第十九章 知っている顔
眠れなかった。
というより、眠ろうとしなかった。
部屋の天井を見ながら、頭の中で何度も同じ線を引いた。エリナ。アルドリック。先王の死。エリナの警告。大公の沈黙。大公が王になった年。レオンが十七で記録を読んだ年。
線と線が交差していく。十年という時間が、一本の糸に見え始める。
窓の外が白んできたころ、私はようやく起き上がった。
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朝の早い時間にシリルを捕まえたのは、中庭の噴水前だった。
彼はひとりでベンチに座って、何かの羊皮紙を読んでいた。私が近づくと顔を上げ、「昨夜どうだった」とすぐに聞いた。普段のからかいを含んだ声ではない。事務的な声。
「話します」と私は言った。「全部」
シリルが羊皮紙を折り畳んで、場所を移した。人目を避けられる回廊の端、石の壁に沿って立つ場所。ここを知っていること自体、彼がこの宮廷を隅まで把握していることを示していた。
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話した。
レオンが最後の三日分を隠していた理由。現国王の名前が記録にあること。十年前、エリナが警告を届けたこと。当時大公だった現国王が、動かなかったこと。
シリルが黙って聞いていた。
珍しかった。彼はいつも、話の合間に言葉を挟む。でも今日は最後まで何も言わなかった。
私が話し終えると、沈黙が少しの間続いた。
「……それは」シリルがゆっくり言った。「レオン殿下が直接言ったのか」
「はい」
「名前まで」
「はい」
シリルが一度、軽く目を閉じた。珍しい動作だった。
「わかった」と彼は言った。「把握した」
「把握した、だけですか」
「今は把握するだけでいい」シリルが目を開けた。「情報の重さに対して、早く動くのが一番危ない」
そうかもしれない、と私は思った。
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「一つ、聞いていいか」とシリルが言った。
「何ですか」
「アリアはレオン殿下を信じているか」
答えが出るまで、少し時間がかかった。
「信じています」と私は言った。「全部ではないかもしれない。でも——隠していた理由は、わかった」
「わかったことと信じることは、違う場合もある」
「でも私の場合は同じです」
シリルが私を見た。何か言いたそうだったが、言わなかった。
「……そうか」とだけ言った。
それが承認なのか警告なのか、少し読めなかった。
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「実は俺も昨日から動いていた」とシリルが言った。「東棟の件とは別に、もう少し前から追っていたことがある」
「アルドリックについてですか」
「そうだ」彼が羊皮紙を広げた。「王都の商業記録を調べていた。十二年前から王都に居を構えた商人の中に、出身地の記録が不自然に薄い人間がいる」
羊皮紙には名前と住所が記されていた。
「カルロス=ヴェーン」シリルが指で名前をなぞった。「王都の香辛料商。十二年前に南方から移住、と記録にはある。だが南方の都市の記録を照合すると、その名前が存在しない」
「十二年前というと」
「アルドリックが宮廷から消えた三年後だ」シリルが言った。「名前を変えて潜伏するなら、それくらいの時間をかけて身分を作り直す。南方経由にしたのは記録の照合が遅くなるからだろう」
私の心拍が少し上がった。
「その商人が」
「断定はできない」シリルがすぐに言った。「でも、昨日侯爵が接触してきたタイミングと、この商人の動きが重なっている」
「重なっている、とは」
「最近、王都の内廷寄りの取引を急に増やしている」シリルが紙を折った。「侯爵の使う業者と、取引先が三件被っている」
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私は少しの間、考えた。
「侯爵とアルドリックが、今もつながっていると思いますか」
「侯爵は『アルドリックが実行犯だ』と主張していた」シリルが言った。「でもその主張自体が、アルドリックとの距離を意図的に作っているように見える。近すぎる人間が離れて見せるときの演技だ」
「二つの勢力が、実は一つだとしたら」
「あるいは、分離しているように見せて互いを利用しているか」シリルが肩をすくめた。「まだわからない。ただ——今夜の晩餐会には、この商人の名前も招待客の中にある」
「今夜——晩餐会ですか」
「ああ」シリルが私を見た。「陛下が主催する候補者歓迎の宴だ。候補者全員、出席が求められている」
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晩餐会の知らせは、昼前に正式に届いた。
参加候補者の名前が全員記されていた。私の名前もあった。
宴の主催者の名前が、一番上に書かれていた。
国王陛下。
私はその文字を、しばらく見た。
現国王。先王の弟。十年前、エリナの警告を受けて黙っていた人間。
名前ではなく称号で書かれたその文字に、私は初めて実感を持った。
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夕刻、衣装を整えながら鏡を見た。
