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婚約者の裏切り




【ボランティア募集のお知らせ】



 緑豊かな森の傍らに位置するアストリッド教会では、身寄りのない子供たちの自立を支えるため、奉仕活動にご協力いただける方を募集しております。


【主な活動内容】

 一、孤児たちへの基礎的な識字・読書指導

 一、教会裏手の薬草園の整備、および収穫の補助


 現在、文字を学ぶことを切望する子供たちに対して、導き手となる人員が未だ足りておりません。由緒あるアズール学園の皆様のその高潔な力を、この国の未来を担う子供たちへと授けてはいただけないでしょうか。

 自らの利害を忘れ、主がもたらした自然と調和し、ただ他者のために時間を捧げる――その無私の喜びを、私たちと共に分かち合いましょう。



聖アリア教 アストリッド教会

住所:ルピナス領ル・ロシェ 102

協力:ドリー財団法人










 放課後の学園。生徒たちの賑やかな声が遠ざかっていく茜さす廊下を、エマ・ヴァレンタイン伯爵令嬢は所在なげに歩いていた。そんな彼女の足を止めたのは、年季の入った掲示板に画鋲で厳重に貼り出された、一枚の募集ポスターだった。


「――教会ボランティア、か」


 ぽつりと溢れた言葉は、静まり返った廊下に弱々しく吸い込まれていく。





 貴族社会、といってもそれは名ばかりになりつつあるのが今の時代だ。近年は近隣諸国との交易や大規模な貿易が盛んになり、時代の波に乗った有力な商家が破竹の勢いで勢力を伸ばしていた。その一方で、変化についていけなかった弱小貴族は、すでに没落の憂き目に遭っている。


 そんな激動の世の中だからこそ、この学園に通う生徒たちも将来を見据え、自身の内申点を少しでも伸ばそうと、放課後は様々な課外活動や慈善事業に躍起になっていた。

 

 エマとて、伯爵令嬢としてその例外ではない。実家の立場を考えれば、少しでも見栄えの良い経歴が必要だった。



 本当の事を言えば、このような慈善活動には大して興味などない。けれど、その古びたポスターの隅に描かれた森と子供たちの絵が、なぜだか胸の奥をちりりと急かすような、奇妙で懐かしい、不思議な感覚を呼び起こした。


 エマはまるで金縛りにでもあったかのように、しばらくの間、その絵をじっと見つめ続けていた。




 その時だった。廊下の突き当たりにあるガラス張りの温室の方から、微かに人の声が風に乗って届いた。



 楽しげに鈴を転がすような、可憐で高めの少女の声。

 そして、それに答えるように響いた――低く穏やかな、エマにとっては聞き馴染みのある男子生徒の声。



(……ライアン?)



 ライアン・バルゼー伯爵令息。エマの婚約者。

 いつも冷静沈着で、誰に対してもどこか一線を画したような冷徹さを持つ彼が、今はどうしてか、聞いたこともないほど柔らかな、含み笑うような声を漏らしている。


 胸に兆した小さなざわめきに急かされるように、気付けばエマは、吸い寄せられるように温室へと足を進めていた。






 夕闇が迫るガラス張りの温室は、差し込む西日に照らされてキラキラと輝いていた。


 生い茂る色とりどりの植物が、夕暮れの光の中で濃い影を落とす。その影の向こうから、親密そうに寄り添う二人のシルエットが浮かび上がった。




「あはは、ライアン様ってば、意外とお茶目なところがあるのですね。今思えば、最初の頃は、私のこと見えてないみたいに無視してましたよね?あれは、私と〜っても悲しかったなあ……」

「う……それは、もう言わない約束じゃないか。悪かったよ――モナ。ほら、こっちを向いて」




 ライアンのすぐ隣にいたのは、今年この学園に編入してきたばかりの少女、モナだった。


 リビエール男爵の養子になった平民出身の彼女は、どこかの貴族の落とし子ではないかと学園で噂されている。それを裏付けるような美しい顔は今、幸福感に溢れ、輝く白金の髪がさらさらとライアンの肩に流れていた。



 零れ落ちそうなほど大きな、庇護欲をそそる瞳が従順にライアンを見上げている。そしてライアンもまた、婚約者であるエマには一度だって向けたことのないような、熱を帯びた眼差しで彼女を見つめ返していた。


 美しい二人の姿が、まるで劇画を観ているかのように現実感を伴わないまま、目の前で繰り広げられている。



 婚約者のいる身の男が、他の令嬢と公の場で取っていい距離では到底なかった。言葉にせずとも二人の間に流れる空気そのものは甘く、そして裏切りに満ちている。


(どうして……? なぜ、ライアンが彼女と……?)


 心臓が嫌な音を立てて激しく脈打ち始める。冷たい汗が背中を伝った。

 あまりのショックに目の前が暗くなり、足元がふらつく。



 エマはバランスを崩し、傍らにあった植木鉢の葉にわずかに触れてしまった。衣服の擦れるその小さな音が、静まり返った温室の中に響き渡る。



「――誰だ?」


 ライアンが敏感に音を察知し、はっと視線をこちらへと向けた。



 エマの目と、ライアンの視線が真っ向から交差した――その瞬間だった。


 鈍器で殴られたかのような、頭が割れるほどの激痛がエマの脳を襲った。



(いっ……頭が……! な、に……? 何なの……っ!?)



 視界がぐにゃりと万華鏡のように歪み、反転していく。

 今まで生きてきた世界が崩壊し、見たこともない——けれど間違いなく自分が「体験した」記憶の奔流が、堰を切ったように脳内へと流れ込んでくる。



 すし詰めの満員電車。バラック建ての小さな事務所、蛍光灯の下での徹夜のデスクワーク。

 深夜、一人とぼとぼと疲れ切った足で歩き、狭いワンルームの部屋に戻る夜道。

 そして、遠い田舎に残してきた、母親からの長文の手紙――。



「あ、う……。あ、ああ……っ!」



 今世の「エマ」としての記憶と、突如として目覚めた「前世」の記憶が、激しく衝突し、混ざり合っていく。脳細胞がショートを起こして焼け付くような、あまりの情報量に呼吸の仕方さえ忘れそうになる。




「エマ……っ?あ、これは、違うんだ……!」


 ライアンが眉をひそめ、密会現場を婚約者に見られたという焦りを隠そうともせず、エマの方へと一歩足を踏み出す。



 だが、今のエマにとって、ライアンの浮気疑惑や婚約者の裏切りに構う心の余裕など、少しも残されてはいなかった。この頭の中を狂わせる濁流から、一刻も早く逃れたかった。



「いや……っ、来ないで!!」


 悲鳴のような拒絶の声を上げ、エマは自分の顔を両手で覆った。


 目の奥からボロボロと大粒の涙が溢れ出し、視界が涙の膜でぐしゃぐしゃに滲んでいく。ライアンの顔も、モナの怯えたような表情も、すべてが歪んで見えなくなる。


「エマ……?」

「ごめんなさい……っ!」



 押し寄せる混沌と、未知の記憶への恐怖、そして拠り所を失った不安。

 何が真実で、自分が誰なのかすら分からなくなって、エマはドレスの裾を乱暴にひるがえした。




 ライアンが背後から自分を引き留めようとする声を、遠い世界の出来事のように聞きながら、エマは夕暮れの学園を無我夢中で走っていった。


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