夢か幻かそれとも妄執か
ある日の午後、ラファエル神父が不意に近付いて、耳元で囁いた。
「エマ様、大事な話があります。あとで応接室までお越しいただけますか」
いつもよりトーンの低い、かすかな小声。彼はわかってやっている。男女の情愛に不慣れな私が、その誘うような気配を敏感に察知し、動揺してしまうことを。
あの資料室での、唇が触れ合うほどに近づいた距離。法衣の裾から覗いた生々しい刺青に、そして彼が隠そうともしなかった官能の気配が、一瞬で脳裏に蘇る。
胸がドクドクと不規則な音を立てて波打ち、指先が微かに熱を帯びる。
(――忌々しい。私はいつまで振り回されるの?)
あの香りのせいだ。私の脳が、一度紐付けた誤情報を解除できずに、バカみたいに過剰反応しているだけだ。
——そう自分に言い聞かせても、見つめ合ってしまった彼のヘーゼルの瞳が、今でもはっきりと脳裏に焼き付いて離れない。
「このままだと沼に引きずり込まれて出られなくなるかもしれない。今なら逃げられる、奴から離れろ」と本能が叫んでいる。
(今なら、まだ引き返せる……だけど……)
——引き返せるはずがない。ここで怖気づいて逃げ出せば、この男に身も心も負けたようなものだ。
惑わされるな、油断するな、私の目的はこの教団を地獄へ叩き落とす事。
私は胸の中で自分を鼓舞し、背中に冷たい汗が伝うのを感じながらも、恐怖を理性で力ずくで押さえ込んだ。
もう後戻りという選択肢はない。進むしかないのだ。
◆
私は、指定された応接室の重い扉を押し開けた。
待っていたのは、いつもの神父だけではなかった。
部屋の奥、上座にゆったりと腰掛けていたのは、見覚えのない一人の老いた男だった。立派な髭を蓄え、一見すると慈愛に満ちた好々爺のようだが、その瞳の奥は異様に落ち着いていて、底の知れない威圧感が放たれている。
「エマ様、こちらはこの聖アリア教会のすべての権限を握る、最高司祭様です。お目通りできるのは一握りの、清き精神を認められた人間だけなのです。エマ様は選ばれたのですよ! おめでとうございます!」
隣で神父が、興奮を隠しきれないといった様子で声を弾ませる。
(この老人が、教祖ね……!ついに会えたわ)
私が戸惑う可憐な令嬢を演じながら静かに一礼すると、最高司祭は鷹揚に頷き、低く重厚な声を響かせた。
「よくぞ来てくれた、エマ令嬢。……驚かずに聞いてほしい。実は、私はこの世界をかつて救った『救世主の生まれ変わり』なのだよ」
(救世主の、生まれ変わり……ですって?あぁ呆れた!カルトのテンプレートだわ。それに薬物を使って周りを洗脳する救世主がどこにいるっていうのよ)
あの礼拝堂のステンドグラスに描かれていた神話の物語が、一瞬で脳裏をよぎる。あまりの阿呆らしさに唖然とする私を真っ直ぐに見つめ、男はさらに、もっともらしい言葉を重ねていった。
「そして、君の婚約者をたぶらかした娘は、世界を混沌に陥れようとする『悪魔』の化身なのだよ。まさにこの時も、有力な令息や王太子を狙い、国を滅ぼそうとしている。……だが、恐れることはない。なぜなら、君こそが、かつて救世主の命を救い、世界を調和へと導いた『聖女の生まれ変わり』なのだから」
「私が、聖女……?」
私は声を震わせながら、心の中で激しく嘲笑した。
この男たち、モナよりも自分たちの都合良く動く貴族の駒が手に入ったとわかった途端、用済みのモナを『悪魔』に仕立て上げて切り捨てる気なのだ。
どこまでも汚く、身勝手なトカゲの尻尾切りだった。
(やはり救いようのない悪質なカルトに違いない。この男が全体の主導者?更に上に誰かがいるのだろうか?それとも…………あれ、何を考えようとしてたんだっけ……)
——気がつけば、部屋の中にはいつの間にか、微かに甘く脳を痺れさせるような「妙な香り」が立ち込めていた。
神父の使う香水によく似た、あの匂いだ。
なるべく吸い込まないように息を浅くしてはいても、じわじわと頭の芯がぐにゃりとクラクラし始め、正常な思考が急速に奪われていくのがわかる。
(……あれ?私、今ちゃんと地面に立ってる……?)
