第十六章 笑顔の毒
第二回選定試験は、音楽の演奏だった。
楽器の演奏か、歌か、詩の朗読か——各自が得意なものを披露する形式で、審査員が採点する。私はリュートが少し弾けた。父が酔った夜に教えてくれた、それだけが取り柄の、拙い演奏。
でも今朝の私には、採点なんて二の次だった。
弾きながら、頭の中ではオットーのことを考えていた。ベッドで眠り続ける中年の料理人。三年間、家族を人質に取られて毒を運ばされていた人。彼の証言が取れなくなったとして、それでも「139」という数字は残る。邸番号は、状況証拠にはなる——エリアスの言葉を繰り返す。
演奏が終わって席に戻ると、隣のミレイユが小声で言った。
「話がある。終わったら薬草園で」
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午後、薬草園の奥のベンチにミレイユが先に来ていた。金髪を一本に束ねて、いつもより表情が引き締まっている。
「聞いていたのよ、昨日から」彼女は単刀直入に言った。「北棟の件。厨房の男が倒れたことも」
「どこで」
「後宮は思ったより音が通る。それに——あなたたちが動いているのを、ずっと見ていた」
ミレイユが膝の上で手を組んだ。
「私も関係があるの、この件に」
「……聞かせてもらえますか」
「婚約が破談になった相手」彼女は淡々と言った。「シュタイン侯爵の甥だった」
予想外の名前に、思わず前に身を乗り出した。
「シュタイン侯爵の甥と、婚約していたんですか」
「三年前まではね。侯爵家側から突然破談を申し入れてきた。理由は教えてくれなかった。うちの父は怒ったけど、貴族の力関係上、押し通せなかった」
「三年前」シリルの父が倒れた時期だ。「なぜそのタイミングで」
「わからなかった。でも——今になって思い当たることがある」ミレイユが少し声を落とした。「破談の少し前に、甥から変なことを聞いたの。『叔父が宮廷に薬師の娘を入れるよう手を回している』って」
薬師の娘。
「それは」と私は聞いた。「いつの話ですか」
「三年と少し前。あなたが入宮する前の話よ」
「私じゃないとすれば……その薬師の娘というのは」
「わからない。でも侯爵が特定の体質の女性を探していた、ということはわかる。そしてその後、破談になった。侯爵が何かに失敗して、計画が変わったのかもしれない」
頭の中が回転した。
シュタイン侯爵が三年前に「薬師の娘」を後宮に入れようとしていた。でも失敗した。その後、アシュレイ家の宰相が倒れた。そして今回、レオンが私を入れた——。
「それだけじゃないの」とミレイユが続けた。「もうひとつ聞いてほしい」
「何ですか」
「私の部屋の侍女、ルナという子がいるんだけど——一週間前から態度が変わった。私の行動を報告している気がする。夜、部屋の外で誰かと話しているのを聞いた」
「内部の協力者」
「そう呼ぶのかもね」ミレイユはやや苦い顔をした。「侍女を疑うのは嫌だけど、事実だから言う」
「ありがとうございます、ミレイユ。大事な情報です」
「お礼はいらない」彼女は立ち上がった。「ただ——あなたが無事でいてくれれば、それでいい。あなたが動いているのを見て、いつか誰かがやらなきゃいけないことだと思ってた」
ミレイユが歩きかけて、一度だけ振り返った。
「今日の演奏、悪くなかったよ。リュート」
それだけ言って行ってしまった。
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夕刻、内廷から通知が来た。
「本日の夕刻、国王陛下の顧問・シュタイン侯爵閣下より、後宮入り選定候補者の皆様へ表敬のご要望がございます。宜しければ応接間にてお迎えください」
表敬。
それが何を意味するかは、わかっていた。
私は通知を握りしめたまま、深く呼吸した。
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応接間に五人の候補者が集まった。
シュタイン侯爵は、想像より若く見えた。
五十代、肩幅の広い体格、白髪交じりの髪。顔立ちは穏やかで、目尻に笑い皺がある。どこからどう見ても、好感の持てる紳士だ。
これが。
十年間、王宮で毒を使い続けた人間の顔。
