斜陽の女王
モンテーニュ公爵夫人という地位は、この国の社交界において、誰もが羨む盤石の栄華そのものに見えていたに違いない。
だが、華やかなドレスを纏い、他者を徹底的に見下ろす彼女の足元はとうの昔に腐り落ち、崩壊の一歩手前まで追い詰められていたのが実情であった。
すべての元凶は、この公爵家の内情――あまりにも急速に、しかし確実に進んでいた「財政破綻」にある。
かつてモンテーニュ公爵家を支えていたのは、広大な領地から産出される莫大な鉱石だった。
国中の鉄鋼業を支配し、ただ座しているだけで金貨が文字通り山となって転がり込んできた時代を、公爵家は謳歌し続けてきた。
しかし、数年前から他国との貿易が本格的に始まると、状況は一変した。
海を渡って入ってくる、より質が良く、信じられないほど安価な外国産の鉱石。
それらが国内の市場に流通し始めた途端、公爵家の収入は激減し、かつての輝きは見る影もなく失われていったのである。
(先代ならば、もっと早い段階でこの先を見通し、別の事業を興すか新たな投資へと舵を切っていたでしょうに……)
公爵夫人は、夫である無能な現公爵の顔を思い浮かべるたび、激しい頭痛に苛まれていた。
彼女の夫である現公爵は、この破滅的な危機を前にしてもなお、現実から目を背け、自らの趣味や娯楽に湯水のように金を使い続けていたのである。
(あの無能がちゃんとしていれば、こんな事にならずにすんだと言うのに!金を使う事しか頭にない痴呆老人のせいで!)
——そうやって夫に責任を押し付け、歯噛みする夫人だが、彼女自身も周囲の変化に気づいたのは、ここ最近の事だった。
いつものように注文しようとした最新のドレスや、付き合いのある宝石商の訪問が、夫の独断によって勝手に断られていたのである。なぜそんな事をしたのかと夫を問い詰めても、「最近買いすぎだろう」と不機嫌にあしらわれるばかり。
不審に思いつつも、ある日の夕食時、出された料理の質が目に見えて下がっていることに夫人は激怒した。
「一体どういうことお前たち! モンテーニュ公爵家の食卓に、このようなみすぼらしい料理を出すなど……恥を知りなさい!」
給仕長を厳しく咎めた。しかし、その時、夫人は初めて異変に気づいた。
いつもなら夫人の怒声に怯え、何十人もが整列するはずの食堂。そこに立っていたのは、数えるほどの使用人だけだった。
彼らの制服は心なしか擦り切れ、その顔には、隠しようもない極限の疲労と困窮が浮かんでいたのである。
給仕長は震える声で、すでに何ヶ月も給金が滞っており、多くの同僚が去っていった事実を告白した。
公爵が己の娯楽のために、人件費諸々を使い込んでいたのだ。
「あなた!!一体これはどういう事ですの!?なぜ私に黙って……!」
「うるさい!!お前こそ、最近まで能天気に過ごしていただろうが!使用人の事はお前に任せていたはずだろう!!」
毎夜絶えない口論と、止めらない赤字。
このままでは、遠からずこの屋敷すら人手に渡る。
公爵夫人としての誇りも、人生も、すべてが塵となり終わる――。
だが、その恐るべき危機をまるで予見していたかのように、ある人物が夫人にある提案をしてきた。
それは彼女の「愛人」であった。
彼と夫人の出会いは、とある非公式の夜会だった。
遊びの分野に明るい友人に誘われて行ったその会で、夫人は初めての賭博を楽しんだ。
そんな初々しい彼女を面白がって声をかけてきた彼は、夫人に上手な遊び方を手取り足取り教えてくれたのだ。
後にねんごろになって知った事だが、彼は貴族の顔と裏社会の顔の二つを持つ男だった。
貴族の戸籍を買い取り優雅に振る舞ってはいるが、その本質は法も倫理も機能しない裏社会の住人だ。
だが、それを知った時には既に、公爵夫人は彼の心地よい腕の中から逃れられなくなっていた。
ある密やかな夜。
情事の後の微睡みの中、「もう公爵家は終わりだわ」と絶望に暮れる夫人の背中を指先で慰めるように愛撫しながら、彼は囁くような低い声で言った。
「奥様……美しいあなたを、そのような斜陽の家と共に終わらせるのはあまりにも惜しい。実は、私に『良い話』があるのですが聞いてくださいませんか?」
そう言って愛人が持ってきたのは、ある新興宗教組織からの秘密裏の提案だった。
彼らがこの国で活動を広げるための後ろ盾となり、資金洗浄や貴族社会へのパイプ役として協力するならば、莫大な金銭的援助および利権を約束する、というものだった。
「……ずいぶん都合の良い話ね。けれど、一介の宗教組織がそれほどの資金をどこから調達しているのかしら?」
夫人のその問いに、愛人はただ笑みを深めるだけだった。
「どこから、など意味のない問いですよ。永遠の安定などどこにも存在しない。常に強き者が入れ替わるだけの、砂上の城に過ぎないのです。じきに、かの宗教組織に派遣された私の『同胞』も、素晴らしい成果を上げる事でしょう。若き貴族たちが信仰と快楽に溺れれば、この国は内側から勝手に崩れていく……。その頭上に座るのが、あなたであれば良い」
愛人の言葉に、夫人はそれ以上の追及を止めた。
彼らが裏でどのような物を扱い、どんな非道を行っているかなど、夫人にはどうでもよかった。法に触れようが、誰が廃人になろうが知ったことではない。
必要なのは、モンテーニュ公爵夫人という、彼女の命よりも重い『至高の地位』を守るための圧倒的な資金――ただそれだけだった。
「……いいわ。その話、乗りましょう」
夫人は愛人の胸の中で、いやらしく微笑んだ。
秘密の契約は背徳的なスパイスとなり、二人は再び色欲の渦に身を任せた。
夫人は現公爵からはとうに失われた、若く強靭な男の腕に抱きすくめられ、昂揚感に身を震わせる。
家が傾く恐怖も、迫り来る破滅の足音も、この男の容赦のない愛撫がすべて塗りつぶしてくれた。
法に触れる恐怖など、互いの肌から伝わる熱に比べれば些細なことだった。
シルクのシーツが激しく擦れ合う音と、理性を融かされた二人の吐息の音だけが、豪奢な寝室にいつまでも響き渡った。
こうして彼女は、自らの意思で、底の知れない闇の奥深くへと足を踏み入れた。すべては、己の栄華を永遠のものとするために。




