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二人の私


 鏡の中に映る少女は、酷く青ざめた顔をしていた。



 学園からどのようにして帰ってきたのか、正直に言って記憶が判然としない。


 自室のベッドにしがみつき、荒い呼吸がようやく収まった頃、エマはベッドからのろのろと立ち上がり、ただ呆然と鏡の中の自分を見つめていた。



(生まれ変わり?前世の記憶?まさか、まさかこんな事が私の身に振りかかるなんて……)



 脳の奥底にこびりついて離れない、あの「もう一つの人生」。それは紛れもない、彼女がかつて別の世界で生きていた、前世の記憶だった。









 前世での彼女が過ごした環境は、決して恵まれてはいなかった。


 狭い田舎の村の、閉鎖的で独特な、笑顔の裏でお互いを監視し合う息苦しい人間関係。誰が誰と話してただの、昨日こんな事を言っていただの、どうでもいい事すら噂されるような暮らし。

 全ての事柄は共有され、扉に鍵をかけることすらできない。



 そんな生活に嫌気が差した彼女は、高校を卒業してすぐ、逃げるようにして生まれ育った村を飛び出したのだ。



 たどり着いたのは地方都市の隅の町だった。それでも、目に映るもの全てが輝いて見えた。知る人の誰もいない街で、彼女は一人暮らしを始めた。



 高卒でなんとか見つけた職は法に触れるか触れないか、ギリギリラインの事業を請け負う有限会社の事務だった。

 廃品や不用品を安く回収しては金目のものを再販に回す。アンケートや個人情報は、一件数百円で売る。そんな会社だった。


 もちろん安月給で、一人ではとても回せないような量の業務を押し付けられた。それに加え、常にセクハラ上司と二人きりという最悪な毎日。


 そんな日々ですり減っていく心を支えてくれたのは、唯一の趣味である読書だった。狭いワンルームで本に没頭している時間だけが、彼女にとっての救いだった。



 そんなある日、ポストに幼なじみからの「同窓会」の葉書が入っていた。



 あれほど嫌って逃げ出したはずの故郷。けれど、年月が経ち、どこか感傷的になっていた彼女は、久しぶりに田舎へと顔を出す決意をした。


 それが過ちだとも気づかずに。








 懐かしい顔ぶれが集まる、賑やかな会場。



 だが、その席で彼女を待っていたのは、かつての悪夢の再来だった。過去をあれこれとほじくり返され、向けられる笑顔の裏に滲む裏切り者への冷ややかな視線。無遠慮な詮索。


(あの時……急に、頭がクラクラして、息ができなくなって……)


 動悸が激しくなり、喉の奥が引き攣れた。酸素を求めて喘ぐけれど、肺には冷たい空気すら入ってこない。

 

 過呼吸と極度のストレスによるショック症状。何が何だか分からないうちに、視界が急速にブラックアウトしていった――それが、彼女の「死に際」の記憶だった。









「っ……」


 エマは思わず自分の顔を両手で触って確かめた。

 

 今世の顔、滑らかな柔肌に、青い瞳をした貴族の令嬢としての自分。



 混乱のままに温室から逃げてきてしまったが、前世の記憶と今世の知識が完全に合致した今、エマの脳内は別の危機感で満たされつつあった。



 あの、ライアンの隣にいた少女――モナ。

 最近学園に編入してきたばかりの元平民の転入生だ。


 その可憐な容姿と、どこか庇護欲をそそる天真爛漫な態度で、すでに学園内の多くの有力な令息たちを次々と誘惑し、自らの虜にしているとの噂を聞いている。


 話はそれだけに留まらない。学園に通う第二王太子殿下にまでその触手を伸ばし、親密な関係を築いているらしいと、貴族たちの間では密かに、しかし確実に注視され始めていた。



(あのライアンまでが、彼女の毒牙にかかっていたなんて。それに、あの時のモナを見つめるライアンの目……)


 ライアンは決して簡単に騙されるような、愚かな男ではないはずだった。

 常に合理的で、一族の利益と自らの義務を最優先にする堅物だ。


 そんな彼が婚約者である自分を裏切り、モナにあんなにも熱く、蕩けるような眼差しを向けていたのだ。



 前世の記憶で読んだ小説の、よく見知った展開が、今まさに現実として目の前に突きつけられている。この後は婚約破棄を突きつけられて、破滅するという事なのだろうか。






「エマ、入ってもよろしい?」


 その時、コンコンと控えめに扉を叩く音と共に、穏やかな声が室内に響いた。



「お母様……」


 入ってきたのは、エマの母親だった。



 彼女は、前世の自分を苦しめた村の人間とはまるで違う、理解ある優しい母だ。いつもエマのことを第一に考え、深い愛情で見守ってくれている人。



「学園から随分と顔色を悪くして戻ったと聞いて、とても心配で……大丈夫? どこか苦しいの?お医者様を呼ぼうかしら?」



 母親はベッドの傍らに腰掛け、心配そうに眉をひそめてエマの額にそっと手を当てた。

 

その手のひらの温かさが、エマの張り詰めていた心を少しだけ解きほぐしていく。



「いえ、少し目眩がしただけですの。もう大丈夫です、お母様」

「……そう? 無理をしては駄目よ。今日はゆっくりお休みになりなさい」


 母親はほっと胸をなでおろすと、上品に微笑んだ。

 その装いは、普段の室内着ではなく仕立ての良い豪奢なドレスだった。

 


「これから私は、モンテーニュ公爵夫人主催のサロンへ伺わなければならないの。あなたに何かあったらと心配だけれど……留守の間、何かあればすぐに侍女に言いなさいね」


「モンテーニュ公爵夫人のサロン……ですか。それは断れませんわね、お母様……」


「ええ。あの方は少し苦手だけれど、直々のお誘いだもの。断ったとなると、後でなんと言われるか」


「……わかりました。お気をつけて、いってらっしゃいませ」




 仕度の整った母親の美しい姿を見送りながら、エマはベッドの上で、再び深い思考の海へと沈んでいった。




 母親が去った静寂な部屋の中で、エマはぎゅっと拳を握りしめる。


 婚約者の裏切り、迫りくるであろう破滅の未来、そして目覚めてしまった前世の記憶。絶望の中息絶えた前世の二の舞にだけは、絶対になりたくない。




(これから、私はどうしよう……)



 夜が完全に部屋を支配していく中、エマはこれからの生き残りをかけ、静かに思考を巡らせ始めるのだった。



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