蛇の抱擁、狼の牙
最初は、単なる任務に過ぎなかった。
隣国の秘密組織から下された指令は、アストリッド教会という舞台を利用し、王国の貧しい平民、ひいては貴族たちを薬物で骨抜きにすること。そして、その象徴として、都合の良い女を『聖女』に祭り上げ、傀儡にすること。
ラファエルにとって、エマ・ヴァレンタインは「扱いやすい駒」のはずだった。
高貴で、おっとりとしていて、少しばかり世間知らずな美しい令嬢。
だからちょっとした暇つぶしを兼ねたからかいのつもりで、聖職者の仮面を被りながら甘い言葉を囁き、秋波を送った。
戸惑い頬を染める彼女を眺めるのは、退屈な任務の中でのささやかな娯楽に過ぎなかったのだ。
――だが、いつから狂い始めたのだろう。
側にいればいるほど、エマの瞳の奥にある「何か」に、ラファエルは視線を奪われるようになった。
時折、彼女が見せる、世界をすべて見透かしたような冷めた眼差し。絶望を知り尽くした者だけが持つ、凍りつくような孤高の気配。完璧な貴族令嬢の笑顔の裏に、深く、そして美しい『闇』が潜んでいた。
それを見る度、彼女の本質にもっと触れたい、彼女を知り尽くしたいという欲望が大きくなっていった。
男女の雰囲気に小動物のように怖がったかと思えば、達観した冷たい瞳で遠くを眺める姿。頭を撫でると無意識に甘えるように擦り寄る姿。
(ああ、愛おしい。僕の可愛いエマ……)
気づいた時には、本気で愛してしまっていた。
任務のためについた嘘は、いつしか本物の濁流となり、ラファエルの胸を焦がした。
彼女を組織の道具にしたくない。あの最高司祭の老いぼれの汚い手で、彼女を汚されたくない。
彼女のすべてを理解し、その欠けた心を満たし、永遠に自分のものにできるのは、世界で自分一人だけだ――。
だから、ラファエルは一線を越えた。
エマを地下牢に監禁したあの二日間の間に、ラファエルは教会の最奥で、自身のボスである最高司祭の部屋を訪れていた。
隣国の元精鋭諜報員として君臨していた老人は、背後から近づいたラファエルの気配に気づくことすらできなかった。
ラファエルは一切の躊躇なく、老人の首筋に毒物を注射し、心不全に見せかけてその息の根を止めたのだ。
『最高司祭は、神の元へ召された』
そう信者たちに告げ、ラファエルはその跡目を引き継ぐ実権を強引に掌握した。
すべては、組織の任務を裏切り、王立軍の包囲網が迫るこの教団を乗っ取ってでも、エマを連れて世界の果てへ逃げ延びるため。
――そして今、二人の世界が、この裏山の小屋で交錯する。
◆
「さあ、こちらへ」
影の中からゆっくりと姿を現したラファエルが、エマが到底逃げ出せないほどの強い力で、その細い腰を後ろから抱き寄せた。
ドレスの上からでも、彼の掌の、狂おしいほどの熱が伝わってくる。
ラファエルの鼻がエマの豊かな髪をかき分け、その薄い唇で彼女の後頭部へと軽く吸い付くようなキスを落とした。
そのさりげない行為には、エマへの情念が溢れている。
「これから行うのは、あなたの身に溜まった不浄な罪を濯ぐための神聖な儀式です。苦しく、痛みを伴うかもしれない。ですが、あなたの大罪を贖うためです、受け入れなければなりません。……ですが大丈夫です。罪が薄れていけば、最後にはきっと、神が至高の快楽として許しを表してくださるでしょう。安心して身を委ねてください」
ラファエルはエマを天蓋付きのベッドに腰掛けさせると、机の上から、とろりとした蜂蜜色の液体が満たされた杯を取り、エマの唇へと押し当てた。
「さあ、これを飲んで」
エマはその怪しげな液体を、躊躇うことなく一気に飲み干した。
瞬間、焼けるような熱が喉を通り過ぎていったかと思うと、下腹部がじんわりと熱くなり、それは恐ろしい速さで全身の血管へと回っていった。
じわじわと感覚が麻痺し、理性の境界線が溶けていく。
エマは熱に浮かされたような、濡れた瞳でラファエルを見上げた。
その視線に射抜かれたラファエルは、もう辛抱たまらないといった様子で、身につけていた聖職者の衣服を荒々しく脱ぎ捨てた。
エマが初めて目にする彼の上裸は、禁欲的な神父のイメージからは程遠いほど、意外なまでに強靭な筋肉が付いていた。
そしてかつて腕に見た教団の入れ墨が、うねる蛇のように彼の背中まで妖しく続いていた。
脳を揺らす媚薬の熱のせいか、エマは誘われるように無意識に手を伸ばし、彼の熱い肌へとそっと触れた。
「エマ……っ」
ラファエルは歓喜に目をらんらんと輝かせ、ギシリと重い音を立ててベッドへ這い上がると、エマの華奢な身体を押し倒し、彼女を跨ぐようにして馬乗りになった。
本気で愛してしまった女を完全に支配する快感に酔いしれながら、エマの頬から白いうなじ、首筋にかけて、唇で愛おしそうに食むようになぞっていく。
「っあ、ラファエル様……や、」
「ラファ、と」
耳元で男が甘く強請る。同時にラファエルはドレスの裾からするりと手を滑らせ、エマの粟立った柔らかな素肌の感触を貪るように楽しみ始めた。
