奈落に落ちる
(私だけは、絶対にもう騙されない。そう思っていたはずなのに、どうしてこうなったんだろう)
慣れというのは恐ろしいものだ。
背反行為を疑われないよう、意識的に聖女らしく、教団の一員らしく演技していたつもりだった。だが、そうした演技はいつしか本心へとすり替わっていた。
両親には、ただ孤児に文字を教えるボランティアに行っているとしか伝えていない。
父と母から一度、「あんまりボランティアに入れ込みすぎないようにね」「ライアン様とはちゃんと仲良くしているのか?」と心配げに尋ねられたことがあったが、そんな言葉さえ、なぜか自分を責められているように感じてしまった。
私は正しい笑顔を貼り付け、ただ一言「承知しております」と答えるしかなかった。
前世の記憶を取り戻してからというもの、私の心は「エマ」よりも「茅野」の側に徐々に傾き始めていた。
(お父様もお母様も、前世の私のような苦しみは知らない。だからきっと、私がすべてを打ち明けて相談したところで、錯乱を起こしたと思われるだけだわ)
満たされなかった憎しみや悲しみは、満たされた幸せよりも遥かに強く記憶に残り続けるのはなぜだろう。
捨て去ってしまえばいいとわかっているのに、なぜいつまでも澱のようにこびり付いて消えてくれないのか。
このアストリッド教会が、人々の精神を蝕む欺瞞の巣窟であることは百も承知している。
けれど、子供たちからの信頼と最高司祭の包み込む父性、何よりもラファエルが差し出す愛は、前世で孤独に死んでいった私の魂を、あまりにも心地よく満たしてしまっていた。
(あともう少しだけ、この夢を見続けられたら……)
そんな、泥のように甘やかな依存の沼に、私は自ら沈みかけていた。
そんな仮初の夢を、残酷に切り裂いたのは――ルイスとの接触、そして一通の『手紙』だった。
あの日、疲れ切り、まるで酩酊したかのようなルイスの顔には、涙の跡があった。それを見た瞬間、嫌な記憶がフラッシュバックする。
(まるで、初めてあの『こわい部屋』から戻った直後の私みたい……)
焦点の定まらない瞳で、ルイスはぼんやりと私に問いかけた。
「エマ様も、『調律』を受けられたことがお有りで?」
調律。そのいかにもカルト的で悍ましい単語に、背筋が凍る。ルイスは、私の震えなど気づかない様子でさらに畳み掛けた。
「――エマ様。最高司祭様から伺ったのですが、『モナ』という少女をご存知ですか?」
「……なぜ貴方がその名を? 司祭様が、モナと?」
「ええ。司祭様はただ仰っていました。大いなる融解を前に、堕落した元信者の『悪魔の子』がいて、それが神話の再来なのだ、と。その名が、確か、モナ……と」
(あれは、私を籠絡するための作り話だと思っていた。それに、今まで私からモナの名前を出した事はなかったはず。……部外者の記者にまでそう吹き込んでいるなんて)
教団は何らかの脅威に備えて、全ての罪を彼女に着せ、真実を闇へ葬る手筈を整え始めている。
「…やっぱり。やっぱり、思った通りだわ……」
急に冷水を浴びせられたかのように、私の中で、甘い夢が音を立てて凍りついていった。
そして極めつけは、匿名で提出していた例のハーブの分析結果が、国の生物研究所から私の元へと届いた事だ。そこには、ただ事務的に、残酷な事実が並んでいた。
――主要成分の摂取による強い精神的依存性、および中枢神経系への機能障害の懸念。さらに、経皮吸収および微細毛の吸入により、成長期の子供の身体発育に著しく悪影響を及ぼす恐れあり。
紙を握りしめる指先が、白く震えた。
あのハーブを摘んでいるのは、身寄りのない下町の孤児たちだ。彼らを、自分の前世のようなカルトの犠牲者には絶対にしないと、そう誓ったはずではなかったか。
(……やはり、駄目。これ以上、この夢に溺れてはならない)
そう自らに言い聞かせた、まさにその時だった。あのゴシップ記者――ルイスが捕まり、地下牢へ入れられたという報せが耳に入った。
正直に言えば、放っておくべきか迷った。下手に動けば、自分の正体も立場も危うくなる。
だが、その事実を知ったレオンが、ボロボロと大粒の涙を流しているのが目に入ってきた。
あの、辛い過去を語る時すら決して涙を見せなかったレオンが、小さな肩を震わせている。
「俺のせいだ……俺が、あの時気をつけていれば……!」
少年の涙が、私の背中を強く押した。
それに、もうそろそろ、この甘い夢は終わりにしなければならない。そのためには、引き返せないほどの大きな行動に出る必要があった。
ルイスを逃がす――それは、私が自ら「聖女」という偽りの安寧を捨て、地獄へ足を踏み入れるための引き金だった。
◆
ルイスが消えたという事実は、光の速さで知れ渡った。教会内は「誰が逃がしたのか」と、皆が猜疑心に目を血走らせ、犯人捜しに躍起になっていた。
