表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

33/49

綱渡り

 あの日以来、私はレオンに勉強を教えるふりをしながら、密にやり取りを重ねた。奴らが行ってきた数々の犯罪の証拠を、血眼になって探し続けるために。



 最近、教団内では新たな計画が着々と進んでいるようだ。

 子供たちに育てさせている例のハーブをブレンドし、蒸留酒に長期間漬け込んで成分を馴染ませた、「神の酒」というリキュールの研究。時々、どこからから偉そうな人間たちが訪れては、部屋にこもって話し合いをしている。


 とろけるような甘みで強いアルコールを隠したその薬草酒を、健康と救済の名目の下、安価で世間に流通させようというのだ。手始めに、月に二回の配給の際、洗礼を受けた人だけにその酒を配ろうとしているらしい。一見すれば、なんの後ろ暗さもない、慈善事業の一環に見えるだろう。



(貧民を使って実証実験ってわけね……反吐が出る。いつだって奴らの考えることは、汚らしくて吐き気がする)


 配給目当てに訪れる人間は、貧困に喘いでいる。

 だからこそ、目の前で酒を楽しむ同類がいれば、当然簡単に洗礼を受け入れるだろう。

 神の救いを謳うその裏で、秘かに仕込まれた禁断のハーブによって人々の理性を奪う。そして、彼らをおだてて帰属意識を高めさせ、存在意義を見出させてやれば、自ら進んで布教の駒になってくれるだろう。


 自立できない廃人に仕立て上げ、教団への依存度を高め、永続的に私腹を肥やすシステムだ。



 あのハーブの生葉は、すでに匿名で国の生物研究室へと成分分析に出してある。

 けれど、この世界の遅れた技術では、正式な結果が出るまでにかなりの時間がかかるはずだった。それまで、ただ手をこまねいて待っているわけにはいかない。



(放火の証拠は、おそらく隠滅されている。狙うなら現行の犯罪か、組織の中枢……。時折、信者が裏山へ連れて行かれるのを見かけるけれど、あそこになにかあるの?それとも、やはり裏帳簿やモンテーニュ公爵家との繋がり……。何でもいい、奴らの息の根を止める手がかりが、どこかに……!)




 ある日の午後、私は静まり返った教会の資料室に忍び込み、うず高く積まれた古い書類の束を漁っていた。焦るな、きっと何かあるはずだ。



 その時だった。


 廊下の奥から、コツン、コツンと、静かに床を叩く不穏な靴音が近づいてくるのが聞こえた。



(――誰か来る……!?)


 心臓が跳ね上がる。動揺した私は、資料を慌てて元の位置に戻そうとして、咄嗟に脚立の上で足を踏み外してしまった。


 あっ、と思った時には、私の身体は宙に浮いていた。床へ叩きつけられる衝撃に備え、思わず目を瞑る。


 しかし、痛みは来なかった。



「お怪我はありませんか?」


 気がつけば、私はラファエル神父を押し倒すような形で上に乗り、彼の腕の中にすっぽりと抱きとめられていた。


「っ……!」


 ぞわ、と全身の毛が逆立つ。


 その瞬間、私の鼻腔を突いたのは、神父の衣服に染みついた薬草の香りと――人間の精神を強制的に高揚させる、吐き気のするような甘い匂いだった。

 脳の芯が酷く揺さぶられるおぞましい感覚が全身を駆け巡る。心臓がドキドキして、気持ちが悪い。今すぐ突き飛ばして、この皮膚を剥ぎ取りたいほどの嫌悪感が這い上がってくる。



 私は必死に理性を繋ぎ止め、神父の身体からさっと離れた。


「いえっ……不躾に触れてしまって申し訳ありません!」


 謝罪の言葉を紡ぎながら、私はそっと神父の顔を見上げた。



 神父はいつも通りの柔和な、人好きのする笑みを浮かべている。しかし、その細められた瞳の奥底に、冷徹で鋭い「疑惑」の光がかすかに滲んでいるようにも思えた。


(怪しまれた……?)