その熱い手が肌を撫でるたび、くくすぐったいような、けれど触れたところからどろどろに溶けていくような、淫らな心地がエマの身体を支配していく。
外界の音が遮断された静寂の中、シーツが擦れる音と、二人の甘い吐息だけが響く。
「はあっ、ラファ、少し待って。あつくて……外の空気を吸いたいの……」
「だめです。これは罰なのですから」
「でも、私……このままじゃ……。罰じゃなくて、ご褒美になっちゃう。だって、あなたが好きなの……」
その言葉に、ラファエルは衝撃を受けたように大きく目を見張った。
胸を突いた激しい歓喜に、彼はたまらずエマの身体をきつく、壊れそうなほど強く抱きしめた。
「エマ……っエマ! 僕も、君が好きだ……愛してるんだ……!」
ラファエルの理性が完全に吹き飛ぶ。彼が堪らずエマに口づけをしようとした、その瞬間だった。
「――だからこそ」
エマは間髪入れずに、凛とした言葉を編み出した。
「あなたではなくて、最高司祭様に罰を与えてもらいたいの」
ラファエルの瞳に、淫靡な熱を湛えたエマだけが映っている。唇が今にも触れそうなその至近距離で、誘うようでいて残酷な調べを持つエマの声が鼓膜を揺らす。
「聖女である私を罰するのは、『救世主の生まれ変わり』である最高司祭様に他ならないわ。そうでしょう? これでは、私たち、ただの色欲の罪を重ねるだけですわ……」
その言葉に、ラファエルの形の良い口角がヒクリと醜く痙攣した。
プライドを激しく逆撫でされ、同時にエマがなお自分以外の――あの老いぼれの男を意識し、その腕に抱かれるところを想像した瞬間、脳裏にどす黒い独占欲と狂気が宿る。
「……落ち着いてから伝えようと思っていましたが、最高司祭様は心労がたたって、一昨日の夜に亡くなられたのです。彼がいなくなり、この教会も、聖アリア教もいずれは崩壊するでしょう……」
「そんな……!」
「ですが、死の間際、最高司祭様はその神聖なお役目をすべて僕に委ねられ、僕が新たな救世主になったのです。そしてこれは試練なのだと。また一からやり直すのだ、とそうおっしゃいました。その時は、隣にあなたがいてほしい……」
「ですが、孤児の子供たちは……」
「酷ですが、別の孤児院に行くなり、働くなり、どうにかなるでしょう。それよりも……早く、救世主と聖女の奇跡を始めよう……」
ちぐはぐな、妄想めいた甘い言葉を吐き散らしながら、ラファエルは先ほどよりも乱暴にエマの身体をまさぐりはじめた。
はだけたドレスから覗く素肌を、力尽くで我が物にしようと指先が這う。鎖骨の窪みを舌の先でくすぐるように刺激され、エマはぞくぞくと背中が粟立つのを感じた。
「エマ、本当に可愛い……愛してる……」
ラファエルはエマの唇を指でなぞると、その形の良い唇で塞いだ。
「ん……は、あっ」
口内を優しく舌先で撫でられると、頭の中でパチパチと快感がはじけてたまらない。
快楽に流される内に、気付けばラファエルの手はエマの太ももを辿り、閉じた足を開かせようとしていた。
しかしエマはふるりと、その愛を拒絶するように身体を震わせ、唇を離した。
「んっ……あ、ラファ……。しかし、急にそのようなことを言われましても、どう信じたらいいか……。——そうだわ!」
エマは困惑したように声を震わせ――次の瞬間、ガバッと凄まじい力でラファエルの胸元を突き飛ばし、その大きな身体を引き倒した。
「!?」
体勢が完全に逆転する。先ほどとは逆に、エマがラファエルの腹の上に馬乗りになったのだ。
あまりの早業と、普段のエマからは想像もつかない強引さに、ラファエルは驚愕した。
しかし、自らにのしかかるエマの臀部の柔らかさや、目の前に広がる細い腰のライン、はだけた衣服から覗く胸の膨らみの絶景に、ラファエルはゴクリと生唾を飲んだ。
その一瞬の男としての本能と、彼女への愛ゆえの油断が、致命的な隙を生じさせた。
エマは艶やかな仕草の細い指先をラファエルの臍へと走らせ、そこから胸元、そして喉元へ向けて、つつつ、と愛撫するように首筋までゆっくりとなぞっていった。
「——救世主様と言えば、最も有名な奇跡は『生き返り』ですわね」
エマはにっこりと、それこそ天上の天使のように可憐で、美しい笑みを浮かべた。だがその唇だけは先ほどの深い口づけの余韻を残し、ぽってりと赤く酷く妖艶だった。
「ちょうど良かった。私も一度、聖女としての奇跡を試してみたいと思っておりましたの」
「……? 何を――」
「……ですから神父様、今から一度、死んでいただけますか? あなたが本当の救世主様なら、私がすぐに生き返らせてみせますわ。きっと大丈夫ですもの。ね?」
ラファエルがその言葉の異常さに気づいた時には、すべてが遅かった。
エマは両手をラファエルの太い首へと添えると、一切の躊躇なく、全体重をかけてその気道をぐっと激しく締め付け始めた。
「が、はっ……!?」
見下ろすエマの、瞳孔の開いた青い瞳――。
そこに宿っていたのは、罠に掛かった獲物を絶対に逃がさないと、暗闇の中で静かに舌なめずりをする飢えた狼そのものの――底知れぬ、圧倒的な美しさであった。




