棘蟻
王太子の保護を背景に、モナはついに彼らの最上位グループの中心へと滑り込んだ。
だが、モナの本来の目的はここからだった。
学園に入る前、後ろ盾であるモンテーニュ公爵夫人から、厳重に封をされた二つのアイテムを預かっていた。一つは透き通った小さなボトルの香水、もう一つは細かく乾燥させた奇妙なハーブ。
夫人からは『しかるべき時に、しかるべき相手に、しかるべき使い方をしなさい』とだけ冷たく言い渡されている。
(上流階級の陰謀に使う道具なんて、相場は決まっているわよね)
モナはその思考力を下げるような甘い香りの香水を、手首や耳の後ろといった、誰もがつけるような場所にはあえて仕込まなかった。
あからさまに匂わせるような品のない使い方は、かえって警戒心を呼び覚ます。
その代わりに彼女が選んだのは、自分の「下腹部」だった。幾重もの布地に遮られ、普通に立ち話をしている距離ではほとんど香らない。
だが、相手がモナの言葉に耳を傾けようと極限まで顔を近づけた――まさにその瞬間にだけ、彼らの鼻腔をふわりと掠める。
甘く、脳の芯をわずかに痺れさせるような、実体の掴めない香り。
「あ……申し訳ありません、近すぎましたわね」
モナはわざとらしく、すぐに一歩身を引く。
嗅いだ者は皆、その一瞬の香りの記憶を脳裏に焼き付けられ、もっと嗅ぎたい、もっと近づきたいという飢餓感に駆られる。
「隠されるもの」「制限されるもの」ほど価値を感じて執着してしまう人間の習性を利用した、モナの仕掛けたわずかな物足りなさは、皆の独占欲と渇望を内側からじわじわと煽る劇薬となった。
そして、もう一つのアイテムであるハーブ。モナはこれを細かくすり潰し、手作りのクッキーの生地に混ぜ込んで丁寧に焼き上げた。
手始めにクラスメイトから配り始める。「お義父様の誕生日にうちのシェフと一緒に作ったのですが、たくさん作りすぎてしまって」と、嘘をつく。
モナをすっかり信用している彼らは、戸惑いもなくそれを口にした。
当然、モナ自身は一切味見をしていない。
彼女の中の常識では、出所のわからないいかにも怪しげなハーブなど、ろくなものであるはずがない。自分の大切な肉体にそんな不気味なものを入れるなど、真っ平ごめんだった。
ハーブの効果は、劇的なものではなかった。
食べた瞬間に意識が飛ぶような毒物ではない。それは温かいお茶と一緒に胃に収まったあと、全身の緊張をじんわりと解きほぐし、理性のブレーキをほんの少しだけ甘くする――そんな、極めて緩やかで、それゆえに気づきようのない巧妙な効果だった。
クッキーを口にした生徒たちは、ただ「いつもより、妙に居心地が良い」「モナと話していると、ひどく心が落ち着く」という奇妙な全能感と安らぎに包まれていく。
それは、彼女への依存心を無意識のうちに植え付けるための、静かな罠だった。
モナのクッキーが噂になると、もちろん王太子はそれに興味を示した。他の生徒が食べているのに、なぜ私にはくれないのだと。
モナは困ったような顔をして、「王太子殿下に差し上げられる代物ではないのです」と一度は素気なく断る。
断られるという事に慣れていない王太子は、特別な関係だと思っていた相手が他の人間を優先しているという焦燥感も相まって、ますます欲求を募らせた。
そしてようやくモナが承諾した際には、平民の手作りという、宮廷の毒見役すら通らない極めて危うい代物を、彼は疑いもせず満面の笑みで味わった。
王太子が太鼓判を押した事によって、取り巻きたちも勧められるがままに口にしていく。
だが一人、警戒心の強いライアンだけは、最後の最後までクッキーを受け取ろうとはしなかった。
彼の疑い深い瞳は、差し出された焼き菓子とモナの笑顔を交互にじっと見つめ、その防衛線を死守しようとしていた。
しかし、モナはそれすらも計算内だった。男には、自分の意思だけでは抗えない「同調圧力」と「主君への忠誠」という弱点がある。
「ライアン、お前も食え。私が保証する。モナのクッキーは驚くほど美味いぞ」
すでにモナが作った空間の心地よさに浸りきった王太子が、手元のクッキーをライアンへと強く勧めた。
主君の絶対的な命令。そして、周囲の仲間たちが皆食べているという安全の錯覚。これだけの条件が揃えば、いくらライアンでも、拒絶する大義名分は完全に失われる。
「……では一ついただこう」
ライアンはわずかに躊躇したものの、ついにその一切れを口へと運んだ。
(――やった)
モナは、ライアンの喉が小さく動くのを、注意深く見つめていた。
今すぐに効果が出るわけではない。だが、一度口にしたという事実は、一つの壁を越えたに等しい。二回目以降はすんなりと受け入れるに違いない。
そして気付いた時には、無性に彼女の菓子を欲するようになっているのだ。
あれから数カ月。モンテーニュ公爵夫人から届けられた「酒」に彼らは首ったけだ。
判断力の鈍った彼らは、「流通が少ない」「特級品」「貴方たちだけ特別」という謳い文句に流されるままに、その美酒に酔いしれている。
なかなか手ごわい男たちだったが、こうして最後の砦であるライアンも、完全に自分の足元へ跪かせる事に成功した。
彼はまさに今、温室にてモナに縋りつき、とろけるような目線を送っている。
先ほど喚いて逃げ去った女は、ライアンの婚約者のエマ伯爵令嬢だろう。戦わずに尻尾を巻いて逃げ出すなんて、やはり貴族の女は弱い。
(ライアンも悪くないけど、伯爵だし細かいから、やっぱり王太子かな。扱いやすいし、一生贅沢したいもん)
王太子は、今やモナに夢中だった。
ブリュイエール公爵令嬢との婚約破棄も、もはや秒読みといっていい。
最高峰に立つ人間が、最底辺の自分に心酔し、飼い主に忠実な犬のように付き従う。その現状に、モナは言いようのない高揚感を覚えていた。
モナは、ずっとずっと、憎かったのだ。
自分をすり減らして欲にまみれた男たちに媚び、施しを受ける屈辱。常に貞操の危機や死と隣り合わせの生活——そんな飢えや苦しみを知ることもなく、恋だの愛だの生きがいだの、くだらない悩みで人生を謳歌している上の人間どもが、心の底から憎かった。
学園に入り込んでから、想像以上にのんきで高慢な生徒たちと接する度に、ますますその憎しみは大きくなっていった。
(生まれた時点で運が良かったんだから、それだけで恩恵だと思うべきでしょ。仔馬だのアクセサリーだの欲しがって、『自分は家の道具』とか『自由がない』とか悩ましげに言っちゃってさ。……クソガキども、反吐が出る)
既に十分持っているのに、それ以上のものを欲しがるなんてありえない。弱者から搾取するやつらなんて皆死ねばいい。私には、これまで奪われてきた損を取り戻す権利がある。
モナは歪んだ笑みを浮かべ、そう心の中で毒づいた。
モンテーニュ公爵夫人の操り人形として送り込まれたはずの貧しい平民の娘が今や、この国を動かす最高の男たちを完全に支配する瞬間が、すぐそこまで迫っていた。