「皆さん、遠路はるばるお越しくださいましてありがとうございます」穏やかな声が響いた。「王国の未来を担う方々のお顔を拝見したくて、参りました」
令嬢たちが礼をする。私も礼をした。
侯爵が、一人ずつ顔を見ながら歩いてくる。ミレイユ、公爵令嬢、ソフィア——そして私の前で止まった。
「ローゼンベルグ嬢」
「はい」
「薬商のご出身と伺っています」穏やかな笑顔のまま言う。「珍しい経歴で、印象に残っていました」
「ありがとうございます」
「薬の知識が豊富だとか。頼もしいですね」
その一言に、どれだけの意味が込められているか——私の鼻は、侯爵の服の袖から微かな匂いを拾っていた。
薬草の匂い。ジラニア草の匂いではない。でも薬に慣れた人間の匂いが、確かにある。
「嗅ぐな」
頭の中でヴァルターの声がした気がした。
私は表情を変えずに微笑んだ。
「ありがとうございます、侯爵閣下。ご健康をお祈りしております」
侯爵の笑顔が、少しだけ変わった。ほんの微かに——見抜かれたことを、気づいたような。
「……ありがとう」
侯爵が次の令嬢へ移動する。私は呼吸を整えながら、前を向いたまま座っていた。
心臓が早い。でも顔には出していない。
部屋の隅に、白い外套が見えた。ヴァルターが壁際に立っていた。審査員という立場で同席している——その金色の瞳が、こちらを見ていた。私が視線を送ると、ヴァルターがわずかに首を縦に動かした。
大丈夫か、と聞いている。
私も、小さく頷いた。
大丈夫です、と答えた。
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表敬訪問が終わり、候補者たちが部屋を出る。
廊下に出たところで、後ろから足音がした。
「ローゼンベルグ嬢」
振り返ると、侯爵の秘書らしき若い男が立っていた。
「侯爵閣下が、少しお話ししたいとのことで」
令嬢たちが行ってしまった廊下で、私は一人残された形になった。
「……喜んで」
笑顔で答えながら、頭の中ではすでに計算していた。ヴァルターはさっき部屋の中にいた。この廊下に出てくるまで少し時間がかかる。シリルはどこにいるか把握できていない。
応接間に戻ると、侯爵一人が残っていた。
扉が、閉まった。
「さて」侯爵が静かに言った。「正直に話しましょうか、ローゼンベルグ嬢」
笑顔が消えていた。
「あなたのお母上、エリナさんのことをご存じですよね。私のことも、もうご存じでしょう」
心臓が、一拍飛んだ。
でも——倒れるな。
「はい」と私は答えた。「存じております、シュタイン侯爵」
侯爵が微かに目を細めた。
「……勇気がおありですね」
「いいえ。ただ」私は相手の目を見たまま続けた。「嘘をつくのが苦手なので」
応接間に静寂が広がった。窓の外で、白薔薇の庭に夕日が差し込んでいる。
「ひとつだけ聞いていいですか、侯爵閣下」
「どうぞ」
「なぜ今日、ここへ来たんですか」
侯爵が、また微かに笑った。今度は穏やかではない笑い方で。
「あなたに、選択肢を差し上げに来た」
扉がノックされた。
「——閣下、失礼します」
ヴァルターの声だった。
扉が開く。白い外套のヴァルターが、無表情のまま部屋を見渡した。侯爵を見て、私を見て——私が無事であることを確認した、その顔に。ほんの一瞬だけ、安堵の色が走った。
「失礼しました、侯爵閣下。候補者の帰室時刻となりました」
「これは失礼」侯爵は何事もなかったように立ち上がった。「続きはまたの機会に、ローゼンベルグ嬢」
侯爵が退室する。
静まり返った応接間で、ヴァルターが私の前まで歩いてきた。
「大丈夫か」
「はい」
「怖かったか」
「……少し」
「そうか」
ヴァルターの手が伸びてきて——肩ではなく、頬のすぐ近くに触れた。ほんの一瞬。髪が乱れていたのを、直してくれたのかもしれない。でもその指先がそこに触れている間、私は息ができなかった。
「よく、一人で立っていた」
手が離れる。
「倒れませんでしたよ」
「知っている」
ヴァルターが前を向いた。
「行くぞ」
私はその背中について、応接間を出た。廊下は夕日の色をしていた。
選択肢を差し上げに来た——侯爵の言葉が、頭の中に残っている。
あの人は、私に何を選ばせようとしているのか。




