盲目の聖女
聖女に認定されて数日後の事。
薬草園に続く廊下で、レオンと暗号化した言葉で密談を交わしていたその時、わざと革靴の足音を響かせながら近づいてくる不躾な気配があった。
「――やあ」
声をかけられ、私は顔を上げた。本能的に、協力者であるレオンを背中に隠すようにして立ち上がる。
(この男、あの時の……!)
そこに立っていたのは、あの、数日前に教会の敷地の外で私に「洗脳されている」などと偉そうに忠告してきた、怪しい男だった。
男はあえて粗野な態度を少し崩し、参ったというように頭を掻いてみせる。
「この間は悪かったね。急に変な男に声をかけられて、怖がらせちまっただろう」
「あなた、は……あの時の」
私は声を潜め、男を鋭く睨みつけた。
この男、一体何をしにここに潜り込んできたのだろう。
「いやさ、あの後、俺もどうしても気になってね。聖アリア教について自分なりに調べてみたんだ。そうしたら……いや、驚いたね。俺が間違ってた。ここは本当に素晴らしい、素晴らしい教会だ。記者の端くれとして、きちんと世間に真実を伝えないとと思ってね」
親しみやすい笑みを浮かべ、ペラペラとそれらしい言葉を並べ立てる男。
私は内心で激しく舌打ちをした。
この男が本当にカルトの口車に乗せられて洗脳された哀れな信者なのか、それとも、別の目的で教団を嗅ぎ回っているスパイなのか、今の私にはどちらでもよかった。そんなことはどうだっていい。
ただ一つ確かなのは、この男の存在が、私の復讐計画にとって「ひどく邪魔で、鬱陶しい」ということだけだ。
(今は中枢に潜り込んだばかりの、一番大事な局面なのに。こいつが変な動きをして計画倒れしたら最悪よ)
カルト教団を内側から確実に破滅させる。その私の執念の前に、こんな男の事情など、一切考慮に値しなかった。
私は一瞬で波立つ心を落ち着かせると、完璧な貴族令嬢らしく微笑んでみせた。
「――まあ。それは本当に素晴らしいことですわ!」
口からはいくらでも出任せを吐くことができる。
けれど、男は意外にも勘が優れているようだった。
私の瞳に滲む無関心と拒絶を見抜いたようで、男の顔が微かに引き攣る。
(面倒くさい。私の名前もなぜか既に知っていたようだし、不信感しかないわ)
◆
ルイスと名乗ったその男は持ち前の親しみやすさで、瞬く間に子供たちの心をがっちりと掴んだようだった。
中庭で遊んでいるところを見かける度に、子供たちの顔がキラキラと輝き、彼に懐いているのが見て分かる。
子供は正直だ。
神父にはどこか遠慮しているところもある彼らだが、ルイスに対しては本物の兄弟のようにじゃれ合っている。
その様子を遠巻きに眺めていると、前世の自分の、あの何も知らずに村で無邪気に遊んでいた幼少期が脳裏に蘇り、胸の奥がチクリとした。
だが、今の私はそれよりも考えねばならない事がある。内部事情を調べる時間の余裕がない事だ。
それは最高司祭から「聖女」として認められたことで、新たに私への締め付けと役割が格段に増えたからだった。
これまでよりも自由に動く事ができなくなり、唯一の味方であるレオンとの接触すら、なかなか難しくなってしまっていた。
日々募る焦燥と憤り。
だからこそ、たまたま僅かな時間ができた時、レオンにしつこく話しかけ、私とレオンの接触の機会を奪うルイスの姿を見て、私はつい余計な声をかけてしまったのだ。
「レオンは、人見知りが激しい子なのですわ」
(——だから、あの子を放っといてよ)
もしかしたら、言外にそんな心の声が漏れ出てしまっていたかもしれない。
そんな私に対し、呑気に「子供たちのあの笑顔、嘘偽りのない『救い』がここにはありますね」などとのたまうその浅はかさ、更に世間知らずの令嬢には甘い言葉と素振りで誘えば簡単に揺らぐだろう、と侮る軽薄さに、私の中で苛立ちが限界まで募った。
「いつまでそうやって首を突っ込んでくるつもりなのですか? ここは神聖な救いの場。これ以上、熱心な信徒でもない方がふらふらと踏み荒らしていい場所ではありませんの。目的がお済みでしたら、どうぞお早めにお帰りになって。お仕事がお忙しい記者様を、これ以上お引き留めしては申し訳ありませんもの」
私は顔にひび割れそうな笑顔を作って見せるものの、言葉の端々に本心のトゲが滲み出すのを止められなかった。
私は怒りを腹に抱えたまま、踵を返した。
その時、遠くのラファエルとばちっと目が合った。彼は微笑み、おいでおいでと小さく手を動かしていた。
——まずい。あの男と話しているところを見られてしまった。怪しい男と通じてると疑われては、これまで積み上げてきた信頼関係が壊れてしまう……と頭の中で素早く計算し、「あなたと会えて嬉しい」と伝わるような満面の笑みを作って近寄った。
「エマ様、お疲れさまです」
ラファエルは労うように、私の頭をそっと撫でた。
大きな、温かい手のひら。私はその心地よさに流されないようにと言い聞かせながら、甘んじてそれを受け入れた。
「先ほど、あの男と話していましたね」
「……私、粗野な男性は嫌ですわ。あのような下賤な甘言に擦り寄るとでも思われたのなら心外です」
そう言った瞬間、彼の手がピタリと止まった。目がすっと細まり、私を試すような挑戦的な瞳に変わる。
「エマ様は、悪い男はお嫌いですか?」
ラファエルはそう囁きながら、私の髪に触れていた手を滑らせ、そっと人差し指の背で頬を撫でた。
至近距離で見つめ返してくる彼の瞳は、吸い込まれそうなほど美しい闇を覗かせていた。
(……この男は、この教団の一員なのに)
「……だとしたら、僕も嫌われてしまうかもしれませんね」
ラファエルの低い声が私の耳をくすぐり、脳内へと侵入してくる。
「……意地悪は、おやめになって」
震える声に精一杯の抵抗を込めて彼を睨む。けれど、私の瞳にはきっと、隠しきれない動揺が滲んでいた。
ラファエルは私のそんな反応を愛おしむように目を細め、ゆっくりと指を離した。
——ああ、どうして。
憎悪と、名前のつかない熱情の狭間で、私は息の仕方も忘れてしまいそうになる。
――そんな私の様子を、レオンがどれほど悲しそうな目で遠くから見つめているか。
私は、この時気づくこともできなかった。




