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第十三章 倒れるな

 城壁の中に戻ってすぐ、エリアスに使いを出した。


 夕刻、医務室でシュタイン侯爵の名前を告げると、エリアスが眼鏡の奥の目を細めた。


「……その名前が出ましたか」


「ご存じでしたか」


「疑っていた候補のひとりではありました」彼はペンを置いた。「ただ、証言が取れなかった。ルチアさんが見ていたとは」


「エリアスさんはレオン殿下に報告しますよね」


「すぐに」


「私も同席できますか」


 十分後、古文書室にレオンが来た。


 シュタイン侯爵の名前を聞いたとき、レオンの顔は変わらなかった。でも静止した——ほんの一瞬だが、確かに止まった。


「侯爵がそこにいた、という証言だな」


「はい。ルチアさんが直接見ています」


「外に出たのか、きみは」


 声のトーンは変わらなかったが、重さが違った。


「シリルさんに同伴してもらいました。補佐の同伴という形で」


「規則の抜け穴だ」


「禁止はされていなかったので」


 レオンが短く息を吐いた。怒りではない、諦めに近い音だ。


「シュタインは」と彼は続けた。「十二年前から宮廷に出入りしている。先王の側近だった時期もある」


「先王の、側近」


「先王が死んだとき、最も近くにいた人間のひとりだ」


 頭の中で線が繋がる音がした。先王は毒の調査をしていた。母が調査を担当していた。調査記録の最後の日付から三日後に、母は死んでいる。そして先王自身も——。


「先王は」と私は聞いた。「自然死でしたか」


 レオンの群青の瞳が、静かに私を見た。


「公式には、そうなっている」


「でも」


「でも、エリナさんと同じ種類の毒が、先王の最後の食事から検出された。ごく微量だが」


 声が、すぐには出なかった。


 先王も殺された。母も殺された。同じ人間に、同じ方法で。


「シュタイン侯爵がそれをやったと」


「断言はできない。でも可能性は高い」レオンは言った。「だからこそ証拠が必要だ。ルチアの証言は大きい——ただ」


「ただ?」


「シュタインの耳に入るのも早い。きみが外に出たことは、すでに誰かに報告されている可能性がある」


 空気が、少し冷えた気がした。


「……私が動いていることが、ばれた可能性があると」


「その可能性がある。今夜は特に気をつけろ」レオンが立ち上がった。「部屋を変えることも考える。今夜中に手配できるかエリアスに——」


「大丈夫です」


「アリア」


「一晩なら大丈夫です。鍵もかけますし、朝食は自分で確認します」


 レオンが私をしばらく見た。


「……わかった。でも何かあれば」


「約束通り、言います」


 私は笑って見せた。レオンが視線を少し逸らした——それはどこか、困ったような表情だった。


---


 部屋に戻ったのは夜の八時過ぎだった。


 扉を開けた瞬間、わかった。


 匂いがする。


 甘い、神経系に作用する、ジラニア草特有の匂い。


 濃くはない。でも確かに漂っている。外出している間に、誰かが部屋に入った。


 私は扉を閉めずに立ったまま、部屋の空気を鼻で読んだ。どこから漂ってくるか——枕だ。枕に何かが仕込まれている。眠るとき、長時間顔を近づける場所。


 一歩も入らないまま、廊下を振り返った。


 誰もいない。


 侍女を呼ぼうと思った。でも侍女が信用できるかどうかもわからない。エリアスに——でも医務室は遠い。レオンへの使いを——


 そのとき、廊下の端に白い外套が見えた。


「ヴァルター殿下」


 彼は廊下の壁に背を預けて立っていた。私の部屋の扉から、三十歩ほど離れた場所。外出から帰って、ずっとここにいたのかもしれない。


「部屋に入るな」と私は言った。


 ヴァルターが近づいてくる。


「匂いがします。枕に仕込まれているみたいで」


 彼は扉口で立ち止まり、鼻を利かせた。


「……ジラニア草だ」


「はい。私は一歩も入っていないので、吸入量はほぼゼロです。大丈夫です」


「大丈夫じゃない」


 ヴァルターが、私の肩を掴んで廊下に引き離した。そのまま扉を閉める。


「何がどうなっているか、話せ」


 私は今夜のレオンとの話を、かいつまんで説明した。シュタイン侯爵の名前、先王の死、シュタインの耳に入っている可能性。ヴァルターは途中で遮らず、最後まで聞いた。


「今夜部屋を変える」と彼は言った。


「レオン殿下もそう言っていましたが、自分で」


「今夜中に手配する。それまでここを動くな」


 動くな、と言った本人が部屋に入っていく。私は廊下で待った。五分後、ヴァルターが出てきた。手に枕がある——ハンカチ越しに持っている。


「エリアスに渡す。成分を確定させる」


「ありがとうございます」


 ヴァルターが私を見た。金色の瞳が、いつもより暗い——廊下の燭台の光の加減か、それとも別の何かか。


「部屋を変えるまで、ここで待て」


「廊下で、ですか」


「医務室に行くか」


「いえ、ここで」


 私は壁に背をつけて座り込んだ。石の床は冷たい。ヴァルターが少し考えてから、隣に腰を下ろした。白い外套が廊下に広がる。


 しばらく、二人で廊下に座っていた。


「怖かったか」とヴァルターが聞いた。


「少し」と私は答えた。


「正直に言えるじゃないか」


「殿下には言えますよ」


「なぜ」


「信用しているので」


 ヴァルターが黙った。長い沈黙の後、


「……私が外出を止められなかった」


「殿下のせいじゃないですよ」


「でも」


「でも、って今日何回言いましたか、私たち」


 ヴァルターが、また小さく息を吐いた。今度は少し違う音だった——苦笑に近い。この人から苦笑に近い音を聞くのは初めてかもしれない。


「殿下」


「何だ」


「今夜、ずっとここにいたんですか。廊下に」


 ヴァルターは答えなかった。


 答えないこと自体が、答えだった。


「……ありがとうございます」


「別に」


「別にじゃないですよ」


 ヴァルターが私を見た。金色の瞳が近い——廊下に並んで座っているから。


「倒れるな、と言った」


「言いましたね。最初から」


「言い続ける」


 それだけ言って、前を向いた。


 廊下に静寂が戻る。遠くで侍女の足音がした。エリアスか、部屋の手配をする人間がそろそろ来る。


 それまでの少しの間、私は廊下の壁に背をつけたまま、隣の体温を感じていた。


 白い外套が、肩のすぐ近くにある。


 ——転んでもただでは起きない。


 父の言葉が、今夜は少し違う意味に聞こえた。転んでも、隣に誰かがいる。それもまた、ただでは起きないということかもしれない。


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