蟻地獄
聖女として教団の中枢に潜り込んだ私に増えたのは、最高司祭、あるいはラファエル神父と過ごす時間だった。
全方位の人間を疑い続け、同時に「自分も疑われているかもしれない」と張り詰める心労は、気づかぬうちに私を底知れぬ深淵の淵へと追い詰めていた。
(レオンの両親が教団によって殺された証拠は一向に見つからない……もし、もしも、それが彼の思い込みだったとしたら?私は一体何を探したらいいの……)
そんな全てを一人で背負う極限のプレッシャーの隙間に、一見穏やかで知識人めいた最高司祭の存在は、静かに、さりげなく心の隙間に滑り込んできた。
ある時、私は最高司祭に思い切って、ずっと胸に引っかかってきた疑問を投げかけた。
「司祭様……あのハーブの栽培を、子供たちに手伝わせるのはおやめになってはいかがでしょうか」
組織を憂う「聖女」としての進言。
そう、聖女になってわりとすぐ、私は教団がハーブの精神作用を認識した上で利用しているという事実を、なかば既定路線のように知らされたのだ。
しかし最高司祭は私の言葉を否定するどころか、実に真摯な態度で耳を傾け、諭すように静かに語り始めた。
「エマ令嬢。あのハーブは、決して悪いものではないのだよ。不安を溶かし、心を安定させる効果のある事は確かだが、きちんと用法を守ればむしろ良いものなのだよ。それに、何事も使いすぎては毒になる。……薬の歴史とは、常に捉え方を巡る争いなのだ。末期の人間の痛みをなくす薬が、一歩間違えれば麻薬にもなるように。そして、それがなければ狂ってしまって、死んでいるのと同然の悲しき人々も、この世界にはいるのだ」
彼は古今東西の医療の歴史を紐解き、あのハーブが持つ効能について医学的根拠を並べ、人々の精神を救う薬でもあるのだと説明した。
彼の佇まいには、法を犯している後ろ暗さなど微塵も感じられなかった。
さらに最高司祭は、私にだけ秘密を明かすように重い口を開いた。
「救世主、聖女……そう崇められてはいても、私たちもまた、血の通った人間だ。この残酷な世界において、全ての人々を等しく救うことなど不可能なのだよ。大いなる調和のためには、避けられない痛みもある」
「……っ」
「無理もない、貴方が戸惑うのも。……だがエマ令嬢、私はかつて、激しい内乱の最前線で戦った事がある。これはその時の傷だ」
最高司祭は遠い過去を惜しむように目を細めると、身に纏った豪奢な祭服の胸元を、躊躇いなく少しだけ寛げてみせた。
その傷跡はあまりにも巨大で生々しく、私は思わず目をそらした。
「……戦争で本当に苦しむのは誰だと思うかね?それは、第一線で命を削る戦士や、今日を生きる庶民だ。安全な城の奥に引きこもる上の人間たちは、ただ指先で指示を出すだけ。使い捨てられる側の死に喘ぐ苦しみなど、彼らは知りもしない。だが私は、それを嫌というほど分かっている。……では、彼らが真に求めるものは何だと思う?」
老人の底知れぬ瞳に、現実的な凄みが宿る。
「――『今すぐに、この苦しみから解放される事』だ。たとえそれが、ハーブがもたらす一時しのぎの幻影だとしてもね。……衣食住が満たされ、痛みのない安全な場所にいる人間たちは、高みの見物を決め込みながら我が教会を批判するだろう。そんな薬に頼るのは何の解決にもならない、ただの現実逃避だとね。だが、私は知っている。綺麗事をのたまう彼らとて、もし同じ地獄に放り込まれれば、狂い狂って同じように薬を求めたはずだ。所詮、人間は与えられた環境で藻掻くしかない、哀れな生き物なのだよ」
司祭の言葉が、私の胸にちくりと刺さる。
今世の私は、何不自由ない伯爵令嬢だ。飢えを知らず、冷たい雨に怯えることもなく、美しく安全なドレスに身を包んで生きてきた。
前世の私だって、衣食に困っていたわけではない……その点なら、よっぽど満里奈の方が理解していた部分だろう。
私こそ、司祭の言う「安全な場所から綺麗事をのたまう側」の人間そのものではないか、と内なる罪悪感が頭をもたげる。
だが、最高司祭は私のそんな動揺すら見透かしたように瞳を柔らかく細めた。
