渦巻く陰謀
ルイスが地下牢に収容されて絶望に暮れていた時。そこへ現れたエマは、冷たい声でルイスに吐き捨てた。
「――酷い有様ですわね」
ルイスを見下ろす彼女の声は、独房の床よりも冷たかった。
エマはゆったりとした足取りでルイスに歩み寄った。
満身創痍の今、彼女に何をされてもルイスは抵抗すら叶わないだろう。
洗脳され教団にいいように利用される令嬢を助けようとしたのに、そんな令嬢本人に嵌められて命を落とすとは。そんな無力感を覚えながらも、ルイスの目だけはしっかりエマを威嚇していた。
しかし、その後エマが呟いた言葉に、彼は呆気にとられた。
「——今なら誰にも見られずに外に出られます。早く動いてください」
(聞き間違いか?いや——)
「……俺を密告したのはあんたじゃないのか? なぜ……俺を逃がすような真似を?」
「不届き者とはいえ、人死にを見るのは寝覚めが悪うございますから。これはただの慈悲です」
「それなら、一緒に逃げよう」
「私はここに残ります」
「なぜ……!」
ルイスは痛む胸をかきむしるようにして、掠れた声を絞り出す。
「レオンも、君を心配している……!君はヴァレンタイン伯爵家の令嬢だろ。何もかもが満たされた世界の人間が、なぜこんな奴らに……こんなくだらないことに振り回されるんだ!?心が弱すぎるんじゃないのか? しっかりしてください、エマ様!」
――くだらないこと。
――心が弱すぎる。
その言葉が部屋に響いた瞬間、エマの脳内で、パチンと何かが千切れる音がした。
激情と共に蘇るのは、前世の記憶――カルト村に生まれ、生まれた時から問答無用で教義を植え付けられ、逃げる選択肢すら知らずに苦しみ続け、なんとか一度逃げ出してもなお、死ぬまでその呪縛に魂を削られ続けた、あの孤独な半生。
(くだらない……?心が、弱い……?)
前世の自分がどれほどの地獄を生き、どれほど苦しみ抜いてきたか。今世でようやく手に入れたはずの平穏を投げ打ってまで、その因縁を断ち切るためにどれほどの覚悟でここにいるか。
そして何より……ラファエルという男に溺れかけ、またしてもその狂気の温もりから離れがたくなっている、今の自らの醜い弱さ。
そのすべてを、たったの一言で片付けられたことへの烈火のごとき怒りが、エマの全身を突き抜けた。
「……うるさい」
低く、地を這うような声がエマの口から漏れ出した。
「前世で私が……どれほど苦しみ続けてきたか、そんな簡単な言葉で終わらせないでよ……!!」
エマは這いつくばるルイスを、今にも殴り殺しかねないほどの鋭い眼光で見下ろした。その肩は激しく震え、瞳には涙さえ滲んでいる。
「くだらないこと? 心が弱い? ええ、そうね!!そのとおりよ!!だけど、いくら逃げても逃げても追いかけてくるなら、立ち向かわなきゃ頭がおかしくなりそうなの!!」
一気に言葉を吐き出すと、エマはハッと息を呑み、自らの口元を片手で押さえた。
あまりの怒りにルイスの前であることを完全に忘れ、前世のトラウマと、ラファエルへの恋心に揺らぐ自分への凄まじい嫌悪感を、そのまま叫び散らしてしまったのだ。
エマの顔が、一瞬にして青ざめる。
一方、ルイスは衝撃のあまり目を見開いていた。
(今の、どういう意味だ……?)
「前世」の意味は分からない。だが、立ち向かうとは――?
