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狼の目覚め

 都会の暮らしは、十代の私が夢見た理想の世界とは程遠く、想像以上に冷酷で厳しかった。



 身分証も、ろくな学歴も、頼れる後ろ盾もない小娘を雇ってくれる場所など、まともな労働環境であるはずがない。

 私を待っていたのは、昼も夜もなく心身をすり潰される、ブラック企業そのものの地獄だった。


 孤独と、終わりのない労働。耐え難いセクハラ。



 こんな現代社会から逃れたくて、私の生みの母親もあのカルト村に全財産をはたいてまで逃げ込んだのだろうか。すり潰されていく心が、あれほど嫌だった村の記憶を美化していくのを必死に否定する自分が無様だった。



 唯一の気晴らしは読書だった。通勤時間や寝る前にはネットで『異世界系』の小説を読み、現実逃避に耽る。

 そして貴重な休みの日には図書館へ行き、カルト、心理学、あるいはマインドコントロールをテーマに扱った本を片っ端から手に取った。「あれはカルトだ」という確信が、ただの妄想ではないと自分に言い聞かせるために。



 時折、労働から帰宅すると、ポストには生みの母親から分厚い封筒が届いている。


 内容は「母として心配です」「私の面目をつぶした」「とにかく早く帰って、村に貢献しろ」「都会は危険だ」など、糾弾や支配の言葉ばかり。


(こんな時だけ母親ヅラして、何なわけ? まともな親として接してこなかったくせに……。ふざけんなよ……!)


 親としての愛情など微塵も感じさせないその手紙を、私は読む気も失せて、封を切ることもなくゴミ箱に投げ捨てる毎日を繰り返していた。





 そんな疲弊しきった精神の隙間に、ある日、一通の葉書が届いた。

 それは、村の幼なじみからの「同窓会」の案内だった。


 都会の冷たさに心が折れかけていた私は、何も知らずにただ純粋だった頃――あの豊かな山の麓で、十人そこそこの仲間たちと何もかもを分け合い、ただ笑って走り回っていた、あの偽りの「幸福な楽園」への郷愁に抗えなくなってしまった。


『帰ってきなよ。皆、あなたのこと待ってるよ』


 その幻聴に導かれるように戻ってしまった、愚かな私。



 ——だが、待っていたのは温かい迎えなどではなかった。



『メンヘラ女にたぶらかされて結局捨てられたんだってな。あの時のおまえ、歌舞伎役者みたいな化粧してて笑えたわ〜。公園のトイレでコソコソ落として帰ってきてたみたいだけど、皆知ってたよ。あまりにも悲惨で誰もツッコめなかったんだよな』


『なんでわざわざ町のしょうもない高校に行ったんだよ? 義務教育終わったんだから、村の高等部で良かったじゃん。馬鹿じゃないの』


『知ってた? あんた、村では反面教師として今でも一つの事例研究になってるって』


 かつての仲間たちから笑われ、酒のつまみにされ、馬鹿にされ……。


 満里奈と必死に足掻いた日々も、自分で選んだ人生も、すべてを無残に踏みにじられた。積み重なった過労と、五臓六腑を焼き尽くすような憤怒によって、頭に一気に血が上った。息が詰まって視界が真っ赤に染まり、私はそのまま、冷たい床へ倒れ伏したのだった。







 あの温室の、むせ返るような緑と花の香りの境界で。

 モナの前に跪き、彼女を見上げるライアンの瞳を見た瞬間――私の頭の中で、ガラスが粉々に砕け散るような激しい衝撃が走った。


 あの目は、普段のライアンのものではなかった。


 理性を奪われ、ただ一人の人間を世界のすべてだと錯覚した、あの盲信に満ちた濁った目。


(ああ……知っている。私は、この目を、知っている)


 満里奈と同じ目だ。村の連中と同じ目だ。そして、かつての私の目と。


 濁流のように、脳裏に「前世」の記憶が溢れ出してきた。


「あ、う……。あ、ああ……っ!」


 激しい憎しみと、己の過去の愚かさへの悔恨。




 溢れ出た涙が頬を伝う感覚で、私はハッと我に返った。

 気づけば、私は学園の温室ではなく、公爵邸の自室のベッドの上にいた。全身が酷い虚脱感に包まれ、涙で枕がぐっしょりと濡れている。


(もう、あんな思いは絶対に嫌。今世では、絶対に誰の操り人形にもならない……!)


 爪が食い込むほどに拳を握りしめる。


 幸運にも、今世の母親は、前世の独善的なあの女とは違う。私を心から愛し、寄り添ってくれる、まともで優しい人だ。父親だって、私を大切に尊重してくれる。


 ライアンの事は、婚約者として良い関係を築けていただけに残念ではある。けれど、他人に脳を乗っ取られ、恋に狂った人間など、もうどうでもいい。捨て置いてしまえばいい。


(満里奈――)


 心の中で、もう届かないかつての親友の名前をそっと呼ぶ。


 私は、もう間違えない。『異世界転生』なんて事が自分の身に起ころうとは思ってもいなかったが、たとえ様式美のような婚約破棄になろうとも、大切なのは大事な人たちとただ平穏に、普通に過ごす事だ。





──だが、運命はどこまでも無情だった。


「モンテーニュ公爵夫人のサロンに行かなくてはならないの」


 部屋に入ってきた母親のその言葉を聞いた瞬間、脳内で火花が散った。


(モンテーニュ公爵夫人……?)


 ライアンがあの時見つめていたモナ・リビエール男爵令嬢。彼女は『モンテーニュ公爵家』の分家筋である『リビエール男爵』の養女だ。


 学園で恐ろしいほどに次々と高位貴族を籠絡していったモナの人心掌握術。

 モナを崇拝するような、信者の目をしたライアン。


 そして、あの胡散臭い慈善活動を謳う宗教のポスターにあった、『ドリー財団法人』。

——ローズ・『ドリー』・モンテーニュ公爵夫人。


 脳の神経が、バラバラだったすべてのパズルピースを恐ろしい速度でつなげていく。



 モンテーニュ公爵夫人だ。あの女が、モナを学園に送り込み、ライアンや王太子たちの心を蝕み、操っているに違いない。

 それだけではない。今度は私の大切な母親を、あの怪しげなサロンへと誘い、毒牙にかけようとしているのだ。


(許さない。……私の大事なものを、壊そうとする奴らは絶対に許さない!!)


 カルト。洗脳。人心掌握。


 前世の人生をめちゃくちゃにし、今世の大切な家族の未来まで脅かそうとする、その邪悪な仕組みのすべてが憎い。



 ほとんど妄想に近い直感に導かれるように、私の胸の奥で、かつてないほどに激しい殺意が燃え上がった。



──緑豊かな森の傍らに位置するアストリッド教会では、身寄りのない子供たちの自立を支えるため、奉仕活動にご協力いただける方を募集しております。──


 あのポスターの文句が、呪詛のように脳裏に蘇る。


「行かなくちゃ」


 涙を乱暴に拭い、私はベッドから立ち上がって、鏡に映る自分の、昏く青い瞳を見つめた。


 私の世界を壊そうとする全ての狂信者どもを、今度は私が、この手で一人残らず地獄へ叩き落としてやる。



 エマは孤高の狼のごとく、静かにその牙を剥くのだった。

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