綱渡り
あの日以来、私はレオンに勉強を教えるふりをしながら、密にやり取りを重ねた。奴らが行ってきた数々の犯罪の証拠を、血眼になって探し続けるために。
最近、教団内では新たな計画が着々と進んでいるようだ。
子供たちに育てさせている例のハーブをブレンドし、蒸留酒に長期間漬け込んで成分を馴染ませた、「神の酒」というリキュールの研究。時々、どこからから偉そうな人間たちが訪れては、部屋にこもって話し合いをしている。
とろけるような甘みで強いアルコールを隠したその薬草酒を、健康と救済の名目の下、安価で世間に流通させようというのだ。手始めに、月に二回の配給の際、洗礼を受けた人だけにその酒を配ろうとしているらしい。一見すれば、なんの後ろ暗さもない、慈善事業の一環に見えるだろう。
(貧民を使って実証実験ってわけね……反吐が出る。いつだって奴らの考えることは、汚らしくて吐き気がする)
配給目当てに訪れる人間は、貧困に喘いでいる。
だからこそ、目の前で酒を楽しむ同類がいれば、当然簡単に洗礼を受け入れるだろう。
神の救いを謳うその裏で、秘かに仕込まれた禁断のハーブによって人々の理性を奪う。そして、彼らをおだてて帰属意識を高めさせ、存在意義を見出させてやれば、自ら進んで布教の駒になってくれるだろう。
自立できない廃人に仕立て上げ、教団への依存度を高め、永続的に私腹を肥やすシステムだ。
あのハーブの生葉は、すでに匿名で国の生物研究室へと成分分析に出してある。
けれど、この世界の遅れた技術では、正式な結果が出るまでにかなりの時間がかかるはずだった。それまで、ただ手をこまねいて待っているわけにはいかない。
(放火の証拠は、おそらく隠滅されている。狙うなら現行の犯罪か、組織の中枢……。時折、信者が裏山へ連れて行かれるのを見かけるけれど、あそこになにかあるの?それとも、やはり裏帳簿やモンテーニュ公爵家との繋がり……。何でもいい、奴らの息の根を止める手がかりが、どこかに……!)
ある日の午後、私は静まり返った教会の資料室に忍び込み、うず高く積まれた古い書類の束を漁っていた。焦るな、きっと何かあるはずだ。
その時だった。
廊下の奥から、コツン、コツンと、静かに床を叩く不穏な靴音が近づいてくるのが聞こえた。
(――誰か来る……!?)
心臓が跳ね上がる。動揺した私は、資料を慌てて元の位置に戻そうとして、咄嗟に脚立の上で足を踏み外してしまった。
あっ、と思った時には、私の身体は宙に浮いていた。床へ叩きつけられる衝撃に備え、思わず目を瞑る。
しかし、痛みは来なかった。
「お怪我はありませんか?」
気がつけば、私はラファエル神父を押し倒すような形で上に乗り、彼の腕の中にすっぽりと抱きとめられていた。
「っ……!」
ぞわ、と全身の毛が逆立つ。
その瞬間、私の鼻腔を突いたのは、神父の衣服に染みついた薬草の香りと――人間の精神を強制的に高揚させる、吐き気のするような甘い匂いだった。
脳の芯が酷く揺さぶられるおぞましい感覚が全身を駆け巡る。心臓がドキドキして、気持ちが悪い。今すぐ突き飛ばして、この皮膚を剥ぎ取りたいほどの嫌悪感が這い上がってくる。
私は必死に理性を繋ぎ止め、神父の身体からさっと離れた。
「いえっ……不躾に触れてしまって申し訳ありません!」
謝罪の言葉を紡ぎながら、私はそっと神父の顔を見上げた。
神父はいつも通りの柔和な、人好きのする笑みを浮かべている。しかし、その細められた瞳の奥底に、冷徹で鋭い「疑惑」の光がかすかに滲んでいるようにも思えた。
(怪しまれた……?)
