永久凍土の融解
それからのエマは、前世の記憶を大いに活用し、教会の環境改善に乗り出していた。
まずは薬草園の土壌改良だ。
前世の知識をもとに、生ゴミや裏山の落ち葉を集めて発酵させた堆肥を作り、土に混ぜ込んで連作障害の対策を施した。
さらに、孤児たちの暮らす修道院の風通しを良くする模様替えや、衛生面を考慮した清掃方法を導入すると、ジメジメとしていた教会の雰囲気は見違えるほど明るく、機能的になっていった。
ただのご令嬢とは思えないその的確な指示に、神父のラファエルも日々感心しきりだった。
そんなエマの背中を、あの少年――レオンはいつもじっと見つめていた。
あの日、一粒の蜂蜜飴をきっかけに凍りついた心が溶け出した彼は、今ではすっかりエマに懐いていた。
エマが薬草園へ行けば、後ろをトコトコとついて回り、彼女が少しでも視界から消えると、不安そうに辺りを見回すほどだ。
その愛らしい様子は、まるで母親とはぐれた雛鳥のようだった。
実はエマは、彼が自分に心を開く前から、一つの確信を持っていた。
まだレオンが虚ろな目で教室の片隅にいた頃。
他の子供たちに教えていた初歩的な文字を、彼がじっと見つめていたのだ。
ただぼんやりと眺めているのではない。その小さな瞳の奥にある視線の鋭さや、手元に広げられた書物に向けられる微かな反応から、エマは気づいていた。
(この子は最初から、すべて文字が読めている――)
彼は事故のショックで心を閉ざし、周囲との関わりを一方的に絶っていただけで、その頭脳は周囲の子供たちを凌駕していたのだ。
だからこそ、彼が自分を慕ってくれるようになってからは、エマは彼にだけ、少し難しい本や専門的な植物図鑑をそっと手渡すようになった。
二人は教会の資料室の机に並んで座り、静かな時間を共有した。
エマがつきっきりで高度な内容を解説したり、レオンが小さな、けれど驚くほどはっきりとした声で返す鋭い感想に耳を傾けたりする。
少しずつ、けれど確実に言葉を取り戻していくレオンとの時間を、エマは大切に増やしていった。
そんなある日の夕暮れ。
資料室での勉強を終えたエマが廊下に出ると、そこにはラファエルが静かに佇んでいた。
「エマ様、いつもレオンの面倒を見てくださって本当にありがとうございます。あの子の心を取り戻したエマ様は、本当に聖女様の再来かと見紛うほどです」
神父は穏やかな笑みを浮かべ、エマをねぎらった。
そしてその後に少し視線を落とし、切実な表情を浮かべてエマに尋ねた。
「……あの、レオンはエマ様に事故について何かお話ししていませんでしたか? 突然パニックを起こすような事はありませんか?あの様子では、きっとあの時の事を覚えていないのでしょうが……忘れているのなら、その方が彼にとっては幸せかもしれません。けれどいつか、ご両親の所在や彼自身の事について知りたくなった時は……その時は、僕から彼に真実を伝えなければ」
深刻な顔で語る神父の目は、レオンを長年見守り続けてきた親代わりとしての、深い慈愛に満ちていた。
あの子の傷ついた心がこれ以上痛まないようにと、心底願っているのが痛いほど伝わってくる。
「いいえ、神父様。レオンは植物の感想や、本の難しい言葉について少し質問を口にするくらいですわ。現状は、とても穏やかに、楽しそうに過ごしてくれています」
エマが微笑みながらそう答えると、神父はほっとしたように、目元を優しく緩めた。
「そうですか……! それなら、本当に良かった。あの子が少しずつでも言葉を取り戻して笑えているのは、本当に奇跡のようなことです。もしレオンに変わった事があったら、僕に教えてくださいね。エマ様、ありがとうございます」
エマは、ラファエルがレオンに真実を伝えるその時は、彼らの側にいられたらいい、と思った。