彼女は一体何から逃げたくて戦っているというのか。そしてあの目に宿った憎悪は、まるで昔の自分のよう……。
(彼女は、呑まれてなどいない?もしかしたらずっと一人で――)
「エマ様、あなたは――」
ルイスが核心へ手を伸ばそうとしたその時、彼女はルイスを突き放すように、冷酷な声で言葉を遮った。
「……これ以上、会話をする暇はありませんわ。さっさと出て行って、二度とここへは近寄らないことね。……次はありませんわ」
踵を返し、今度こそ振り返ることなく去っていくエマ。
残されたルイスは、全身の激痛を忘れ果てるほどの確信と希望を胸に抱き、死に物狂いで王宮への帰路へと這い進むのだった。
◆
全身を引き裂くような痛みが、一歩進むたびに脳髄を震わせる。
アストリッド教会の地下牢からエマによって解放されたルイスは、ボロ雑巾のような身体を引きずりながら、死に物狂いで夜の街を進んだ。
意識が途切れそうになるたび、あの絶望に濡れたエマの瞳が脳裏に蘇り、彼の身体を突き動かす。
王宮の勝手口から潜り込み、息も絶え絶えにルイスはようやく第一王太子の執務室へと辿り着いた。
扉を開けた瞬間に崩れ落ちた彼を、第一王太子は驚愕の目で見下ろし、すぐさま信頼できる専属の医師を呼び寄せて応急処置を施した。
傷口を白い包帯で固められ、ようやく人心地ついたルイスは、自分が教会で目撃した実態をすべて報告した。
孤児が育てる精神作用があると思わしきハーブ、裏山の小屋での自己催眠の儀式、地下の独房、最高司祭や神父――そして、聖女エマ。
報告を黙って聞いていた第一王太子は、深く椅子に身をもたれ、美しい眉をひそめて思案に暮れた。
「……よく生きて戻った、ルイス。お前の報告のおかげで、あの教団の枠組みが見えてきた。実はな……お前を聖アリア教の調査に向かわせるにあたって、私はある人物から、学園の異常についての直訴を受けていたのだ」
「直訴、ですか……?」
「ああ。第二王太子の婚約者――マチルド・ブリュイエール公爵令嬢からだ」
それはこの時から数ヶ月前、学園にあの「転入生」がやってきた時期へと巻き戻る。
◆
第二王太子の婚約者であるマチルドは、ここ数ヶ月の間、学園の空気が妙に浮ついていることに気づいていた。
始まりは、あの転入生――モナという娘がやってきてからのことだ。
「大した成績でもないのに特待生枠だなんて、おかしいわよね。どうせ裏で、体でも使ってリビエール男爵に取り入ったんじゃないかしら?」
教室の片隅で、扇で口元を隠しながらそんな下俗な噂話に興じるクラスメイトたちの声を、マチルドは冷ややかな面持ちで聞き流していた。
身分の低い平民が分不相応な権力を得て、無理矢理学園に入学してきた。最初は誰もがそう見下していたのだ。
しかし、その空気が一変するのに、さほど時間はかからなかった。
モナという少女は、すさまじい速度と手法で、学園内における自らの陣地を急速に拡大していったのである。
「この間まで、彼女のことを肩書きだけで悪く言ってしまっていて反省しておりますの。実際に接してみたら、全くの勘違いだったと気づいたのですわ……。むしろとてもいい子で、私を『お姉様』とまるで妹みたいに慕ってくれて、困ってしまいますの」
昨日までモナをドブネズミのように扱っていた高慢な令嬢が、まるで憑き物が落ちたかのような笑顔を浮かべ、嬉々としてモナを擁護し始める。
そんな光景が、学園の至る所で日常茶飯事となっていった。
さらに事態は、マチルドにとって最悪の局面へと突入する。
彼女の婚約者であるエマニュエル第二王太子、ひいては将来側近として国の要職につくであろう令息たちまでもが、次々と彼女に籠絡されていったのだ。
「学園の内部においては身分の差などない。彼女は僕たちに、今まで知り得なかった瑞々しい庶民の暮らしを教えてくれる、かけがえのない友人だ」
王太子本人がそう公言し、自らの排他的な取り巻きの輪の中へと、いとも簡単にモナを迎え入れた。その高揚した瞳、陶酔に満ちた声――。
(絶対におかしいわ。何か、恐ろしいことがこの学園で起きている……)
マチルドの背筋を、本能的な恐怖が駆け抜けた。これは単なる男女の情愛や、身分違いの恋などという生易しいものではない。
何かが、生徒たちの精神の根幹を裏から挿げ替えている。
強い危機感を抱いたマチルドは、もはや自分の手に負える範疇を超えていると判断し、婚約者の兄であり、この国の次期最高権力者となるべき第一王太子へと密かに接触を試みた。
重厚な宮殿の一室にて。
マチルドが震える声を必死に抑えながら、学園で目撃した全ての異常事態を語り終えるまで、第一王太子はただ黙って耳を傾けていた。その怜悧な美貌に、表情らしい表情は浮かばない。
しかし、すべてを聞き終えた彼は、窓の外の淀んだ空を見つめながら、ぽつりと、真剣な声を漏らした。
「――エマニュエルめ、あの痴れ者が……。弟がすまない、マチルド令嬢。だが、大人の介入し辛い学園という箱庭でそのような事になっていたとは。リビエール男爵の養女か……どうにもきな臭い」
その言葉には、モナという個人ではなく、その背後に潜む「何か」をすでに明確に見据えている王者の鋭さがあった。
彼は視線をマチルドへと戻すと、有無を言わせぬ調子で告げた。
「これ以上の詮索は君の身に危険を及ぼす。この件は、私にすべて任せてほしい」
その眼差しに、マチルドは深い安堵と、同時にそれ以上の底知れぬ不安を覚える。この学園は、この国は、一体何に侵食されようとしているのか。
だが、ブリュイエール公爵家の誇りにかけて、ただ守られるだけの存在で終わるつもりはなかった。
マチルドは真っ直ぐに第一王太子を見据え、毅然とした態度で頭を垂れた。
「……かしこまりました。しかしながら殿下、どうか私にできることがあれば、何なりとお申し付けください。この国を揺るがしうる悪を討つためならば、私はどのような役割でも果たす覚悟です」
第一王太子は鷹揚に頷くと、さっそく頭の中で計画を立て始めるのだった。