「しかし、エマ令嬢。貴方は彼らとは違う。そんな恵まれた貴族の身でありながら、自らこの場所にまで足を運び、子供たちの身を案じてくれた。市井の苦しみに本気で胸を痛められる貴方のような方は、極めて稀有な存在だ。だからこそ、貴方は聖女様なのだ」
そう言って、そっと私の肩に添えられた温かな大きな手のひら。
今世のエマには、優しく立派な貴族の父親がいる。
けれど、私の根底にある「茅野」としての精神には、父親という存在の記憶が一切なかった。
安全な温室で育ったエマとしての罪悪感を優しく融解し、同時に、過酷な現場の痛みを誰よりも知る前世の私の心を「貴方は特別だ」と満たしてくるこの老人に、私の魂は無意識のうちに「理想の父親像」を重ねてしまっていた。
すべてを包容し、現世の不条理から匿ってくれる、絶対的な父性の幻影を。
「理想だけでは人は救えない。今は人手が足りず、どうしても子供たちの手を借りてハーブを栽培しなければ、この組織を維持できない現状なのだよ。だが、これはあくまで過渡期の痛みに過ぎない」
最高司祭はそう言うと、慈父のような温かい眼差しを私に向けた。
「いずれ我が教会の教えが広まり、さらに信者が増えれば、子供たちを過酷な作業から完全に解放してやれる。その時は、彼らに十分な教育を与え、もっと光の当たる、より良い環境で健やかに育てていくつもりだ。……子供たちを守りたいという貴方の気持ちはとても高潔で、素晴らしいものだ。これからも、沢山素直な意見を聞かせてほしい。ありがとう、エマ令嬢」
そう言って、最高司祭は私をその皺だらけの手で温かく抱きしめた。
肉親のそれとは違う、けれど前世からずっと渇望していた「自分の苦しみを全肯定される温もり」が、私の心の奥底に、驚くほど深く突き刺さった。
——そうやって彼と組織の未来について「意見交換」を重ねているうちに、私の脳裏にはいつしか、おぞましい傲慢さが鎌首をもたげていた。
この教会がなければ、とっくに子供たちは飢え死にしていてこの世にはいない。
少々の薬物の栽培が、彼らの命を繋ぐための「避けられない犠牲」だと言うのなら、それは本当に悪なのだろうか。
(前世の誰もが知る大きな宗教だって、かつては過ちを犯したけれど軌道修正して大きくなったんじゃないの。今、ここで道を正すことができれば……。今なら、私の手でこの組織を、まともな宗教へ方針を変えられるかもしれない)
ミイラ取りがミイラになるとは、まさにこのことだった。
かつて前世の私が、あれほど憎み、呪い、命がけで逃げ出したはずの独善的な論理。
それと全く同じ思考の迷路に、私は足を踏み入れかけていた。
◆
そして、ラファエルの存在もまた、それを加速させる大きな要因だった。
少し肌寒い日の夕方、西陽の差し込む礼拝堂でたまたま二人きりになった時のこと。
礼拝堂は冷たい空気で満ちていて、私は身震いし、無意識に手を擦り合わせていた。
すると彼は「寒いですか?」と言って、自分が羽織っていた法衣をそっと私の肩に差し出してきたのだ。
断る理由もなくそのまま肩にかけると、肌に触れた布は思いのほか暖かく、張り詰めていた心がすっと緩んだ。ただそれだけのことなのに、驚くほどの熱が心臓へと逆流してくる。
「エマ様、あまり根を詰めないでください。あなたの美しい瞳が曇るのを見ると、僕は辛い」
彼は少しだけ困ったように眉を下げて微笑んだ。
いつもの作り物めいた聖職者の笑顔ではない。あの資料室で見せたような男の色香に、どこか頼りなげな陰りを混ぜたような、ひどく魅力的な表情だった。
それ以来、いけないと分かっているのに、つい彼を目で追ってしまうようになった。
ラファエルもまた、そんな私の視線に気づいているようだった。
そして、あの雨の日。
資料室で向き合っての作業中、ラファエルはおもむろに机に片腕を伸ばして頭を載せたかと思うと、すくい上げるような視線でこちらの顔を覗き込んできた。
年上の大人の男性が、自分にだけ見せるような、甘えるような表情。
「……僕が、救世主様の生まれ変わりだったら良かったのに。そうすれば、あなたの対の存在として、いつでも側にいられるのに」
