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聖域の扉

 これからどう動くべきか。


 暗闇の中で一晩中考え抜いたエマの脳裏に、ふと、あの放課後の廊下で見た一枚のポスターが鮮明に浮かび上がった。


 ――【ボランティア募集のお知らせ】

 ――教会裏手の薬草園の整備、および収穫の補助……



 前世の、思い出すのも忌々しい村の暮らし。

 閉塞感に満ちたあの村で、彼女は毎日、朝早く起きてその日割り当てられた仕事――畑の作業や、鶏小屋の世話、掃除や洗濯、年下の子供たちの世話など――に追われていた。


 当時はただただ嫌でたまらなかった労働の記憶。



(けれど……貴族の令嬢たちには、絶対に真似できない「経験」が私にはある)


 もしもこの先、ライアンとの婚約が破棄され、家族共々破滅の未来が待っているのだとしたら。


 ――あの忌まわしい記憶すら、これからの人生を生き抜くための武器にするほかない。



 そう思い立ったエマは次の休日に、ドレスではなく動きやすいシンプルな服に身を包み、町外れにあるアストリッド教会を訪ねることにした。








 都会の喧騒から隔絶されたその教会は、深い緑の木々に囲まれ、ひっそりと佇んでいた。



 重厚な木製の扉をそっと押し開けて中に入ると、礼拝堂には誰もいなかった。


 静謐でどこか冷ややかな空気がエマを包み込む。

 ふと壁面に目を向けると、そこには陽の光を浴びて厳かに輝く、巨大なステンドグラスが嵌め込まれていた。



 描かれているのは、この国の成り立ちを示す神話の光景だ。


 かつて世界を脅かした悪魔との壮絶な戦いの最中、民を率いた救世主が命を落としてしまう。

 絶望が世界を覆ったその時、神の奇跡を授かった一人の聖女が立ち上がり、大いなる祈りによって救世主を奇跡的に生き返らせた。

 そして息を吹き返した救世主と共に、見事悪魔を討ち果たし、世界を救ったのだという――。




 エマは足を止め、その美しいガラスの絵をゆっくりと、一枚一枚辿るようにじっと眺めていた。



 光と影が織りなす神話の世界をじっと見つめていると、静まり返った礼拝堂に、コツコツと静かな足音が響き渡った。




「おや、こんな町外れの教会に麗しいご令嬢がいらっしゃるなんて珍しい。この国の始まりの物語に、ご興味がおありですか?」



 振り返ると、そこには穏やかで優しげな笑みを浮かべた、美麗な神父が立っていた。

 背はすらりと高く、薄い金の髪にはステンドグラスの光が当たり、虹色に輝いていた。



 聖職者らしい質素な法衣を纏った彼は、エマの心を見透かすような、しかし決して不快ではない穏やかな眼差しを向けている。



「何か、お悩みでもおありでしょうか」


 その問いかけに、エマは小さく首を振って、懐から取り出した紙を差し出した。



「いいえ。……学園で、こちらの奉仕活動のポスターを拝見したのです。エマ・ヴァレンタインと申します。私に、薬草園の手伝いや子供たちの指導をさせていただけないでしょうか」



 その言葉を聞いた瞬間、それまで厳かだった神父の態度が一変した。


「お、おお……! ポスターを見て、わざわざこんな町外れまで!? ああ、ありがとうございます!」



 神父は子供のようにぴょんぴょんと飛び跳ねて喜び、手を叩いた。

 人手不足がよほど深刻だったのだろう、先ほどの神聖な雰囲気はどこへやら、彼は途端に親しみやすい顔になってエマを歓迎した。


「さあさあ、立ち話も何ですから、こちらへどうぞ! 今温かいものでも淹れますからね!」







 案内された奥の小さな部屋で、神父は少し縁の欠けた、年季の入った陶器のカップを差し出した。

 注がれていたのは、湯気と共に爽やかな香りが広がる、自家製のハーブティだった。



「恥ずかしながらこんな入れ物しかなくて、すみません。良ければどうぞ召し上がってください。ここの子供たちが育てた薬草をブレンドしたお茶でして、なかなかおいしいのですよ。……それにしても」


 神父はエマの正面に腰掛け、そのハーブティを冷えた両手でそっと口元へ運ぶエマの様子を、じっと見つめた。



「……随分と、悲しい顔をされていますね。まるで、世界中から見放されてしまったかのような」



 心臓がドクンと跳ねた。


 裏切られた怒り、前世の死の恐怖、そしてこれからどうなるか分からない絶望。

 押し殺していたはずの感情が、神父の何気ない一言で一気に決壊しそうになる。



「っ、悲しいなんて、そんなこと……。いえ、確かに、そうなのかもしれません……。私は……」



「僕で良ければ、お話を聞きますよ。救世主様のように世界を救うことはできませんが、共に神に祈ることはできましょう。——あなたの悲しみの半分を、僕に分けてください」


 神父はそう言ってエマに微笑みかけた。



「——っ」


 エマはぐっと感極まったような表情を浮かべ、慌てて持っていたカップを机に置くと、自身の両手で顔を覆い隠した。



 今は顔を見られたくなかった。

 この世界と向き合って、運命に負けないよう覚悟を決めたはずだったのに、目の前の温かいお茶と、向けられた優しさに、顔が歪んでいくのが止められなかった。



 エマの細い肩は、神父の前で小さく哀れなほどに震えていた。

 神父は何も言わず、エマが落ち着くまでそっと側に寄り添っていた。

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