裁判員裁判
二年生の夏、蒸し暑かったあの日のプールの授業の事は、今でも鮮明に思い出せる。
水着を忘れてしまった私は、見学のペナルティとして、一人きりで誰もいない教室に残されていた。
みんなが冷たいプールで歓声を上げている間、私はただ机の上に広げられたプリントの文字を追って、鉛筆を動かしていた。
窓の外からは、鼓膜を突き刺すような蝉のうるさい鳴き声が、容赦なく響いている。
ここ最近の私は、完全にどうかしていた。
学校での疎外感とゼロになった自己肯定感のせいで頭の中がぐちゃぐちゃになり、村に戻っても、毎日当たり前にできていたはずの仕事に全く集中できなくなっていた。
畑の野菜を傷つけ、鶏の卵を割り、大人たちからは連日のように激しい叱責を受けるばかり。
(これじゃあダメだ……。このままだと、あの『部屋』に入れられてしまう)
村の子供たちに伝わる、不穏な噂。
言うことを聞かない子や村の調和を乱す者が、一晩中閉じ込められ、出てきた時には別人のようになるという「こわい部屋」。
そこにだけは、絶対に行きたくない。恐怖と焦りで、プリントを握る手から、じっとりと冷たい汗が伝っていった。
その時だった。ふと、私の目の端に、隣の席の女の子の筆箱が映った。
机の端に置かれたその筆箱の隙間からキラリと、眩しい光が漏れていた。
視線を向けると、そこにあったのは、お尻の部分に透明な宝石のようなプラスチックの飾りがついた一本の鉛筆だった。
村の共有物には、そんな美しいものは一つもない。
学校の女の子たちが持っている、私を惹きつけてやまない「きらきらした世界」の象徴が、そこにあった。
——気づけば、私の手は無意識に伸びていた。
まるで何かに取り憑かれたように、指先がその鉛筆に触れる。冷たくて、ツルツルとしたプラスチックの感触。
そのままそれを手に取り、気づいた時には、自分の机の引き出しの奥へと忍ばせていた。
ドクン、ドクン、と心臓が破裂しそうなほど大きな音を立て始める。
全身を駆け巡るのは、恐ろしいほどの罪悪感。
それと同時に、生まれて初めて「自分だけの美しいもの」を手に入れたという、よくわからない、熱を帯びた高揚感が脳裏を狂わせていた。脳の芯が、ぐにゃりとクラクラするような感覚だった。
そして、もちろん、そんな子供の浅知恵が気づかれないわけもなかった。
プールが終わると、濡れた髪を拭きながら、クラスメイトたちが一斉に教室へ戻ってきた。
次の授業は算数だった。
席につくなり、隣の席の女の子が筆箱を開け、すぐに声を上げた。
「あれ……? ない。私の、新品の鉛筆がない!」
彼女の悲鳴のような声が、静かな教室に響き渡る。
その瞬間、クラス中の視線が、まるで最初から決まっていたかのように、一斉に私へと突き刺さった。
プールを休み、一人きりでこの教室に残り続けていた、あの挙動不審で浮いている私へと。
その後のことは、想像に難くないだろう。
もちろん私の犯行は一瞬で露呈した。
クラスメイト全員からの、容赦のない冷たい軽蔑の視線を全身に浴びながら、私は教室の前に立たされた。
「はぁーっ……茅野さん。どうしてこんなことをしたの。自分の口で皆に説明して下さい」
「うっ、うっ……わ、わたし、わた…し、ごめんなさい…ご、ごめ……」
「謝るんじゃなくて。せ、つ、め、い、してって言ってるの」
担任の先生の言葉に、私はただ頭を垂れ、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、しゃくり上げた声で謝罪するしかなかった。
その時の先生の、怒りというよりも「なんて面倒くさい事をしてくれたんだ」、「さっさとホームルームを終わらせたいから早くしろ」という露骨に嫌そうな視線と深く重いため息が、私の心を余計に惨めに、そして粉々に打ち砕いた。
そのあとの数年間の学校生活の事は、思い出したくもない。
私の席の周りだけ、目に見えない強固な壁があるように、誰も近づかなくなった。泥棒茅野、と呼ばれるようになった。
当然のように無視され続け、授業で「近くの人とペアを組んで」「グループを作って」と言われる時間が、何よりも地獄だった。
私がどこのグループに入るかを巡って、クラスのあちこちで「えー、なんでうちの班なの」「そっちで引き取ってよ」と一悶着が起きる。
クラスメイトたちの間で押し付け合われるそのやり取りを、私はただ自分の机の傷を見つめて、石のように固まって耐えるしかなかった。
遠足や修学旅行といった行事には、一度も参加しなかった。
それは「俗世の娯楽に参加してはならない」という村の鉄のルールでもあったから、誰とも居場所のない私にとっては、むしろありがたい免罪符だった。
だが、学校での地獄なんて、本当の地獄に比べたら天国同然だったのだ。
あの鉛筆盗難事件の報告は、当然のように学校から村へと伝わった。
私の親――というより、村での親代わりであり私を監視する役割だった「後見人」の大人たちを通じて、それは教団の調和を乱す『重大な規律違反』として扱われることになった。
言い訳も、涙も、何一つ通用しなかった。
私はあの、子供たちが名前を口にすることすら恐れていた、森の奥の「こわい部屋」へと連行され、背中を強く押されて中に押し込まれた。
――そこは、狂気の空間だった。
窓が一つもない、目に痛いほどの極彩色の狭い部屋。線香のような香りが充満している。
中央に置かれた古いスピーカーからは、ザーッという耳障りなホワイトノイズに、規則正しい間隔で『お前は誰だ、なぜここにいる』という低い声が絶え間なく流れ続け、壁一面には私の姿を不気味に歪ませる、大小様々な鏡が大量にかけられていた。
切れかけの蛍光灯が、チカチカと病的な光を点滅させ続けている。
「自分が犯した罪を、その目でしっかりと見つめなさい。お前の中にある俗世の穢れを、すべて吐き出し、自問自答を続けるのです」
ガチャン、と背後から重々しい錠が下ろされ、私は完全な孤独に放り込まれた。
目障りな点滅に照らされた鏡の中の私は、どれもひどく歪んで、醜く、罪深く見えた。視線を逸らそうとしても、壁一面の鏡がそれを許さない。どこを見ても、醜悪な罪人の私が私を睨みつけている。
焦燥、恐怖、罪悪感。
逃げ場のない密室で、一晩中自分自身を呪い続けた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 出してください……ッ!」
私は、狂わんばかりに叫び、爪が割れるほど扉を叩いて泣き喚いた。けれど、誰も答えない。
やがて疲弊し、香りに思考を溶かされ、鏡の中の自分と現実の自分の境界がぐにゃぐにゃに溶けていくような、底知れぬ恐怖に飲み込まれていった。
私は、世界で一番汚くて、価値のない、無に等しい存在なのだ。そう脳が無理やり書き換えられていく。
夜が明け、朝日が昇り、部屋の扉がギィィと重い音を立てて開いたとき。
「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、許してください……ごめんなさい……」
かつて学校のきらきらした世界に憧れていた、ごく普通の少女の心は、完全に壊れていた。




