カウントダウン
「あの時の、マチルド令嬢からの忠告から本格的な調査が始まった」
第一王太子は回想を締めくくるように、再び現在の執務室へと視線を戻した。
「私は彼女を通じて、学園に持ち込まれていた不審なクッキーを入手し、極秘裏に調査を進めていた。そして、どうやらモナ令嬢の養子縁組を取り決めたのがリビエール男爵の本家筋であるモンテーニュ公爵家であった事、そして公爵家のいくつかの事業から絞り込み、お前をあの教会へ送ったのだ」
王太子はそう言って、机の上に一枚の極秘書類を提示した。そこには、国の生物研究室の捺印が鮮明に押されている。
「国の研究室が、やっとあのクッキーに仕込まれた乾燥ハーブの成分分析を終えた。そして時を同じくして、ブリュイエール公爵令嬢からの新たな情報が入った。――今夜、第二王太子である私の弟を含む多くの学生が、会員制サロンで大規模なパーティを開くらしい。さらに、例のハーブを材料にした薬草酒が、我が弟の後援によって振る舞われるとのことだ。この成分分析結果を大義名分に今夜、近衛兵を派遣して現場の摘発を行う」
「……なるほど。それでは残念ながら、弟君も罪は免れないかもしれませんね」
ルイスの冷静な指摘に、王太子は痛ましげに目を伏せた。
「……愚弟の事はもう良い、なるようにしかならん。だがなルイス。一つだけ、どうしても不可解なことがあったのだ。なぜか国が分析を完了する少し前に、全く同じ成分構成になる数種類のハーブの分析依頼が、すでに『匿名』で提出されていた」
「匿名、ですか……?」
ルイスは包帯に包まれた身を起こし、その書類の余白に記された受付記録を凝視した。そこから、さらなる驚愕の事実が浮かび上がろうとしていた。
「ああ。そして添えられていた依頼書は、高等教育と礼儀作法を叩き込まれた者によるものと判る、見事な筆跡だった。その文字の癖や使用する言葉選びから推測するに、貴族階級の女性だろうとのことだ。……おそらく教団の内部に、奴らを裏切ろうとしている別の『反逆者』がいる」
その言葉に、ルイスは息を呑み、胸の奥で確固たる確信を抱いた。
――エマだ。
『前世で私が……どれほど苦しみ続けてきたか、そんな簡単な言葉で終わらせないでよ……!!』
『いくら逃げても追いかけてくるなら立ち向かわなきゃおかしくなりそうなの!!』
脳裏に蘇るのは、地下牢で聞いたあの悲痛な叫び。そして、本心を隠すように貼り付けられた、何の感情も見透かすことのできない微笑みの仮面。
「殿下……」
ルイスは痛む胸を強引に押さえ、寝台から床へと足を下ろした。その瞳には、かつてないほどの激しい焦燥が浮かんでいた。
「その反逆者はおそらく……エマ・ヴァレンタイン伯爵令嬢です。彼女は、教団に洗脳されてなどいません。今この瞬間も彼女は、たった一人で奴らと戦っている」
その言葉に、第一王太子も微かに目を見開いた。
「彼女が……? しかしルイス、ヴァレンタイン伯爵令嬢はすでに教団の『聖女』として祭り上げられ、最高司祭や神父の側にいると聞く。もしそれが演技だというなら、彼女は文字通り虎の尾を踏み続けていることになるぞ」
王太子の警告を半ば無視するように、ルイスは制止する医師の手を強引に振り払って床に立ち上がった。
「ルイス! まだまともに動ける身体ではない、大人しく――」
「一刻の猶予もないのです。おそらく、俺を逃がしたことへの糾弾が、間もなく彼女の身に行われるでしょう」
ルイスは寝台の脇に置かれていた私服をひったくるように掴み、激痛に顔を歪めながらも強引に袖を通した。
ぐ、と喉から苦悶の息が漏れる。
「俺はこの足で、奴らの『正体』を完全に剥ぎ取ってきます。殿下はどうか、近衛兵を動かす準備を」
王太子はその制止すら寄せ付けないルイスの凄まじい眼光に圧され、やがて短く「……死ぬなよ」とだけ告げて彼を送り出した。
扉を閉め、夜の闇へと駆け出すルイス。その脳裏には、エマが去り際に見せた、今にも千切れそうなほど張り詰めた瞳の揺らぎが、いつまでも焼き付いて離れなかった。
◆
その頃、アストリッド教会では、地下牢から重要参考人であるルイスが消えたことで、蜂の巣をつついたような大騒ぎになっていた。
「おい、ガキ。お前が鍵を盗んで、あの男を逃がしたんじゃないだろうな!」
薄暗い廊下で荒々しい男たちに囲まれて糾弾され、激しく床に突き飛ばされたのはレオンだった。
「ち、違う!俺じゃない!」
「正直に吐け!お前が裏切り者だろう!いつも不気味なガキだと思ってたんだ!」
信者の分厚い手がレオンの細い髪を掴み上げようとした、その時だった。
「――お待ちなさい」
静寂を破るように、凛とした声が響いた。
廊下の奥からゆっくりと歩み寄ってきたのは、いまや教団で『聖女』として崇められ始めているエマだった。
彼女は怯えるレオンを庇うようにその小さな身体を抱きしめると、集まってきた大人たち、そして廊下の奥から現れた神父に向かって、切々と訴え始めた。
「彼を逃がしたのは私です。不届き者とはいえ、命の灯が消えていくのを見逃すことができなかった……私の心の弱さのせいです。どのような罰でも受けます」
レオンは、エマの腕の中でじっと息を潜めていた。エマの身体が、かすかに震えているのが伝わってくる。
エマの言葉を聞いた瞬間、神父ラファエルの顔がピクリと不快そうに歪んだ。
「エマ様。それは本当ですか?レオンを庇っているのなら……」
「本当です。その証拠に、地下牢の鍵がこの手の中に」
エマが懐から鍵を懐から取り出すのを見たラファエルは、黙ってエマの手を掴み、鍵を奪い取った。
「……あの男に絆されたのですか、エマ様。あんな危険な男を……」
「——もし、そうだと言ったら?」
エマは挑戦的な目でラファエルを射抜いた。
「……そうですか。あなたが罰を受けるとおっしゃるのなら……仕方がありませんね」
神父は眉間に深い皺を寄せ、エマの華奢な肩を、その骨張った大きな手でぐっと力任せに引き寄せた。
「では、じっくりとお話を伺いましょう」
神父に連れられて、奥へと歩み出すエマ。
レオンはその様子を、涙に濡れる目でただ見つめていることしかできなかった。
連行されていく神父の背中を見つめるエマの横顔からは、もはや何も読み取ることはできなかった。




