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第二十章 十年分の沈黙

 翌朝、侍女のリアが封書を持ってきた。


 蝋封に押された印章を見た瞬間、私の手が少し止まった。


 王家の紋章だった。


 封を開けると、短い文が書かれていた。


*本日昼前、北の小広間にてお待ちする。供は不要。——国王*


 私はその紙を二度読んだ。三度目は読まなかった。読んでも変わらないから。


---


 シリルに伝えようとした。


 でも回廊で見かけた彼は、すでに別の誰かと話していて、目が合った瞬間に「わかった」という顔をした。何も言わなかったのに、何かを受け取った顔だった。


 情報屋とはそういうものか、と思いながら、私は北の小広間への道を頭の中で確認した。


---


 北の小広間は、宮廷の奥まった位置にあった。


 廊下の突き当たりで、扉の前に近衛兵がふたりいた。私が名を告げると、何も言わずに扉を開けた。


 部屋に入ると、国王がひとりでいた。


 昨夜の晩餐会と違い、豪奢な礼服ではなかった。落ち着いた紺の上着に、書類が何枚か手元にある。窓際の椅子に座って、こちらを見ていた。


「来たか」と国王が言った。「座れ」


 昨夜より声が低かった。人前用の声ではない。


---


 向かいの椅子に腰を下ろした。


 正面から見ると、疲れはさらに明らかだった。目の下の翳りが深い。それでも背筋は伸びていて、体の芯に力が残っているのがわかった。


「ローゼンベルグという名前を聞いたのは、久しぶりだった」国王がゆっくり言った。「昨夜は驚いた」


「……母のことをご存じでしたか」


「エリナ=ローゼンベルグのことは、当然知っている」国王が言った。「彼女が調査を命じられたのは、先王陛下の直命だった。私も経緯を把握していた」


「では、母が亡くなったことも」


「知っている」


 静かな声だった。重い静かさだった。


「エリナさんに幼い娘がいることは、宮廷の記録にも残っていた」国王が私を見た。「きみが後宮に来ると知ったとき——すぐにわかった。あの人の娘だと」


---


 私は胸の中に何かが沈むのを感じた。


「なぜ私を呼んでくださったのですか」と私は聞いた。


 国王が少しの間、黙った。


「きみに聞きたいことがある」と彼は言った。「エリナの記録の最後の三日分を、きみは読んだか」


 心臓が一拍、強く打った。


 読んだと答えるべきか。どこまで知っているかを悟らせないまま、この人間の言葉を引き出すべきか。


「写しを見ました」と私は答えた。「侯爵が持ってきました」


 国王の表情が、わずかに引き締まった。


「侯爵が」


「はい。東棟の庭で、私に接触してきました」


「……何日前だ」


「四日前です」


 国王が書類を机に置いた。手を組んで、少し俯いた。


---


「その写しに、何が書かれていたか」と国王が言った。


「アルドリックという名前が繰り返し出てきました」と私は答えた。「エリナは彼の動きを追っていた、と記録にありました」


「他には」


 私は少しの間を置いた。


「それ以上の詳細は、まだ読み込めていません」


 嘘ではなかった。「国王の名前が記録にあった」という事実は言わなかった。それが嘘かどうかは、今は考えなかった。


 国王が私を見た。何かを測るような目だった。


「そうか」と彼は言った。


---


 しばらく沈黙があった。


 国王が立ち上がり、窓の外を見た。中庭に面した窓で、昼の光が差し込んでいた。


「アルドリックのことを話す」と国王が言った。


 私は何も言わずに続きを待った。


「十五年前、彼は先王陛下の側近として優秀な人間だった」国王がゆっくり話した。「私も信頼していた。政治の機微を理解し、行動が早く、誰からも好かれていた」


「……でも」


「ある時期から、動きが変わった」国王が言った。「私には気づけなかった——いや、気づかないようにしていた。アルドリックが私に見せていたのは、常に都合のいい顔だった」


---


「エリナが警告を送ってきたとき」と国王が言った。「私は信じなかった」


 声が低くなった。


「アルドリックが先に来ていた。エリナは政治的に動いている、先王陛下の意向を超えた動きをしている——そう言った。私はそちらを信じた」


「アルドリックの言葉を」


「ああ」


 短い一音だった。でも長い年月の重さがあった。


「エリナが亡くなってから、初めてわかった」国王が言った。「アルドリックが私に見せていた証拠は、全部作られたものだった。私はそれを、確かめもせずに信じた」


---


 部屋の中が静かになった。


 私は目の前の人物を見た。


 罪を犯した人間の顔だった。意図的ではなかったかもしれない。騙された、と言うこともできる。でも——彼が信じることを選んだのは、エリナではなくアルドリックだった。なぜかは、今の言葉の中に既にあった。都合がよかったから。