足元の感覚が鈍くなり、立っているのか倒れているのかもわからない。
そしてどんどん視界がぼやけて行き、再度焦点が合った時、目の前には前世の自分が向かい合って立っていた。
『——ねえ、もしかしたら本当は、ここは異世界ファンタジー小説の中の世界なのかもよ。現に、私には生まれ変わりっていう嘘みたいな事が起きていて、こうして振り回されてるじゃない。貴族令嬢に転生した日本人に、転入生の逆ハーレムに、婚約破棄……これってまるで、よくある悪役令嬢物語みたい。神も救世主も聖女も、ありえないって自分で思い込んで一人空回ってるんじゃない?』
前世の自分はそう耳元で囁いた。
(――たしかに、そう言われたらそうかも。この世界に魔法も奇跡もないって、なんで思い込んでたんだろう。前世に囚われすぎて、頭が固くなってたのかな……もし全部、私の妄想だったのなら——)
頭の中がふわふわと極彩色に彩られ、前世の自分が私をそっと抱きしめる。
『ねえ、もう意固地にならなくていいんだよ。ここは都合のいい異世界。可愛い子供たちに囲まれて、ゆったりスローライフしながら、素敵な神父の彼と一緒に過ごせたらそれでいいじゃない』
(——うん、それもそうかもね……)
そう心地よい諦念が脳を支配しかけた、その時。
視界の端に、満里奈の姿が現れた。
彼女は酷く悲しげな顔をして、ただ『ごめんね』と、声にならない謝罪の言葉の形で口を動かした。
その最悪な幻影が、私の意識を強引に冷水へと叩き落とした。
(――違う。今さら出てきて謝ったって、もう何もかも手遅れなんだよ!裏切り者!大嫌い!!)
私はドレスの布越しに、爪を手のひらへと肉が裂けるほど深く食い込ませた。その激痛と強烈な憎悪だけで、心地よい揺り籠から這い出し、辛うじて意識の輪郭を繋ぎ止める。
「さあ、私たちと共に、この教会をさらにもり立てていこう。聖女の力を、今こそ教会のために使ってほしい」
神父と最高司祭が、慈愛に満ちた完璧な笑みを浮かべて私を見つめている。
(汚い、汚い、汚い! こいつら全員、死ぬよりも何倍も酷い目に合わせてやる……!)
朦朧とする視界のなか、薬物の効果か、それとも脳が誘惑を拒絶したせいか、私の胸にはこれまでにない爆発的な怒りと、すべてを支配できるかのような全能感が湧き上がっていた。
「ああ……嬉しい……。私、私は、聖女だったのですね……っ!」
私の目からは、ポロポロと歓喜と興奮の涙が溢れ出していた。
(そうね、聖女になってあげる。あんたたちみたいなクズ共を一人残らず消し去って、哀れな子供たちや信者たちがこれ以上生まれないように。救世主も、悪魔も、皆まとめて葬ってあげる)
――さあ、早くその心臓を私に差し出してこい。
◆
高揚感を引きずったまま、私は順調に計画が進んでいる満足感にニコニコと笑みを浮かべ、ふわふわとした足取りで教会を後にした。まだ頭の奥が熱く痺れている。
「――おい。おい、そこの女」
教会の敷地を出た直後、路地裏の物陰からぬっと一人の怪しげな男が姿を現した。
ゴシップ記者のような出で立ちのその男は、私の前に立ち塞がると、低く苦々しい声で呼びかけてきた。
「お前がエマ令嬢か。……チッ、あの噂話は本当だったというわけか」
男は教会の建物を忌々しげに睨みつけると、私に一歩詰め寄り、脅すような低い声を絞り出した。
「おい、忠告だ。こんなろくでもないところからは一刻も早く足を洗え。お前、洗脳されてるんだよ。そこの奴らは、お前が思っているような聖人でもなんでもない、ただの詐欺師だ。さっさと逃げないと、取り返しのつかないことになるぞ」
その傲慢な言葉が、私の脳内に残っていた歪んだ快楽を一瞬で吹き飛ばした。
(そんなの、ポッと出のあんたに言われなくてもとっくにわかってるわよ。せっかくここまで積み上げて来たのに、ここで邪魔されたら全てが水の泡になる)
私は、猛烈な不快感でいっぱいになった。
顔からいっさいの笑顔を消し去り、怪しげな男をまっすぐに見見据えて言い放つ。
「……私のことも、教会のことも、何一つよく知らないくせに。名乗りもせず、随分と不躾な方ですのね。あいにく、面白おかしく記事にできるような事柄などございませんので。お引き取りください」
(私の計画の邪魔をする奴は消えてよ。新聞なんかに載ったところで、どうせ大衆は一時の娯楽として消費して、すぐに次の話題へと移っていくんでしょう。あいつらは、私の手で確実に地獄に落とす。私の獲物なんだから)
男の薄っぺらい正義の言葉を完全に突き放し、私はドレスの裾を鮮やかに翻した。そして、フンと鼻で笑うようにしてその場を歩き去る。
「おい! 待て!」
背後で男が荒々しく舌打ちし、呼び止める声を完全に無視して。
私は夕闇の迫る道を、ただ前だけを見て歩き続けた。




