処刑台へ
「君が……君の婚約者や、あのルイスという男にほんの少しでも優しさを見せるだけで、僕は――嫉妬でおかしくなりそうなんだ」
そう囁いたラファエルは、私の返答を待たずに、名残惜しそうな目をして一人立ち上がった。
「……準備することがあります。しばらくここで、頭を冷やしていてください」
ガチャン、と重苦しい鉄扉が閉まり、容赦なく鍵がかけられる。
私は一人、地下牢の簡素な一室に取り残された。
静寂が部屋を支配するなか、私は冷たい木製の椅子に深く腰掛け、じっと己の手のひらを見つめていた。
指先は、恐怖からか、それとも寒さからか、かすかに震えている。
けれど、私の脳裏を占めていたのは、先ほど地上で、信者たちに囲まれて怯えていたレオンの姿だった。
(レオン……ちゃんと、あの資料を見つけられたかしら……)
皆の目の前で最後にレオンを庇い、その小さな身体を強く抱きしめたあの瞬間――私は、周囲の目を盗んで、彼の小さな手のひらに一枚の紙切れを押し込むように握らせていた。
そこには、私がこれまで教団の内部で見聞きした内容をまとめた詳細な記録、『神の酒』の製造記録の写し、それから研究所から届いたハーブの分析結果の「隠し場所」が記されている。
あの賢い少年なら、きっと私の意図を汲み、しかるべきところへその証拠を届けてくれるはず。私は自分の退路を断つ代わりに、一筋の希望を、あの少年に託したのだ。
それから、どれほどの時間が経ったのだろう。
窓のない地下室には、朝も夜もない。
時間の感覚はまたたく間に麻痺してしまった。
あれ以来ラファエルは訪れず、時々覇気のない信者によって、簡素な食事が届けられるだけだった。
壁の向こうからしばらくかすかにモナの叫び声が聞こえていたような気もしたが、それもいつしか、ぷつりと途絶えていた。
(一日……いえ、もう二日は経ったのかしら。レオンや孤児たちだけでも、逃げられたら……)
暗闇の中で精神がじわじわと削り取られていくのを感じていた、ある時のことだった。
突如として鉄扉が開き、数人の信者たちが無表情に室内に立ち入ってきた。
「エマ様。神父様のお言いつけです。――こちらへ」
連行された先は、教会の奥にある豪奢な湯殿だった。
「ここで身を清めてください」
信者たちに促されるまま、私は芯まで冷え切った身体を湯に浸した。肌を優しく、けれど執拗に磨き上げられ、新調された絹のように滑らかな純白のドレスに着替えさせられる。
だが、それが神聖な儀式などではなく、これから始まる「何か」のための下準備であることは、嫌というほど想像がついた。
身支度が終わった直後、背後から伸びてきた信者の手が、容赦なく私の視界を遮った。
光を一切通さない、黒い厚手の布が私の頭部に厳重に巻きつけられ、縛られた。
「歩いてください」
両腕を左右からがっしりと掴まれ、私はただ足元の感覚だけを頼りに歩かされた。
コツコツという石造りの床の響きから、やがて足元が湿った土と草の感触へと変わる。
目隠しのせいで、聴覚が異常なほど過敏になっていた。夜の冷たい風が肌を刺し、周囲の木々の葉がざわざわと波のように擦れ合う音が不気味な音調になって耳に届く。
山へ入ったのだ。
容赦なく斜面を登らされる。視界を奪われた状態での山道は、想像以上に過酷だった。
何度も足を踏み外しそうになりながら、どれほど歩かされたか分からない。
体力はとっくに限界を迎え、息が荒くなり、足が鉛のように重くなった頃、ようやく引きずるような足取りが止められた。
目の前で、古びた扉が開く「ギィ……」という不気味な軋み音が響く。
冷え切った室内へ乱暴に押し込まれた瞬間、それまで私の身体を拘束していた信者たちの手が、不意に離れた。
「……っ」
背後で、バタンと重い扉が閉まる。
私は震える手で、目隠しの布を剥ぎ取った。
細い蝋燭の炎が、部屋の片隅でゆらゆらと心許なく揺れている。
視界が焦点を結んだその場所は、月明かりの入る隙間すらない、密閉された木造りの小屋だった。
部屋の中央には、ぽつんと簡素な寝台が置かれている。
そして部屋の隅に置かれた香炉からは、かつて嗅いだことのある、嫌に甘ったるい香りが立ち込め、部屋中を満たしていた。
外界の音は一切遮断され、耳が痛くなるほどの静寂が押し寄せてくる。
頭が、くらくらする。
吸い込むたびに思考を鈍らせるようなその香りのなかで、ふと、一つの確信が私の頭をもたげた。
(――ああ、ここだわ。きっとここでルイスは、『調律の儀』とやらを受けたんだわ……)
反抗的な人間の精神を完膚なきまでに破壊し、自己催眠の呪縛をかける、あの『こわい部屋』。
薄暗い部屋の奥、影の中からゆっくりと姿を現したのは、狂おしいほどの独占欲を瞳に湛えた――ラファエルだった。