後宮入りの候補者として、見栄えを整える必要がある。淡い緑の夜会服は、後宮の調度係が選んで準備してくれたものだ。髪は侍女のリアが丁寧に結い上げてくれた。
「おきれいですよ」とリアが言った。
「ありがとう」
「緊張されていますか」
「少し」と私は答えた。
少し、ではなかった。でも、全部を言葉にする必要もなかった。
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晩餐会の広間は、これまで入ったどの部屋よりも広かった。
天井には大きなシャンデリア。テーブルには白いリンネルと銀食器。招待客が少しずつ集まりはじめていた。貴族の男女、内廷の高官、宮廷に出入りする商人たち。
私は入口付近に立って、室内を見渡した。シリルが言っていた名前を頭の中で繰り返す。カルロス=ヴェーン。香辛料商。南方からの移住者。
部屋の右側に、見覚えのない中年の男性がいた。やや小柄で、灰色の髪。笑顔で周囲と話しているが、目が笑っていない。
私は視線をそちらに置きながら、別のことを考えた。
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ファンファーレが鳴った。
扉が開いた。
室内の全員が礼をとった。私も同じように体を折りながら、顔だけ少し上げた。
国王が入室してきた。
先王の弟。六十前後だろう。黒髪に白が混じり、体格は均整がとれている。顔立ちは整っていた。ただ——
疲れていた。
笑っているが、目の下に影があった。体の奥に何か重いものを入れたまま、それを隠すために表情を作っている、そういう顔だった。
この表情を、私は知っている。
父が、毎晩そういう顔で帰ってきた。
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着席が始まった。
私の席は末席寄りだったが、テーブルが長いため、上座との距離はそれほど遠くなかった。斜め前方に現国王がいる。
料理が運ばれてきた。会話が始まった。私は隣の候補者と当たり障りのない話をしながら、視野の端で室内を観察した。
シュタイン侯爵が、中ほどの席にいた。私の方は見ていなかった。でもときおり、視線が泳ぐ方向がわかった——カルロス=ヴェーンのいる方向だ。
つながっている。
私は料理に視線を落として、ゆっくり息を吸った。
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食事が半ばを過ぎたころ、国王が席を立って室内を歩き始めた。招待客に直接声をかける、宮廷の慣習らしかった。
候補者のテーブルにも立ち寄った。
ひとりずつ名前を呼んで、短い言葉を交わしていく。私の番が来た。
「アリア=ローゼンベルグ」
国王が私の名前を呼んだ。
その瞬間、国王の顔に何かが走った。
ほんの一瞬だ。ほとんどの人間には見えなかったはずだ。でも私には見えた——その目が、私の顔をほんの少し、余分に見た。
「よく来た」国王が言った。普通の声だった。「薬師の家の娘だと聞いている」
「はい」
「後宮の空気は合っているか」
「慣れてまいりました」
「そうか」国王が少し微笑んだ。「健やかに過ごせ」
それだけで、次の人間のところへ移った。
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私はしばらく、前を向いたまま座っていた。
国王は私の顔を見た。余分な一瞬だけ、見た。
ローゼンベルグという名前を聞いて——エリナの名前を思い出したのか。あるいは、私の顔に何かを見たのか。
わからない。でも、何かがあった。
向かいの席で、レオンが静かに食事をしていた。こちらを見ていなかった。でも——私が国王と話すあの瞬間、彼の手の動きが一度止まったことに、私は気づいた。
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宴が終わった。
帰り際、人波に乗りながら廊下へ出た。背後から声がした。
「アリアさん」
振り返ると、シリルだった。表情が普段より二段ほど低かった。
「見えたか」と彼は言った。声が低い。
「はい」と私は答えた。「侯爵が、ヴェーンの方向を見ていました」
「俺もそれを確認した」シリルが少し間を置いた。「もう一つ」
「何ですか」
「宴の途中、ヴェーンが席を立って戻ってきた時間があった」シリルが言った。「十分間だ。ちょうど侯爵も席を外していた」
私は何も言わなかった。
「接触している」シリルが静かに言った。「この宮廷の中で、今夜も」
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その夜、部屋に戻ってから手記を開いた。
日付を書いて、ペンを止めた。
今日起きたことを、全部書き留めるべきか考えた。でも書いた。書かないと、頭の中で形が崩れていく気がした。エリナも、きっとそうだったのだろう。
手記の最後に、一行だけ書いた。
*国王の目に、何かがあった。*
ペンを置いた。
あの一瞬の沈黙が、頭から離れなかった。
国王は私の顔を知っていた——そういう気がした。名前ではなく、顔を。
でもなぜ。
私は窓の外の夜を見た。
答えはまだ、どこかにある。




