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前世との決別

 激しく泣きじゃくり、胸の中に溜まっていたすべての澱を吐き出したエマは、やがて小さく息を吐きながら、涙に濡れた目元をドレスの袖でそっと拭った。



 ふう、と一つ深い呼吸をする。


 再び顔を上げたその青い瞳には、さっきまでの狂気的な殺気や淫らな熱は綺麗に消え去り、ひどく冷静で、ヴァレンタイン伯爵令嬢としての鋭さが戻っていた。エマはルイスの胸元からすっと顔を離すと、何事もなかったかのように淡々と言い放った。


「ルイスさん。私は先ほど、神父から媚薬、あるいは精神を弛緩させる薬物の類を飲まされました。机の上に残されているあの杯の液体と、念のために私の身体をすぐに専門機関で検査してください。教団が貴族の令嬢に対して禁忌の薬物を用いたという、これ以上ない決定的な証拠になるでしょう」


「……は?」


 ルイスは一瞬、エマが何を言っているのか理解できず、実に間抜けな声を上げた。



 言葉の意味を脳が理解した瞬間、ルイスはぎょっとして、エマの肩から飛び退くように手を離した。


「おい、ちょっと待て! 自分が何を言ってるか分かってんのか!? なんで貴族の令嬢が、そこまで命がけで身体を張るんだよ! 頭おかしいんじゃないのか!?」


 頭を抱えて本気で動揺し、顔を青くしているルイスの姿を見て、エマの口元から自然と笑みがこぼれた。フフ、と声を立てて笑う。


 それは前世の記憶を取り戻して以来、エマが初めて心から浮かべた、少女らしい純粋で柔らかな笑顔だった。


(ああ……なんだか、本当に憑き物が落ちたみたい)


 胸の奥が、驚くほど軽くなっていた。



 この世界で前世の惨めな死を思い出してからというもの、一瞬たりとも心を休ませることも、安堵することもできなかった。常に目に見えない何かに追われ、怯え、世界のすべてを敵だと見なして、孤独な戦いを続けてきた。


 けれど、違ったのだ。私はもう、あの孤独に騙されて死んでいった、前世の哀れな私ではない。


(私はただ、あの記憶と決別したかった。そして都合よく目の前に現れたカルト教団に、自分の理不尽な憎しみと恐怖をぶつけていただけだった……)


 すべては、自分の身勝手な理由だった。


 学園で見かけたそれらしきポスターにモンテーニュ公爵夫人の財団の名を見つけ、さらに母をサロンへと誘った公爵夫人の動向を深読みし、モナと紐付けて……。「またカルトに私の家族が壊されるかもしれない」と早合点して、勝手にひとりで敵陣へと乗り込んだ。


 結果として、教団が国を揺るがす薬物を密造していたというエマの推測は「正解」だった。

 しかし、今なら分かる。もっと大人の力を借り、最初からレオンやルイスと手を取り合っていれば、もっと安全で、もっと良いやり方はいくらでもあったのだ。


 だけど、あの時の自分にはそうするしかなかった。あのように無鉄砲に、無我夢中で戦わなければ、前世のトラウマで自分の心が完全に壊れてしまうと本能が叫んでいたから。


 


そしてエマの脳裏に、ずっと心の底にこびりついていた記憶――親友だった『満里奈』の姿が鮮明に蘇る。

 

 中学校で出会い、未来の約束をいくつも交わした、本当に大好きな友達。それなのに、出会ったばかりの男を選び、『ごめんね』というメッセージ一つを残して突然自分の前から姿を消してしまった満里奈。


 裏切られた悲しみに心が千切れて、『友情も恋愛も必要ない。人は大切な約束も、どれほど深い友情も、一瞬の情熱で簡単に投げ捨ててしまうものなのだ』と、他者を拒絶するようになった。



 ――けれど、今ならわかる。

 ラファエルという男を前に、すべてを投げ打ってもいい、二人で世界の果てへ逃げ出せてしまえたらどれほど楽だろうと、その狂おしい愛の濁流に溺れかけた今の自分なら、あの時の満里奈の気持ちが痛いほどに分かってしまう。


(満里奈……あなたの気持ち、ちょっとわかったよ。あの男のことが好きで好きで、止められなかっただけなんだね。全てを捨ててもいいくらい……)


 裏切られたという怒りは、いつの間にか消え去っていた。ただ、激しい愛に突き動かされてメッセージ一つで去るしかなかった満里奈の、脆くも哀しい人間らしさを、今のエマはそっと受け入れることができた。



 エマは心の中で、満里奈に向かって「私の方こそ、ごめんね」と静かに呟いた。


(あの時、応援してあげられなくてごめんね。あんな男はやめろ、私との約束はどうするんだって、自分の物差しで責めたりしないで、もっとあなたの心に寄り添ってあげたら良かった。……ずっと憎んでいて、ごめんね……)


 愛憎ない混じりにケロイドのように引き攣れていた親友との思い出が、エマの涙と言葉によって、ようやく優しく、温かくほどけていく。




「ルイスさん、レオン。ありがとう。もう大丈夫よ」


 エマは肩にかけられた毛布をしっかりと握り直し、壊れた扉の向こうに広がる薄暗い廊下を見つめた。


 さようなら、可哀想だった私。

 さようなら、大好きだった満里奈。


 私はこの世界で、エマ・ヴァレンタインとして、大切な家族や仲間とともに、今度こそ幸せに生きてみせる。



 エマは長い、長い旅路の果てに、ようやく本当の意味で、前世の忌まわしい記憶と親友の喪失に別れを告げることができたのだった。

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