箱入り娘
ガタガタと激しく揺れる馬車の中。
窓という窓には厚い板が容赦なく打ち付けられ、中は完全な闇に包まれていた。
外部の光を一切遮断された空間に、車輪が軋む不快な音と、馬のいななきだけが聞こえてくる。
自分が今どこを走っているのかすら分からない。
このままどこへ連れて行かれるのか——。指先一つ見えない暗闇の中で、私はただ座席の革にしがみつき、震えを堪えることしかできなかった。
しばらくして、ようやく馬車が止まった。
長時間馬車に揺られて悲鳴を上げる体をなんとか動かし外に出た。
その時私の目に飛び込んできたのは、森の木々に囲まれた、ひっそりと佇む質素な見知らぬ教会だった。
(地味な教会……。そうか、公爵夫人は私をここに匿って、世間のほとぼりが冷めるのを待つ気なのね。大丈夫。私は公爵夫人が指示したって知ってる。これを使ってゆすれば、あの女からいくらでも搾り取れる)
貴族の生徒たちから巻き上げてきた金や王太子からの贈り物も、自分しか知らない場所に隠してある。十分な金と新しい身分さえ用意してもらえば、例えば隣国へ行って再スタートする事だって可能だ。
しかし、声をかけても一切視線を合わせない無愛想な信者たちに囲まれ、教会の奥深く、光の届かない地下へと案内された瞬間――私の淡い期待は打ち砕かれた。
案内されたのは、家具らしい家具もない、冷え切った地下の小部屋だった。
突然、背筋を駆け上がるような強烈な悪寒が走る。
「逃げなければ、ここに入ったら駄目だ」という本能の警告が頭の中でけたたましく聞こえた気がしたが、もはや後の祭りだった。
振り向く瞬間、後ろから力強く背中を押され、私はよろめいて部屋に足を踏み入れてしまった。
背後で重厚な鉄の扉が、地響きのような凄まじい音を立てて閉まる。
続けて、ガチャン、ガチャンと、重い施錠の音が暗い空間に冷たく響き渡った。
「ちょっとなんで!?開けてよ!嘘でしょ、開けてってば!!」
扉の冷たい取っ手を、狂ったように両手でガタガタと揺らす。
だが、鉄塊はびくともしない。手のひらに赤黒い鉄錆の匂いが移る。
「なんでこんな目に遭わなきゃいけないのよ……私は王太子妃になるはずだったのよ!この国の頂点に立って、偉そうな奴らを全員見下ろすはずだったのに!なんでこの私が、こんな場所に閉じ込められなきゃいけないの!おい!聞こえてんでしょ!?出せよ!ふざけんな、この私を誰だと思ってんだよ!!」
だがいくら叫んでも、狭い小部屋の冷たい石壁に虚しく響くばかり。
外からの返答は、一切ない。
扉の中央には、外の様子を窺うための、大人の手のひら幅ほどの小さな横長の覗き窓がついていて、廊下から光がうっすらと差し込んでいる。
私はその鉄格子のついた窓にしがみつき、薄暗い廊下に向かって、ありったけの声で、喉を掻きむしるように罵詈雑言をぶちまけた。
私をこんな場所へ追いやった公爵夫人への、激しい呪詛。
あれほど私を崇拝していたくせに、有事の瞬間に手のひらを返して逃げ出した従順な生徒たちへの、罵倒。
そして、愛を囁きながらも私を守る権力すら持たなかった、無能な王太子たちへの怒り。
私を薄汚く消費しようとする男、排除しようとする女、愛さなかった両親。
この世の全てへの、どす黒い憎しみが溢れ出す。
狂ったように叫び続け、呪いの言葉を吐き散らし、どれほどの時間が経っただろうか。
やがて喉は完全に枯れ果て、血の味が混じり始めた。
体力を使い果たした私は、冷たい床にずるずると力なく座り込んだ。
こんな悲惨な状況だというのに、身にまとったドレスのシルクのドレープが、暗闇の中で忌々しいくらい美しく、微かな光を反射して床に流れている。
それが自分の今の境遇を余計に惨めに思わせ、激しい屈辱が込み上げてきた。
ボロボロと大粒の涙が溢れ出した、その時――。
完全に静まり返った地下廊下の奥から、静寂を破るように、複数の靴音がコツコツ、とゆっくり近づいてくるのが聞こえた。
「――っ!」
私は弾かれたように起き上がった。
ドレスの裾を踏んで床に激しく膝を打ち付けながらも、その勢いのまま、這い上がるように血走った目で再び扉の覗き窓へと縋り付いた。
誰でもいい。公爵夫人の使いでも、教会の人間でもいい。
ここから出して、光のある場所へ戻してくれる人間なら、悪魔だって構わない――。
薄暗い廊下を歩いてくるのは、上質な仕立てのブルーのドレスを纏った一人の若い女と、法衣を纏った背の高い男だった。
その女の凛とした、一片の曇りもない美しい横顔が、壁の松明の僅かなオレンジ色の光に照らされて、暗闇の中に浮かび上がる。
(あの女……見覚えがある。絶対にどこかで会っている。たぶん、あの学園にいたはずだ、あの……)
混濁する記憶の引き出しを、あちこちひっくり返す。
そうだ。思い出した。
王太子の取り巻きの中で、一番ガードが固く、落とすのに最も手こずった男――ライアン。
あの男の婚約者の女……たしか名前はエマ。
温室で私とライアンの逢瀬を見て、文句すら言えずに逃げ出した、あの哀れな負け犬の女だ。
「ねえ!あんた……!あんた、ライアンの女でしょ!?ここから出してよ!お願いだから!」
私はなりふり構わず、鉄の窓を激しく叩いた。
「お願い、ここから出して! ライアンならちゃんと返してあげるから!二度と近づかないから!だからその鍵を開けてよ、早く!ねえ!!」
かつて見下していた相手に、必死に醜く喚き散らす私。
その叫びが届いたのか、エマは私の部屋の前で、ふっと静かに足を止めた。
彼女はゆっくりと覗き窓へと近づいてきて、その視線を私に向けた。
だが——そこに立っていたのは、かつて私が嘲笑った、婚約者を奪われて涙を流していた哀れな令嬢などではなかった。
その瞳には、私に対する激しい怒りも憎しみも、あるいは私を失脚させたという勝ち誇ったような愉悦すら、微塵も存在しなかった。
道端に転がる、踏まれて死に絶えようとしている虫ケラを、無関心に眺めるかのような――無機質な視線。
「……っ」
精巧に作られた人形のようなその目に真っ向から射すくめられ、私は息を呑み、次の言葉を完全に失った。
「エマ様」
エマは男に呼ばれると、私の存在など最初からそこに無かったかのようにすぐに冷ややかに視線を前方へと戻した。
そして、衣擦れの柔らかな音だけを暗闇に残して、そのまま隣の男に寄り添い、一歩も歩調を乱すことなく無言で廊下の奥へと去っていった。
ライアンの名前を出せば少しは動揺すると思ったのに、彼女の美しい眉は、ピクリとも動かなかった。
彼女にとって、ライアンも、そして私も、もう視界に入れる価値すらない過去の遺物なのだと思い知らされた。
「待って!置いていかないで!待ってよ!助けてよ!!」
——遠ざかっていく、冷たく規則正しい靴音。
私はただ、二度と開く事はない狭い箱の中で、耳を塞ぐこともできずに、その音を聞き続けることしかできなかった。




