55.
タウンハウスに戻ったエイヴリルは、いつも通りディランとともに夕食を摂った。
いつもと違い、広いダイニングの窓ぎわには二人用の丸テーブルが置かれている。
久しぶりのゆっくりとした食事の時間なのだ。使用人たちが二人きりで気兼ねなく楽しめるように、と準備してくれたものだった。
そのテーブルの上には、よく焼けた肉に固いパン、しなびた野菜、どろどろしたスープなど、エイヴリルの大好物が並んでいる。シェフがエイヴリルのため腕によりをかけて作ってくれたことがわかるラインナップだった。
なお、夕食の席には一応コリンナも誘ったのだが、彼女は『なんであんたのことが好きなイケメンと一緒に食事しないといけないのよ』と毒を吐き、屋根裏部屋へと引っ込んでしまった。
すかさずクリスが屋敷の掃除分担表を持って追いかけようとしたのだが、今回のコリンナは大活躍だったので、今日ぐらいはさすがに見逃してあげてくださいと止めたところである。
あまりにも濃すぎた十数日間を振り返りながら、食事をおいしくいただいたエイヴリルはしみじみ思う。
「やっと、戻って来られたという感じがします……!」
「ああ。君はそれなりに楽しんでいたようだが」
「⁉︎ も、申し訳……!」
ディランから揶揄うように言われて、ベル・アムールでの暮らしを楽しんでいた自覚がほんの少しあるエイヴリルはうっとなった。
誘拐されて夫に血眼で行方を探させておきながら、自分はそれなりに楽しく過ごしていたのだ。こうして落ち着いて思い返してみると、あまりにも酷すぎるのではないか。
けれど、夫は上機嫌で続ける。
「いい。どこにいても、周囲を巻き込んで環境を変えられるのがエイヴリルのすごいところだ」
「そんな、ディラン様の買いかぶりです。今回はコリンナにたくさん助けてもらったおかげで、無事に帰って来られました」
「あの義妹でも役に立つ日が来るということが、今回の事件でいちばんの衝撃だったな……」
エイヴリル誘拐事件に関しては、コリンナがかなりの功労者ということに関しては、ディランも異論がないようだった。遠い目をして言われてしまったので、エイヴリルも一緒に引き攣った笑みを浮かべる。
(コリンナに救われてしまいました。こんなこともあるのですね)
すると、真正面に座るディランの左手が、エイヴリルの右手に重なった。
「ん?」
汚れでもついていたのか、と首を傾げると、ディランはふっと微笑む。
「ポーカー。コリンナに巻き込まれてすることになってしまったが、楽しかったな」
「はい……!」
そうだった、と思い出す。ディランが戦略を練り、クリスが相手を引っ掻き回し、エイヴリルがハッタリをかまして勝ったあのゲームは、あんな状況の中でも楽しかったと思う。
そういえば、ゲームの最中も小指と小指だけではあったものの、手が触れた気がする。そんなことを思えば、ディランは低く甘い声で囁くのだった。
「あのとき、こうして手を重ねるのを我慢したんだ。やっと掴めた」
「……!」
どきりとするのと同時に、ずっと頭の片隅に追いやられていた約束が顔を出す。
(国王陛下夫妻が主催するお茶会の日、私はどうしてもランチェスター公爵家に戻りたかったのです。それは、ディラン様とのお約束を守るため……)
彼はそれを覚えているのだろうか。
エイヴリルは手の温もりを感じながら、俯き加減になっていた視線を上げる。
目の前の夫の優しげな瞳からは、彼がその約束を覚えているかどうかは読み取れないのだった。
*・゜゜
その日の夜、エイヴリルは久しぶりに夫婦の寝室へと足を踏み入れた。
視界に入るのは、シルクのシーツに豪奢な刺繍が施されたベッドカバー。天蓋からは、幾重もの布がまるで秘密を守るように絨毯へと流れている。
結婚式を挙げてから一年。こうして一緒の寝室で眠ることはこれまでにもよくあることだった。
最初の頃はメイドたちが気を利かせていろいろと準備をしてくれたものだったが、最近では部屋中にバラの花が撒かれることはない。
また、アレクサンドラが頻繁に贈ってくれるナイトドレスも準備されることはなくなった。なおこれに特別な意味はなく、単にエイヴリルが風邪を引くからである。
ベッドの端に腰掛けたエイヴリルは、いつもの就寝前と同じように、寝室に備え付けられた書き物机で書類に目を通すディランへと話しかけた。
「結局、コリンナとフェルナン様ってどんなお知り合いだったのでしょう?」
「……貴族サロンで出会ったということだったな」
「なるほど? ではコリンナの一目惚れの相手はフェルナン様だったと」
ベル・アムールでのコリンナは、貴族サロンから戻ってからずっと様子がおかしかった。
まるで誰かに一目惚れをしたときのように浮かれた空気を漂わせていたため、一体なにごとかと思ったのだが、その恋の相手はフェルナンだったようである。
しかしディランは苦笑した。
「でも、あの二人の関係は恋人同士とかそういうのではないと思うぞ。同じ穴の狢……偶然似たもの同士で意気投合した、に近いんじゃないか」
「確かに、二人とも遊び人ですものね。……今回のキトリー様の悪事についてですが、フェルナン様がたくさんの女性と遊ばれていたのもよくなかったんだと思います」
「それはあるな」
苦笑いのディランは手元の書類をめくる。静かな部屋にパラパラという紙の音が響く。
しばらくの間規則的に響く穏やかな音に、心地よい微睡みが訪れ、エイヴリルはディランがいる机を見たままベッドの上に横たわった。
ひんやりとしたシーツは一日の疲れで重くなった体を吸い込むようだ。
「ディラン様、今夜もたくさんの書類に目を通されているのですね?」
問いかけると、ディランは少し驚いたように間を置いて頷く。
「……これか? ああ」
「まだ終わらないのですか?」
「そうだな。……今、終わった」
ディランは書類を引き出しにしまうと、書き物机の上の明かりを消した。部屋が一段暗くなる。
ベッドサイドの照明だけが頼りになり、淡い暗闇の中にディランの影が浮かび上がった。
「ブルーがいないと不思議な感じですね……」
「あの猫。すっかりサミュエルに懐いて、今はサミュエルと一緒でないと寝ないそうだ」
「ふふっ。よかったですよね。でもそれなら、初めから懐いてくれればサミュエルはあんなに傷だらけになることはなかったのに」
横になったままくすくす笑うエイヴリルのすぐそばで、ベッドが沈んだ。ディランの手が頬に伸びて、それからこめかみのあたりの髪を梳く。
そうして、ディランは困ったように笑いながら、エイヴリルの唇を親指で撫でた。
「覚悟ができていなければ、寝てしまって構わないと思っていたんだが」
その言葉で、ディランがさっきまでずっと書類に目を通していた理由を知る。
「……ディラン様は本当にお優しいですね」
自分を見つめる、透き通った青い瞳に、ドキドキする。
「私、ディラン様の妻になれて、本当に幸せです」
「……エイヴリル」
エイヴリルにディランの影が落ちる。それは逃げ場を塞ぐように、すぐに重なった。
すぐ朝です。
(念のため、書籍版から少しカットしています)





