沼の入口
それは、教会の廊下ですれ違った瞬間のことだった。
ラファエルがふと足を止め、周囲を気にするようにしてエマに顔を寄せた。
「エマ様、大事な話があります。あとで応接室までお越しいただけますか」
いつもよりトーンの低い、かすかな小声。至近距離で微笑みかけ、見つめてくる彼のその甘やかな眼差しに、エマは心臓がどきりとした。
(大事なお話……?)
あの資料室での緊張感を思い出し、エマの胸はドクドクと不規則な音を立て始めた。見つめ合った彼のヘーゼルの瞳が今でもはっきりと思い出せる。
(今なら、まだ引き返せる……だけど……)
——コンコン。
「エマです。ラファエル様、入室してもよろしいですか?」
「どうぞ、お入りください」
そうして入った薄暗い部屋のなか、期待と不安に胸を躍らせていたエマを待っていたのは、ラファエル——だけではなかった。
部屋の奥に、見覚えのない一人の老人の男がゆったりと腰掛けている。
立派な白髭を蓄え、一見すると慈愛に満ちた佇まいをしている。だが、その瞳の奥には、どこか底の知れない不思議な威圧感が宿っていた。
「エマ様、よくおいでくださいました。こちらはこの聖アリア教のすべての権限を握る、最高司祭様です。お目通りできるのは一握りの、清き精神を認められた人間だけなのです。エマ様は選ばれたのですよ! おめでとうございます!」
傍らに立つ神父はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、エマをねぎらうように言葉をかけた。
エマが戸惑いつつ一礼すると、その初老の男は鷹揚に頷き、低く重厚な声で語り始めた。
その口から紡がれた内容は、エマの想像を遥かに絶するものだった。
「よくぞ来てくれた、エマ令嬢。……驚かずに聞いてほしい。実は、私はこの世界をかつて救った『救世主の生まれ変わり』なのだ」
(救世主の、生まれ変わり……?)
エマは思わず息を呑んだ。教会のステンドグラスに描かれていた、あの伝説の存在。唖然とするエマを真っ直ぐに見つめ、男はさらに言葉を重ねる。
「そして、君の婚約者をたぶらかした娘は、世界を混沌に陥れようとする『悪魔』の化身なのだよ。まさにこの時も、有力な令息や王太子を狙い、国を滅ぼそうとしている。……だが、恐れることはない。なぜなら、君こそが、かつて救世主の命を救い、世界を調和へと導いた『聖女の生まれ変わり』なのだから」
「私が、聖女……?」
あまりに荒唐無稽な話だった。
本来であれば、真っ先に「まさか、そんな馬鹿な話があるはずがない」と、冷ややかな疑念を抱くはずだった。
――しかし、どうしたことだろう。
気づけば、静まり返った部屋のなかには、いつの間にか微かに爽やかで甘い、どこか頭の芯を柔らかくするような「妙な香り」が立ち込めていた。
それは、神父がいつもエマに淹れてくれるハーブティと、彼のつけている香水を思い出させた。それがなぜか、今は強く部屋を満たしている。
その香りを吸い込むたびに、頭の芯がぐにゃりとクラクラした。
いつものように冷静に考えようとするのに、なぜか正常な思考のピントがうまく合わせられない。
「さあ、私たちと共に、この教会をさらに盛り立てていこう。聖女の力を、今こそ教会のために使ってほしい」
神父と最高司祭の二人が、どこまでも慈愛に満ちた笑みを浮かべてエマを見つめている。
「学園卒業後は、修道院にて聖女としての修行を。そのためには、婚約の解消と出家という大きな決断が必要だ。ヴァレンタイン伯爵家の令嬢として、心苦しい決断ではある。だが信じてくれ、聖アリア教は国教となる運命にある。そうなれば、君はこの国の最高位の女性となるのだよ」
おかしい。何かが変だ。そう思うのに、クラクラとする視界のなかで、エマの胸にはこれまでにない爆発的な高揚感と全能感が、まるで行き場のない濁流のように湧き上がっていた。
認められた、という圧倒的な喜び。前世でも今世でも、誰からも本気で必要とされなかった自分が、この聖い場所で「特別」になれたのだという甘美な響き。
「ああ……嬉しい……。私、私は、聖女だったのですね……っ!どんな試練であろうとも、乗り越えてみせますわ……」
両手に拳を握りしめ、目からはポロポロと、歓喜と興奮と安堵の涙が溢れ出していた。
達成感に満たされて、エマはニコニコと満面の笑みを浮かべたまま、どこかふわふわとした足取りで教会を後にするのだった。