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
思い過ごしであればいい。けれど、相手は人間の心理を読むプロだ。
「——お怪我がなくて、ホッとしました。何か資料をお探しで? これからはいつでも僕が持ってきますから、必ず頼ってくださいね」
埃の舞う静かな資料室の中で、一筋の汗が背筋を伝って流れた。
ふと見ると、ラファエルの法衣の袖が大きく破れ、そこから赤い血が滲んでいるのが見えた。エマは慌てて彼に近寄り、緊迫した空気を霧散させようと目論んだ。
「ラファエル様、血が! あ……」
血のついた袖の隙間から見えたものに、エマは息を呑んだ。彼の白い肌には、緻密で複雑な入れ墨が刻まれていたのだ。
「これぐらい大丈夫ですよ。……これ、隠していたつもりはなかったんですが。見苦しいですよね」
ラファエルは困ったように眉を下げて微笑みながら、慌てて袖を引いてそれを隠した。
(なるほど、反社会的勢力との繋がり……教団を隠れ蓑にしているという可能性もあるのか)
下手に動けば、消される可能性もある。けれど、これは教団の急所、あるいは『神の酒』を裏で流通させるためのルートに繋がる大きな手がかりかもしれない――。そんな計算を頭の中でしながら、私は慈愛に満ちた笑みを必死に取り繕って返事をした。
「いえ。誰しも事情はありますから。それに、私はラファエル様がお優しい方だとわかっていますわ。誰しも知られたくない事くらい、あるでしょう」
エマがそう告げると突然、ラファエルの瞳の奥の光が、ふっと熱を帯びた色に変貌した。
「……エマ様は、僕の事を知りたいと思ってくれますか?」
彼は床に座り込んだまま、濡れたような上目遣いで私をじっと見つめていた。
(――!?)
一旦距離を取ったはずなのに、いつの間にか、互いの吐息が唇に触れ合うほどに距離が近くなっていた。
その急にぶつけられた彼の色香に驚いて、強固だった心の城壁にうっかり隙を作ってしまった。
床に乱れた法衣の裾、露わになった刺青、そして私を煽るように見上げる、湿度を孕んだ長い睫毛。
その眼差しは、エマという少女が自分を男として受け入れるかどうかを、冷静に、かつ貪欲に見定めている。
ドク、ドク、と心臓がうるさく跳ねている。
衣服から漂う香りで強制的に高められた心拍数と、予想外なアプローチによる動揺を、脳が勝手に「ときめき」として処理しようとしている。
未だに身体に燻っている先ほどの熱も、一向に下がってくれない。
——前世で避けてきた恋愛経験の乏しさが、ここへ来て最悪の仇になったか。
ライアンと婚約していたとはいえ、あれは形ばかりの政略に過ぎず、私たちの関係は至極理性的だった。
こんな感覚は、知らない。
「え……っと……ラファエル様……近いです。少し離れて……」
私の唇が微かに震え、拒絶の言葉を紡ぐ。体は麻痺したかのように動かせない。
その反応を、ラファエルは至近距離で楽しむようにじっと観察していた。彼の骨張った指先が、私の頬に触れるか触れないかの距離をゆっくりと滑り、破れた袖から覗く腕が、私の背後の床へと突かれる。
「……そうですね」
ラファエルは蕩けるような低い声で囁いた。
その言葉を最後に、彼はそれ以上距離を詰めてはこなかった。
私の動揺と弱々しい拒絶を見届け、満足したのか、あるいはこれ以上は悪手だと踏んだのか。
彼の中から、先ほどまで濃厚に漂っていた「雄の気配」が、驚くほどの鮮やかさでスッと消えていく。
ラファエルは何事もなかったかのように身を引くと、いつもの物腰柔らかく、無害な神父の笑顔をその顔に被り直した。
(惑わされるな、満里奈を思い出せ。あの恋愛に狂った、馬鹿な女を!)
これは「ときめき」なんかじゃない、この男は私の敵だ。それなのに――ラファエルの腕に刻まれた蛇の入れ墨から、私はしばらくの間、激しい動悸を抱えたまま目が離せなかった。




