、わずかに顔だけを運と勝負の神に向けて、弱く笑んだ。
「謝るな。お前は必要なことをした。あのままだと、愛し子は死んでしまっていたのだろう? 自分ではどうしようもないところでひどく感情が波立ったが、一方で、愛し子を救ってくれたことに感謝してもいる。こちらは私の意思だ」
「すまん。正直、挑戦のことはあの時頭になかった。ただ、衝動的につい」
うなだれる運と勝負の神に、ソラ・ティリオスは天を向いて、小さく笑った。
「そういうもんなんだ。まだお前に愛し子と会話をすることを許してやれそうにはないが、いつか、愛し子と会話をしたら、わかる。話をするだけでも浮き立つような気持ちになるし、好意を向けられたら、嬉しさに何でも叶えてやりたい衝動に駆られる」
そんな日が、来るだろうか。
そもそも、ソラ・ティリオスが、愛し子に手を出されて平気になる日が、来るだろうか。
「何にしろ、改めて俺はお前に誓いをたてる。お前がいいと言うまで、俺は愛し子に手を出さない。ペナルティを課してもいい」
すると、ソラ・ティリオスは穏やかに笑む。
「ペナルティなんか必要ない。思いがけずの荒療治が、効いているようだ。その時は、意外に早く来るかもしれないぞ」
「どういうことだ?」
「お前が愛し子に力を付与したことで、愛し子の私への影響力が弱まっている。たぶん、『お前の』愛し子になりかけているんだ。だからと言って、まだ会話を許せるわけじゃないが」
(俺の、愛し子)
ぞくりとするような、響き。
いつか。
話せる時が来る、かもしれない。
挑戦が大前提。やるべき課題がある。本題はそこじゃない。
(わかってる)
でも、その時を焦がれるように願う自分がいる。
「ソラ」
透き通った声が、後ろから響いた。
「ユン」
シェ・エル・リラ・ユンが、こちらに向かって歩いてくる。
ソラ・ティリオスが、彼女を迎えるために起き上がろうとして、失敗した。
「無理をせずともよい。そのままで」
(あー)
シェ・エル・リラ・ユンが、恋人の見舞いに来たらしい。
神に体調不良はない。だから自分たちが何かを「やらかしている」のは察しているだろう。
尋ねられても困る。それに邪魔者は、疾く去らねば。
「俺は帰る」
返事を待たずに踵を返した。
春の女神はゆっくりとこちらに歩いてくる。
すれ違う、その時。
「我に隠れて、何やらこそこそしているようだな?」
「「!」」
薄い笑みで囁かれ、運と勝負の神はぴくりと肩を揺らした。
聞こえていたのだろう。ソラ・ティリオスも同じタイミングで体が揺れていた。
ぎこちない動作で、運と勝負の神は首をシェ・エル・リラ・ユンに向けた。
「何を言って」
「盲点だったな」
運と勝負の神の言葉を遮って、シェ・エル・リラ・ユンは笑みを深くした。
「な、何が」
「我は、愛し子は一度きりなのだと思い込んでおった。それが盲点だった。名をもらい、加護を施しているところに、まさかもう1人、愛し子を生み出せるとは思わなんだ」
「ユ、ユン」
ソラ・ティリオスは慌てるように名を呼んだが、それ以上の言葉が続かない。
(ばれてんな)
ソラ・ティリオスが、自らが加護を与えている土地にもう1人愛し子を生み出したことが、シェ・エル・リラ・ユンに、知られてしまっている。
「警戒せずともよい。お前たちが仲が良いのは、何やら我にとっても心地が良い。何をしようとしているのか、我は詮索しようとも思わぬ。ただ、今回は少ぅし、無理が過ぎたようだな」
シェ・エル・リラ・ユンは緩く笑んで、横たわるソラ・ティリオスの傍らに流れるような動作で座り、その長い金の髪をさらりと掬うように撫でた。
ソラ・ティリオスは、されるがままに目を閉じている。
(帰ろう)
漂い始めた甘ったるい空気に、運と勝負の神は、今度は断りを入れることもなく、2人にくるりと背を向けて歩き出した。
そもそも、こちらから漏らさなければ、ばれる分には『法に抵触しない』のだ。こんなこともあろうかと、全能神に確認しておいて正解だった。
詮索はしない、とも言われた。であれば、さすがに挑戦のことにまでは行きつかないだろう。問題はない。
「ちょうど良いと思うて、我もやってみたのだが」
シェ・エル・リラ・ユンが放った無邪気なその一言に、その場は凍り付いた。
エピソード前半の部分は、本編『13. 発熱』にあるラルフの幼少時の記憶の、運と勝負の神視点になります




