第十八章 最後の三日分
深夜の廊下は、昼間とは別の建物になる。
松明の間隔が広く、足音を拾う壁がある。自分の息が聞こえる。昼間なら気にもとめない距離が、夜はずっと遠く感じる。
レオンの執務室は、後宮の西端から二棟渡った主塔の三階にある。エリアスを通じて「今夜、お話しできますか」と伝えると、一時間も経たないうちに「来い」という短い返事が届いた。
来い、とだけ書かれた紙を、私はいまだに内ポケットに持っている。
扉をノックすると、「入れ」という声がした。
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執務室はひとりだった。
レオンは窓際の机に向かっていた。机の上には書類の山。椅子の背もたれに体を預けているが、両手はまだ羽根ペンを持っていた。
「遅かった」
「……道に迷いました」
噓ではない。一度、廊下を折り返した。
レオンがこちらを見た。群青の瞳が、あの光量の中でも暗さを持っていた。
「座れ」
促されたのは机の対面ではなく、暖炉の前に置かれた二脚の椅子のひとつだった。これまでと違う配置に、私は少し止まった。機密の話をする場所と、そうでない場所を、この人はおそらく意識して使い分けている。
暖炉の前に座ると、レオンもペンを置いて立ち上がり、向かいの椅子に腰を下ろした。
「何があった」
「今日、シュタイン侯爵に会いました」
間があった。短い間だったが、確かにあった。
「どこで」
「東棟の薔薇庭園です。向こうから接触してきました」
レオンの顔は変わらなかった。変わらないことで、何かを抑えているとわかった。
「何を言った」
「アルドリックという名前を知っていますか」
今度は間がなかった。レオンはただ、黙った。
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沈黙が続いた。
暖炉の火がはぜる音だけが室内に満ちていた。私はその音を聞きながら、内ポケットから紙を取り出した。
「侯爵が見せてきたものです」と言いながら、テーブルに置いた。「エリナの記録——最後の三日分の写しだと言っていました」
レオンが紙を見た。手は伸ばさなかった。ただ見た。
「……本物だと思いますか」と私は聞いた。
「見なくてもわかる」レオンが答えた。「本物だ」
室内の温度が、少し下がった気がした。
「レオン殿下」
「わかっている」彼が言った。「何を聞きたいか」
私は正面から、その群青の瞳を見た。
「どうして、見せてくれなかったんですか」
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レオンが立ち上がった。
窓の方へ歩いて、外を向いた。夜の庭は暗く、窓ガラスに彼の輪郭が映っていた。
「その記録を最初に手に入れたとき——私はまだ十七だった」
声のトーンが、いつもより低かった。当たり障りのない表面の声ではなく、もっと奥から来る声。
「エリナの死の翌月だ。彼女が残した手記の写しが宮廷に出回って、一部が私の手に渡った。古い記録管理の担当者を通じて、全文を集めようとした。ほとんどは集まった」
「ほとんど、は」
「最後の三日分だけ、別の場所に保管されていた」レオンが振り返った。「エリナは意図的にそこだけ分けていた。誰かに読まれることを予期していたんだろう。あるいは——誰かに読ませたくなかったか」
私は黙って続きを待った。
「その三日分を見たとき、アルドリックの名前だけではなかった」
レオンが、少し間を置いた。
「もうひとつの名前があった」
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「誰の名前ですか」
直接聞いた。
レオンは答えなかった。窓から部屋の中に視線を戻し、暖炉の火を見た。横顔に影が落ちていた。
ずっとそういう顔をしていたのだと、私は気づいた。初めて会った茶会のとき。古文書室でエリナの話をしていたとき。どこか疲れたような、でも隙のない、あの表情。それが、ずっとこの重さを抱えていた顔だった。
「一つだけ、答えてもらえますか」私は言った。「その名前は——今も生きている人の名前ですか」
レオンの顎が、少し動いた。
「ああ」
私の心臓が、一拍だけ大きく打った。
「エリナは、その人物に警告を出したと書いていました」レオンが静かに言った。「アルドリックの動きを知った。止めてほしいと。記録に名前があるということは、報告が届いたということだ」
「届いたのに」
「届いたのに、その人物は動かなかった」
暖炉の火がまた、一度はぜた。
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私はしばらく、何も言えなかった。
頭の中でいくつかの場面がつながっていく。レオンがひとりで調査を進めていた理由。エリアスにだけ話を通していた理由。私に最後の三日分を見せなかった理由。三年前、侯爵が薬師の娘を後宮に入れようとしたとき、阻止したのが他の誰でもなくレオン自身だった理由。
「三年前に侯爵を阻止したのも」私は言った。「その名前を守るためですか」
レオンが目を閉じた。一瞬だけ。
「違う」
低い声だった。
「きみの母親を、あの人間の手の届く場所に入れたくなかった」
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室内が静かになった。
私は胸の中に何かが落ちる感触を覚えた。柔らかいものではなかった。重いものが、ゆっくり沈んでいくような感触。
「……母のことを、知っていたんですか」
「エリナの記録の中に、きみのことが書いてあった」レオンが言った。「エリナは調査記録とは別に、個人的な手記を残していた。そこに娘のことが書かれていた。薬草の匂いを嗅ぎ分ける子がいる、と」
私の指先が、膝の上で少し震えた。
「母が、私のことを書いていた」
「ああ」レオンが言った。「調査が煮詰まって、感知の体質を持つ人間を探していたとき——エリナの手記にあった娘の記述が浮かんだ。調べたら、きみに同じ体質があることがわかった」
つまり最初から、私はこの物語の中にいた。
生まれたときから、ここに引き寄せられるような場所にいた。