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。



 思い過ごしであればいい。けれど、相手は人間の心理を読むプロだ。



「——お怪我がなくて、ホッとしました。何か資料をお探しで? これからはいつでも僕が持ってきますから、必ず頼ってくださいね」



 埃の舞う静かな資料室の中で、一筋の汗が背筋を伝って流れた。





 ふと見ると、ラファエルの法衣の袖が大きく破れ、そこから赤い血が滲んでいるのが見えた。エマは慌てて彼に近寄り、緊迫した空気を霧散させようと目論んだ。


「ラファエル様、血が! あ……」


 血のついた袖の隙間から見えたものに、エマは息を呑んだ。彼の白い肌には、緻密で複雑な入れ墨が刻まれていたのだ。



「これぐらい大丈夫ですよ。……これ、隠していたつもりはなかったんですが。見苦しいですよね」


 ラファエルは困ったように眉を下げて微笑みながら、慌てて袖を引いてそれを隠した。



(なるほど、反社会的勢力との繋がり……教団を隠れ蓑にしているという可能性もあるのか)


 下手に動けば、消される可能性もある。けれど、これは教団の急所、あるいは『神の酒』を裏で流通させるためのルートに繋がる大きな手がかりかもしれない――。そんな計算を頭の中でしながら、私は慈愛に満ちた笑みを必死に取り繕って返事をした。


 

「いえ。誰しも事情はありますから。それに、私はラファエル様がお優しい方だとわかっていますわ。誰しも知られたくない事くらい、あるでしょう」


 エマがそう告げると突然、ラファエルの瞳の奥の光が、ふっと熱を帯びた色に変貌した。



「……エマ様は、僕の事を知りたいと思ってくれますか?」


 彼は床に座り込んだまま、濡れたような上目遣いで私をじっと見つめていた。

 

(――!?)


 一旦距離を取ったはずなのに、いつの間にか、互いの吐息が唇に触れ合うほどに距離が近くなっていた。


 その急にぶつけられた彼の色香に驚いて、強固だった心の城壁にうっかり隙を作ってしまった。



 床に乱れた法衣の裾、露わになった刺青、そして私を煽るように見上げる、湿度を孕んだ長い睫毛。

 その眼差しは、エマという少女が自分を男として受け入れるかどうかを、冷静に、かつ貪欲に見定めている。


 ドク、ドク、と心臓がうるさく跳ねている。


 衣服から漂う香りで強制的に高められた心拍数と、予想外なアプローチによる動揺を、脳が勝手に「ときめき」として処理しようとしている。

 未だに身体に燻っている先ほどの熱も、一向に下がってくれない。

 

 ——前世で避けてきた恋愛経験の乏しさが、ここへ来て最悪の仇になったか。

 ライアンと婚約していたとはいえ、あれは形ばかりの政略に過ぎず、私たちの関係は至極理性的だった。


 こんな感覚は、知らない。



「え……っと……ラファエル様……近いです。少し離れて……」


 私の唇が微かに震え、拒絶の言葉を紡ぐ。体は麻痺したかのように動かせない。


 その反応を、ラファエルは至近距離で楽しむようにじっと観察していた。彼の骨張った指先が、私の頬に触れるか触れないかの距離をゆっくりと滑り、破れた袖から覗く腕が、私の背後の床へと突かれる。




「……そうですね」


 ラファエルは蕩けるような低い声で囁いた。



 その言葉を最後に、彼はそれ以上距離を詰めてはこなかった。


 私の動揺と弱々しい拒絶を見届け、満足したのか、あるいはこれ以上は悪手だと踏んだのか。

 彼の中から、先ほどまで濃厚に漂っていた「雄の気配」が、驚くほどの鮮やかさでスッと消えていく。



 ラファエルは何事もなかったかのように身を引くと、いつもの物腰柔らかく、無害な神父の笑顔をその顔に被り直した。



(惑わされるな、満里奈を思い出せ。あの恋愛に狂った、馬鹿な女を!)



 これは「ときめき」なんかじゃない、この男は私の敵だ。それなのに――ラファエルの腕に刻まれた蛇の入れ墨から、私はしばらくの間、激しい動悸を抱えたまま目が離せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