私はそんな彼らの様子を、廊下の陰からじっと見つめていた。
裏切り者を糾弾するために互いを罵り合う醜い光景が、私にとっては、前世のあの忌まわしい『同窓会』を彷彿とさせた。
どこまでも独善的で、狂った世界。
私は驚くほど凪いだ気持ちで、怯えるレオンを守るように抱きしめると、その場に爆弾を落とした。
「彼を逃がしたのは私です。不届き者とはいえ、命の灯が消えていくのを見逃すことができなかった……私の心の弱さのせいです。どのような罰でも受けます」
その場にいた信者たちが息を呑むなか、奥から現れたラファエルが、私の前にゆっくりと立った。
「エマ様。それは本当ですか?レオンを庇っているのなら……」
「本当です。その証拠に、地下牢の鍵がこの手の中に」
私はラファエルに見せつけるように、ゆっくりと鍵を懐から取り出した。
それを見た彼の瞼がピクリと動く。次の瞬間、私の手は彼に強く掴まれ、鍵を奪い取られていた。
「……あの男に絆されたのですか、エマ様。あんな危険な男を……」
「——もし、そうだと言ったら?」
私の言葉に、ラファエルの昏い瞳が揺れた。そこには隠しきれない激しい嫉妬と、底なしの独占欲が浮かんでいる。
「……そうですか。あなたが罰を受けるとおっしゃるのなら……仕方がありませんね」
彼の瞳の奥で燃え盛る炎を見た瞬間、私の心のどこかが「嬉しい」と歓喜に震えた。そんな自らの未練と弱さが、何よりも悔しくてたまらなかった。
無言になったラファエルに促され、私は冷たい地下へと降りていく。
ルイスを逃がしたのだ。相応の罰は最初から覚悟の上だった。
石造りの階段を降りていると、地下の奥から、静寂を切り裂くような甲高い叫び声が響いてきた。
「ねえ!あんた……!あんた、ライアンの女でしょ!?ここから出してよ!お願いだから!」
私はピタリと足を止めた。聞き覚えのある、あの傲慢で甘ったるい声。
――モナの声だ。
おそらく私の想像通り、教団幹部やモンテーニュ公爵夫人に「トカゲの尻尾切り」に遭い、使い捨てられてここに監禁されたのだろう。
学園でどれほど栄華を誇ろうと、カルトの末端など所詮はその程度の扱いだ。
ガタガタと鉄扉が激しく叩かれる。扉の小さな覗き窓から、髪を振り乱したモナの、血走った眼球が覗いた。
彼女は、通路を通りかかる私の姿を認めると、狂ったように叫んだ。
「お願い、ここから出して! ライアンならちゃんと返してあげるから!二度と近づかないから!だからその鍵を開けてよ、早く!ねえ!!」
必死に助けを求めるモナの醜い姿を、私はただ、静かに見つめ返した。
(……土台、無理な話よ)
彼女を助ける義理など、万に一つもない。それに、ルイスを逃がした私自身が、今まさにラファエルに連行され、罰を受けに向かっている最中なのだから。
「エマ様」
ラファエルが無感情な声で私を呼ぶ。その低い声は、聴く者をただ服従させる他ないと思わせる、絶対的な圧を孕んでいた。
私はモナの叫び声を完全に脳内から切り捨て、無言でラファエルの身体にそっと寄り添った。そうして、さらに奥の地下牢へと連れられていった。
◆
部屋に入ると、そこには薄暗い灯りの下に、簡素な机と椅子だけがぽつんと置かれていた。
ラファエルは私をそこに座らせると、先ほどまでの冷酷な態度とは打って変わり、酷く悲しげな、痛ましそうな表情を浮かべて私に問いかけた。
「なぜ、あのような事を? あの男に絆されたなど、嘘ですよね?……僕には本当の事を教えてくれませんか」
私は視線を落とし、俯いたまま静かに口を開いた。
「先ほども申し上げたとおり、ただ、人が死ぬのを見たくなかったのです。私は曲がりなりにも聖女なのですから……聖アリア教に泥を塗りたくなかったのです」
「——ほんとうに?」
ラファエルは、俯く私の顎に指先をかけると、拒むことを許さない力でグッとその顔を上に向かせた。
「君は、自分がどれほど魅力的なのかわかっていない。君の一挙一動が、僕の心をどれほど揺さぶるかも」
至近距離で交錯する、ラファエルのヘーゼルの瞳。
彼の美しい顔が切なげに歪み、吐息が触れるほどの距離で、甘く、そして懇願するような声が私の鼓膜を濡らす。
「ねえ、エマ。君が……君の婚約者や、あのルイスという男にほんの少しでも優しさを見せるだけで、僕は――嫉妬でおかしくなりそうなんだ」
その瞳に宿るのは、信仰でも欺瞞でもない、生身の男としての剥き出しの独占欲。
すべてを包み込んでくれるような温もりと、一歩間違えれば底なしの沼へと引きずり込まれるような、悍ましくも甘美な大人の男の誘惑。
(……ああ、やっぱり、ずるいわ)
胸を締め付けられるような悔しさと、それでもなお、この男を「愛しい」と思ってしまう自らの弱さ。
私は、見つめ合ったその目を、逸らすことができなかった。




