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第十五章 夜明けの厨房

 目が覚めたのは、夜明けの一時間前だった。


 着替えて、朝食の代わりに持参した干し菓子をひとつ食べて、部屋を出た。廊下は静かで、侍女もまだ動いていない。薬草園に向かうふりをして、北棟方向へ歩く。


 角を曲がったところで、影が動いた。


「遅い」


 ヴァルターだった。外套はない。普通の濃紺の上衣で、騎士というより宮廷の文官のような格好だ。


「……外套、本当に脱いだんですね」


「言った通りだ」


「似合っています」


 ヴァルターが少し間を置いた。


「……歩くぞ」


 薬草園を抜けながら、北棟の裏側に向かう。シリルはすでに厨房の正面側にいるはずだ。


「合図の確認を」と私は言った。


「きみが匂いを感じたら、私の方を見る。私が扉の前に移動したらシリルに知らせる手はずになっている」


「離れすぎないでください」


「いる」


 それだけ言って、ヴァルターは北棟の壁際の暗がりに溶け込んだ。外套がないと、意外に気配を消せるらしい。


 私は薬草園の棚の端に立って、北棟の裏扉を視界に入れながら、鼻を澄ました。


 夜明け前の空気はよく澄んでいる。薬草の朝露の匂い、石壁の冷えた匂い、遠くの馬小屋の匂い——そして。


 待った。


 十分。二十分。


 足が少し冷えてきた頃、聞こえた。かすかな足音。


 続いて——甘い、神経系に作用する匂い。ネムリソウ系だが、昨日と少し配合が違う。新しいものを持ち込んでいる。


 私はヴァルターの方向を見た。


 暗がりの中で、金色の瞳が動いた。


---


 北棟の裏扉が、静かに開いた。


 入ってきたのは、小柄な中年の男だった。厨房の調理帽をかぶって、手に小さな布袋を持っている。


 足音を立てずに厨房の奥へ進む。私はギリギリまで近づいて、引き出しの前でしゃがんだその背中を確認した。


 袋を開けて、中身を引き出しに足している。


「そこまでにしてもらえますか」


 私の声に、男が振り返った。


 正面から顔が見えた瞬間——見覚えがある気がした。王宮の料理人の顔を全員知っているわけじゃない。でも。


 男は逃げなかった。その代わり、ゆっくりと立ち上がって、


「……わかりました」と言った。


 疲れたような、諦めたような声だった。


 扉が開いて、シリルとヴァルターが入ってきた。


---


 男は料理人のオットー、五十二歳。北棟厨房に十五年勤務。妻と子どもが三人いる。


 医務室のエリアスの前で、震えながら話した。


「頼まれたんです。三年前から。断ったら家族に何かすると——」


「誰に頼まれたか」と私は聞いた。


「……名前は知りません。でも、指示は毎回同じ方法で届いていた。封筒で。封蝋はありましたが、紋章じゃなくて数字でした」


「数字」


「三桁の数字。毎回同じ数字でした。139、と」


 シリルが小さく息を吸う音がした。


「わかりましたか」と私は彼に聞いた。


「……139はシュタイン侯爵家の邸番号だ。王都の登記番号で、貴族の屋敷には固有の番号がつく」


「証拠になりますか」


「状況証拠にはなる。ただ直接的じゃない。侯爵は封筒を送っていないと言い張れる」


 エリアスが「布袋の中身を分析します」と言いながら手袋をつけた。


 オットーが突然、椅子から立ち上がった。


「あの、すみません、私は——家族のことは」


「心配しないでください」とレオンの声がした。


 扉口に、レオンが立っていた。


「動かないと言ったが」とシリルが言う。


「待てなかった」


 短い答えだった。


 レオンがオットーの前に立った。


「協力に感謝する。証言の代わりに、家族の保護を約束しよう。王家の名において」


 オットーが、ゆっくりと頭を下げた。肩が震えている。三年間、ひとりで抱えていたのだろう。


---


 日が昇り始めた頃、私たちは解散した。


 第二回選定試験は予定通り行われる。何事もなかったように、候補者は試験会場に向かう。


 廊下に出ると、ヴァルターが隣に並んだ。


「よくやった」


 短い言葉だったが、私には充分だった。


「まだ侯爵本人には繋がっていませんが」


「繋がる。時間の問題だ」


「そうだといいんですが——」


 そのとき、後ろから足音がした。早い。振り返ると、エリアスが小走りで来ている。眼鏡がずれている。


「どうしました」


「オットーさんが」エリアスが息を整えながら言った。「医務室に戻った直後に倒れました。症状がジラニア草の急性中毒で——」


 頭が冷えた。


「どこかで飲んだか、食べたか」


「わかりません。持参していたものを口にしていた可能性が——」


「今の状態は」


「意識はあります。ただ、証言を取れる状態ではなくなるかもしれない」


 ヴァルターがすでに歩き始めていた。私も走った。


 医務室に戻ると、オットーがベッドに横になっていた。顔色が白い。でも目は開いている。


 私はベッドの前にしゃがんだ。


「聞こえますか」


「……はい」


「無理に話さなくていいです。でも——139の封筒を最初に受け取ったのはいつですか。覚えていますか」


 オットーが、かすれた声で答えた。


「……三年と、少し前です。先代の宰相様が……倒れたと聞いた、少し後でした」


 シリルが、背後で息を飲む音がした。


 先代の宰相——シリルの父が倒れた直後から、オットーへの指示が始まっていた。


「ありがとうございます」


 オットーが目を閉じた。エリアスが素早く処置を始める。


 立ち上がって振り返ると、シリルが壁に背をつけて立っていた。いつもの笑顔がない。翠色の瞳が、どこか遠いところを見ている。


「シリルさん」


「……父が倒れたとき」彼は静かに言った。「俺は王都にいなかった。学術視察でよその街にいた。知らせを受けて戻ったとき、もう父は動けなかった」


「それが」


「タイミングを計られていたんだと思う。父が弱ったとき、厨房への工作を始めた。父が戻れなくなった後に、宮廷への毒をさらに広げた」


 シリルが壁から離れた。いつも通りの、飄々とした顔に戻っていた——でも目だけ、笑っていなかった。


「アリア」


「はい」


「今日の試験、うまくやれよ」


 それだけ言って、シリルは医務室を出ていった。


 私はしばらくその扉を見ていた。


 この作戦でシュタイン侯爵を追い詰めたとして、それでシリルの父は救えるのか。毒を断てば悪化は止まる——でも三年分の蓄積は、半年から一年かかる。


 それは長い。長いけれど、でも。


「アリア」


 ヴァルターが、私の名前を呼んだ。


「試験の時間だ」


「……はい」


「今できることをやれ」


 金色の瞳が、静かに私を見ていた。


 今できることをやれ。


 それは、今の私に一番必要な言葉だった。

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