表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

7/33

甘い囁き

 そんなある日の午後、事件は静まり返った資料室で起きた。


 高所の棚にある古い書物を取ろうと、エマは踏み台に足をかけていた。



「あと、もう少し……っ」


 背伸びをして指先を伸ばしたその瞬間、ずるっと足を踏み外してしまった。


「あ――」


 落ちる。そう確信してエマはギュッと目を瞑った。

 しかし、予想された痛みの代わりに、エマの身体は驚くほど力強い腕によって、しっかりと受け止められていた。


「――危ない!」


 どさりと大きな音を立てて、二人は資料室の床に倒れ込む。エマを受け止めたのは、いつの間にか背後に来ていた神父だった。



 気がつくと、エマは床に仰向けになった神父の胸の上に、すっぽりと重なるような形で抱きすくめられていた。完全に密着した状態だ。あまりの急接近にエマの思考が一瞬で固まる。


 いつもお人好しで穏やかな彼の法衣の下には、決して華奢ではない、確かな大人の男の厚い胸板と骨格が隠されていた。抱きしめられた背中から、彼の男らしい体温がじわじわと鼓膜の奥まで伝わってくる。



「……お怪我はありませんか?」


 神父はエマをその逞しい腕で抱きとめたまま、耳元で、いつもより少し低い掠れた声で気遣った。


「いえっ……!不躾に触れてしまって、申し訳ありません!」


 エマは顔を真っ赤にしながら、慌てて神父から距離を取った。


 その瞬間、彼の身体からふわりと濃密で心地よい甘い香りが漂ってきて、エマの鼻腔を甘く支配する。


 それは、彼がいつもエマに淹れてくれるあの教会の清涼なハーブの香りと、彼自身の体温に温められた香水が混ざり合った、なんとも言えぬ芳しい、頭がとろけそうな香りだった。



「——お怪我がなくて、本当にホッとしました。何か資料をお探しで? これからはいつでも僕が持ってきますから、必ず僕を頼ってくださいね」


 ドクンドクン、とエマの心臓が耳の奥でうるさく跳ね上がる。


 ふと見ると、ラファエルの法衣の袖が大きく破れ、そこから赤い血が滲んでいるのが見えた。エマは慌てて彼に近寄った。



「ラファエル様、血が! あ……」


 血のついた袖の隙間から見えたものに、エマは息を呑んだ。彼の白い肌には、緻密で複雑な入れ墨が刻まれていたのだ。



「これぐらい大丈夫ですよ。……ああ、これは……隠していたつもりはなかったんですが。見苦しいですよね」


 ラファエルは困ったように眉を下げて微笑みながら、慌てて袖を引いてそれを隠した。



 前世のエマだって、中学や高校は悪い仲間とつるんで悪さをしたものだ。彼らの中にはそちらの道に進んだものもいる。働いていた会社だって、グレーな犯罪行為を認めていたようなものだ。それを思えば、ワケありの人間など珍しくもない。



「いえ。誰しも事情はありますから。それに、私はラファエル様がお優しい方だとわかっていますわ。誰しも知られたくない事くらい、あるでしょう」


 エマがそう告げると、ラファエルの瞳の奥の光が、ふっと熱を帯びた色に変貌した。



「……エマ様は、僕の事を知りたいと思ってくれますか?」


 彼は床に座り込んだまま、濡れたような上目遣いでエマをじっと見つめた。


 一旦距離を取ったはずなのに、いつの間にかお互いの吐息が唇に触れ合うほど距離が近くなっている。いつもと違う、わずかな独占欲のようなものを孕んだその視線に、エマの全身の血がカッと沸騰した。



「え……っと……ラファエル様……近いです。少し離れて……」


「……そうですね」


 そう囁くように答えたのに、彼は少しも離れてはくれなかった。それどころか、じっとエマを見つめ、さらに距離を詰めようとさえしている。



 前世の記憶があるせいで中身は大人のはずなのに、至近距離で見つめ合った神父の彫刻のように端整な顔立ちと、脳を麻痺させるようなあの甘い香りに、エマは激しい動悸と身体の震えを抑えきれなくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