「……怒っています」と私は言った。「嘘をついていたことに」
「そうだろう」
「でも」
私は一度、深く息を吸った。
「なぜそこまでしてひとりで抱えていたか、は——わかります」
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レオンが私を見た。
何かを問うような目だった。いつもは感情が漏れない、あの群青の瞳が、少しだけ表情を持っていた。
「私の父も同じことをします」と私は言った。「誰にも言えないことを、全部顔の下に押し込んで笑っている。死にたくなければ笑えって——そういう人でした」
「きみの父親の話を聞いたことはなかった」
「あまり話すことではないので」
レオンが少しの間、黙った。
「……私は笑えないが」と彼が言った。「それ以外は、似ているかもしれない」
笑っていても目だけが笑っていない、と最初に思ったことを、私は今も覚えている。
「レオン殿下」
「何だ」
「その名前を、教えてもらえますか」
レオンが立ったまま、少し俯いた。
「教えたら、きみは何をする」
「すぐには何もしません」と私は言った。「ただ——知っておきたい。この調査がどこへ向かっているか、全部見えた状態で動きたい」
沈黙があった。
長い沈黙だった。暖炉の火が揺れて、影が壁を動いた。
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「エリナが警告を届けた相手は」レオンが言った。「当時の宮廷で、その報告が届きうる立場にいた人間だ」
「立場にいた人間」
「先王の弟だ」
私は声が出なかった。
「当時は大公の地位にあった。今は——」
「現国王」
レオンが答えなかった。答えないことが、答えだった。
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部屋の中が静止した。
私は目の前の人物を見た。
第一王子。現国王の息子。自分の父親が、十年前にエリナの警告を受けて黙認したという事実を抱えながら、ひとりで調査を続けてきた人間。エリアスとシリルにしか打ち明けず、王宮の内側で静かに動いてきた人間。
「三年前に侯爵を阻止したのは」私はゆっくり言った。「調査が表に出ることを恐れたからですか。それとも——母を守るためだけに」
「両方だ」レオンが答えた。「この件が動けば、父の名前が出る。当時の選択が問われる。それがどういう結果を招くか——まだ制御できない段階では、動かせなかった」
「今は制御できますか」
レオンが私を見た。
「できるかどうか、まだわからない」と彼は言った。「ただ——もう動かないわけにもいかなくなった」
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しばらく、お互い黙っていた。
私はテーブルの上の写しを見た。エリナの記録。最後の三日分。彼女が命を賭けて残して、十年間誰にも届かなかった言葉。
「エリナは」と私は言った。「警告を無視されたあとも、書き続けたんですね」
「ああ」
「どうしてだと思いますか」
レオンが少し考えた。
「届かなくても、残せると思ったんだろう」と彼は言った。「誰かがいつか読む、と」
暖炉の火が揺れた。
エリナの娘が、十年後にその記録を読んでいる。
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「レオン殿下」
「何だ」
「私はこの調査を、続けます」と私は言った。「どこまで行っても。現国王の名前が出ても。それがわかった上で、続けます」
レオンが立ったまま、私を見下ろしていた。
「なぜ」
「エリナが残した言葉を、ちゃんと届けたい」
単純な理由だった。こんなに単純な理由が、これほど確かに自分の中にあることを、今はじめて声に出して知った。
レオンの表情が、ほんのわずか——動いた。それがどんな感情なのか、うまく読めなかった。悲しいのか、安堵しているのか、あるいは何か別のものか。
「……すまなかった」と彼が言った。
短い言葉だった。でも軽くなかった。
私は「はい」とだけ答えた。
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帰り際、扉の前で振り返った。
「ひとつ聞いていいですか」
「まだあるのか」
「三年前に阻止したとき、侯爵に理由を説明しましたか」
レオンが少し間を置いた。
「『その娘に用はない』とだけ伝えた」
「侯爵は今も、その理由を知らない?」
「知らないだろう」レオンが言った。「だからきみに接触してきた。レオンが阻止した理由がわからなければ、それを使って揺さぶることもできない」
なるほど、と私は思った。侯爵が私に「選択肢」を出してきたのは、レオンの動機を掴むためでもあった。
「では、今日の接触は侯爵の誤算ですね」と私は言った。「私がレオン殿下に話すことは、想定していなかったはずですから」
レオンが少しの間、私を見た。
「……そうかもしれない」
それが褒め言葉に近い何かを含んでいることは、わかった。
「おやすみなさい」
「よく眠れ」
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廊下に出ると、行きより暗く感じた。
でも足は迷わなかった。
現国王。先王の弟。エリナの警告を受けて、黙っていた人間。
レオンはそれを十年以上、ひとりで知っていた。知りながら、王子として笑っていた——笑えていたのかどうかはわからないが、少なくとも表には出さずにいた。
父の言葉を思い出した。
死にたくなければ笑え。
そういう重さを抱えて笑い続けることが、この宮廷で生き延びるということなのかもしれない。
でも、エリナは笑いながら記録を残した。笑いながら、誰かへの言葉を書いた。
その誰かが、今ここにいる。
私は廊下を歩きながら、頭の中に新しい形を作り始めた。
アルドリック。現国王の黙認。シュタイン侯爵の思惑。そしてレオンが守ろうとしているもの。
全部がひとつの形に向かって動いている——まだその形は見えないが、輪郭が出始めていた。
夜が、少し明けていた。