息を呑んで固まる私をじっと見つめたまま、彼は伸ばした片腕を動かして、私の手の下に指をそっと滑り込ませた。
振りほどこうと思えば振りほどけたはずなのに、体が動かなかった。
そして、彼はその手を自身の方へと引き寄せた。
――手の平に、柔らかく温かいものが触れた。
ヘーゼルの瞳は私を捉えて離さないまま、彼は慈しむように、しかし確かな独占欲を滲ませて、そっと口づけを落とした。
「――エマ」
見つめながら名前を呼ばれ、きゅうっとお腹の奥が痺れた。呼吸が乱れて、言葉が出ない。耳の中でラファエルの声だけが響いて、雨の音すら聞こえない。
「……君は、心から聖アリアの神を信じていますか?」
ふと伏せたラファエルの金色の睫毛が心細げに震えた。先ほど彼の唇が触れた手のひらが、まだじんじんと疼いている。
「実のところ、僕は聖職者でありながら、時々祭壇の前で祈るたびに虚しさを感じているのです。神などどこにもいないのではないか、どんなに尽くしても神は応えてもくれない、と……。こんな思い、誰にも言えなかった。この法衣を着ている限り、信仰を疑うことは最大の背信だから」
彼は両手で私の手を強く握ると、その手に縋るように自分の頬を押し当てた。再び目が合う。
「でも、君と出会って、僕は初めて『救い』を信じられた気がする。……エマ。こんな浅ましい僕を、君は赦してくれますか?」
聖職者と捕食者の二面性を持つ彼が、私というただの女に縋りついている。
その事実に、胸の奥がどろりと甘く、重く溶けていく。
資料室の空気は冷たい。けれど、彼の目が、手にかかる吐息が、静かに皮膚を伝って、身体の奥に燻る熱となって燃え移っていく。
――これは恋じゃない。頭では分かっている。
孤独なターゲットを孤立させ、特別な言葉と肉体的な親密さで全肯定し、「あなたには私しかいない」と思わせるカルトの常套手段。
愛情を餌に、精神を搦め取るやり方だ。
そう、分かっているのに、手の平に残る彼の体温とヘーゼルの瞳から放たれる射抜くような視線に、すべてを預けたくなってしまう。
……それほどまでに、ラファエルの瞳には「本物の」激しい劣情が宿っていた。
私を縛る令嬢としての重圧も、前世の復讐心も、この人の前ではすべて脱ぎ捨ててしまいたい――そんな甘美な錯覚が、私の輪郭を少しずつ溶かしていく。
「……っ、や、やめてください。私、私には、婚約者がいるのです」
私は理性を振り絞って、彼の手をぱっと振りほどいた。これ以上は、本当に危険だ。
しかし、ラファエルは拒絶されてもなお、静かな声で私を追い詰めてくる。
「君を放って他の女にうつつを抜かした男なんかのところに、まだ帰りたいと?」
「そうじゃありません。ただ、婚約が続いている以上、私は彼と同じような不義理はしたくないのです」
「……わかった。でも、僕はもう気持ちを隠せない」
彼は立ち上がり私の頭を撫でると、それ以上、決して無理に踏み込んではこなかった。
ただそれ以降も、私の心が弱っている時には、まるで見透かしたようなタイミングで側にいてくれた。
そして、この前のような淫靡なやり取りがまるでなかったかのように、他愛のない雑談で緊張を解してくれるのだ。
それでいて、衆人の目が離れた隙にそっと髪の一房を持ち上げては口づけを落とし、「可愛い」と囁かれるたび、私の防衛線がドロドロと溶けていくのが分かった。
抗えない泥濘に、私は沈んでいく。
——これじゃあ、満里奈の事を責める資格なんかない。
あの時、中庭でルイスにぶつけた苛立ち。彼が私に放った「洗脳されてる」という分かりきった忠告すら、今の私の脳内では『彼は何も分かっていない』という排他的な思い込みへと、音を立てて変換されていく。
何より、私のすべてを肯定し、甘やかしてくれるラファエルのいるこの場所が、今の私にとっての確かな心の拠り所になりつつあった。
——ずっと頭の奥で、警鐘が鳴り響いている。
何を信じたらよいのだろうか。
もう、進むべき道が、どこにも見えなくなっていた。