「なぜ今、私に話してくださるのですか」と私は聞いた。


 国王が振り返った。


「アルドリックがまた動いているからだ」


---


「また、とは」


「後宮で起きていることを、私は把握している」国王が言った。「レオンが内密に調査しているのも知っている。だが——公式には動けない。動けば、十年前の私の沈黙も表に出る」


「では」


「だから動かない」国王が静かに言った。「十年前と同じように、また動かないでいる」


 自分を責めているのかどうか、読めなかった。事実として述べているだけのように聞こえた。でもその淡さが、むしろ長い間そう生きてきた人間のものだと思った。


「アルドリックが動くのは、いつも同じ時期だ」国王が続けた。「王位の継承が動くとき。先王が世継ぎの問題を抱えていたとき、彼は動いた。今は——レオンの選定が始まった」


「継承を不安定にするために」


「そうだ。候補者を潰し、選定を長引かせ、王家の信頼を削る。それがこの国で権力を動かす最も安全な方法だと、彼は十五年前から知っている」


---


 私は頭の中で、今聞いた言葉を整理した。


 アルドリックが宮廷の政治を理解している。継承の隙間を狙う。レオンを廃位させたいのは、別の王族を立てるためだ——では、その「別の王族」とは誰か。


「陛下」と私は言った。「アルドリックが擁立しようとしている王族は、誰だとお考えですか」


 国王の顔に、初めて困惑に似た何かが出た。


「……それは、まだわからない」と彼は言った。でも視線が一瞬、横に逸れた。


 わからない、ではない。言えない、だ。


 私は追及しなかった。今は追及する場面ではないと判断した。


---


「ひとつ、お願いがあります」と私は言った。


「何だ」


「エリナの調査を続けることを、黙認していただけますか」


 国王が私を見た。


「既にレオンが進めている」


「私が動けることがあります」と私は言った。「候補者という立場で見えるものがある。もし動きすぎて壁に当たったとき、エリアス医師を通じて陛下の名前を使っていいか確認したかった」


 国王が少しの間、黙った。


「エリアスには話を通しておく」と彼は言った。「だが——表に出るな。エリナがどこで躓いたか、きみはわかっているはずだ」


「わかっています」


「ならいい」


---


 帰り際に、国王が言った。


「エリナさんのことは、今も覚えている」


 私は扉の前で止まった。


「薬草園で仕事をしている姿を、何度か遠くから見ていた」国王が言った。「真面目で、賢い人だった」


 私の喉が少し詰まった。


「……ありがとうございます」


「きみには」国王が少し間を置いた。「母親の目がある」


 それだけだった。


 私は礼をして、扉を出た。


---


 廊下に出て、少し歩いた。


 足が止まった。石の壁に手をついた。


 泣きそうだった。


 なぜかは、うまく説明できなかった。国王に感謝したわけではない。彼の沈黙を許したわけでもない。ただ、母のことを、この宮廷で覚えている人がいた。真面目で、賢い人だった、と。


 十年前に消えた人のことを、十年後にこうして聞いた。


 廊下の端に少しの間立っていた。息が整うまで。


---


 シリルに報告したのは夕方だった。


 聞いた順に話した。国王がアルドリックに騙されていたこと。十年前の沈黙の理由。アルドリックが継承の隙間を狙って動く法則。そして——国王が「言えない何か」を持っていること。


「別の王族の名前を言えなかった」


「そうです」


 シリルが腕を組んだ。


「それは、レオン殿下も知らない可能性がある」と彼が言った。「知っていれば、最初からそこを突破口にできたはずだ」


「では新しい情報だ」


「ああ」シリルが言った。「アルドリックが担ごうとしている人間がいる。それを国王は知っていて、言えない。言えない理由は——その人間が、現在の宮廷の中にいるからじゃないか」


 私は少しの間、黙った。


「宮廷の中に、別の王族候補がいる」


「可能性として」シリルが静かに言った。「ヴァルター殿下を除けば、該当しそうな人間は多くない」


---


 ヴァルター。


 審査員。レオンの弟。いつも柔らかい笑みを持っている、あの人。


 私は何も言えなかった。


「断定ではない」とシリルが言った。「まだ何も証拠はない。だが——今の段階で一番考えたくない名前が、一番考えるべき名前かもしれない」


 窓の外で、風が樹木を揺らした。


 葉の音が、しばらく続いた。


---


 夜、手記を開いた。


 日付を書いてから、ペンが止まった。


 今日聞いたことを全部書くべきか。でも書いた。エリナがそうしたように、書いた。


 最後に一行書いた。


 *ヴァルター殿下の笑顔を、私はまだ信じていいか。*


 ペンを置いて、手記を閉じた。


 答えはまだ、出ない。

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