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虎穴に入らずんば虎子を得ず

 半年という短期間で、まさに血を吐くような猛勉強を経て、モナは約束通り、特別枠の特待生として貴族たちの通うアズール学園へと編入した。



 モンテーニュ公爵夫人がお膳立てした「リビエール男爵の養女」という皮は、完璧だった。好色な男爵がモナのような美しい女を側に置くことに、疑念を抱く者はいなかった。しかしそれゆえに、社交界の貴族たちはモナに対して、剥き出しの敵意を向けていた。



 最初の数日間は、予想どおりの、そしてあまりにも退屈な「洗礼」が待っていた。



(あれがかの令嬢よ……ほら、例のリビエール男爵に水揚げされたっていう……)

(愛人の子かもしれないって噂も聞いたわよ)


 教室に入れば、露骨に蔑む女の視線と、下卑た男の視線が同時に突き刺さる。廊下を歩けば、わざとらしく扇子で口元を隠した女生徒たちが、遠巻きにヒソヒソと陰口を叩き、すれ違いざまに肩をぶつけてくる。




(……あはは、やる事幼稚で可愛い〜!)


 貧民街の人間による容赦のない迫害や、怒り狂ったストーカー男に刃物をつきつけられる恐怖に比べれば、温室育ちの子供たちが仕掛けてくる嫌がらせなど痛くも痒くもなかった。

 モナは怒るどころか、むしろこの四面楚歌の状況を歓迎すらしていた。


 最初から好かれているよりも、どん底の評価から始めた方が、人心を掌握した時の跳ね返りが大きく実りあるものになることを、彼女は経験で知っていた。


 経験豊富なモナにとって、高慢ちきな貴族の子供たちを転がすなど、赤子の手をひねるより簡単だった。




 モナは始め、徹底して「やり方がわからずおろおろと戸惑う哀れな少女」を演じ続けた。


 どれだけ冷たくされても、決して言い返さない。ただ、不安を押し殺したような固い表情に、それでも無理に作ったような微笑みを浮かべて、キョロキョロと周りを見て必死に馴染もうとする——フリをする。


 その間、冷静に相手の「欲望」のありかを見極めるのだ。



 初動は男ではなく、まずは女を攻略しなければいけない。目指すのは小動物や人形のような愛玩用の立場になる事である。女たちに脅威がないと判断される事が、後々の動きやすさに繋がるのだ。


 最初に狙うのは、クラスのリーダー格である男爵令嬢、ヴィクトリアだ。彼女の嗜好を徹底的に分析し、気に入られるための振る舞いを脳内で構築していく。



 モナは、ヴィクトリアと取り巻きたちが陰口を叩く絶好のタイミングを狙った。彼女たちが「無様よね」と嘲笑した直後、モナはすっとその背後に忍び寄る。


「あの、本日も皆様大変麗しゅうございまして、お目にかかれて大変幸いでございます。ご歓談中に大変恐れ入ります……えっと、どうしても……皆様に、お伺いしたい事がございまして」


 あまりに低姿勢な挨拶に、ヴィクトリアは扇子を止めて眉をひそめた。



「……何? 貴方、言葉遣いが滅茶苦茶よ。本当に、なぜ貴方のような人がこの学園に入れたのかしら」


 するとモナはカッと目を見開き、「そう! そうなんです!」と突然声を張り上げた。不意打ちの大声に慄くヴィクトリアを、ギラギラとした熱量で射抜く。


「さすがヴィクトリア様! 『ナメクジのような歩き方』とか『歯のない老人みたいな話し方』とか、本当にその通りすぎて……!」


「そ、そこまでは言ってな——」


「実は私、貴族の作法については付け焼き刃で、自分でもずっと不安なんです!だけどリビエール男爵には絶対に恩をお返ししたくて……後生ですから、何卒皆様の御作法を学ばせていただけないでしょうかぁ……!」


 モナは目をうるうるとさせ、ヴィクトリアに縋り付く。


 反論も怯えもせず、自ら欠点を曝け出してきたモナに面食らい、ヴィクトリアは扇子で口元を隠して呆れたように溜息をついた。


「……はぁ? 何を言っているのよ。なぜ私がそのような事をしなければならないの!」


「あんなに的確で辛辣な指摘、手練れの家庭教師でもできません。ヴィクトリア様こそ、私の理想なんです! お願いいたします!」


 モナは拝むように手を合わせ、頬を紅潮させた。


 周囲の取り巻きたちがざわつく中、ヴィクトリアはポカンと口を開けていた。そして「この子、こんなにあけすけで大丈夫かしら」と心配の方が勝り始めた。


 ヴィクトリアは少しだけ呆れたように、しかしどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて扇子を閉じた。



「……ふん。平民上がりの世話を焼くなんて、面倒極まりないけれど。そんなに拝み倒すなら、少しは教育して差し上げてもよろしくてよ?」


「ありがとうございます〜っ、師匠!」


 モナは心底嬉しそうに飛び跳ね、ヴィクトリアに抱き着く。


「ちょっと!やめなさいよ!」


 突き放しつつも、まんざらでもなさそうなヴィクトリアの様子を見て、取り巻きたちも敏感に場の空気が変わったことを察した。


 現金なもので、ヴィクトリアたちはこぞってモナを「駄目な妹」のように可愛がり始めた。あざといと思われていたモナの見た目についても、「可愛すぎて心配。変な男から守らないと」と真逆の評価になったのだ。


 こうしてモナは、貴族令嬢の「最も身近な愛玩物」にして「自尊心を満たす生きたお人形」として、彼女の懐という特等席に収まったのである。



 そうして少しずつだが、気付けばたったの数週間のうちに、学園の空気はガラリと一変した。


 かつてモナを遠巻きにしていたクラスメイトの男子も、名だたる名門貴族の女子たちも、皆こぞってモナを「守ってあげたい、可憐で素直な良き友人」として愛でるようになっていた。

 モナが教室で少しでも困った顔をすれば、我先にと皆が手を差し伸べる。



 貴族の子供たちの中には、既に婚約者のいる男子生徒もいた。

 モナは、自身も卒業後はお世話になっている男爵家の他領に嫁ぐ予定だと、適当な嘘をついた。

 こうしておけば、モナを恋敵とみなして即座に排除される危険性が減る。


 そもそも、木っ端な下級貴族の男なんて興味はない。先細りの将来性が見えている相手に身を委ねるなど、笑止千万だ。現状の財政だって、商家にすら劣るだろう。



(皆、馬鹿で騙しやすくてつまんないな。……でも)


 周囲の友人モドキたちに囲まれながら、モナの瞳は、廊下の向こうに見える「真の標的」をじっと見据えていた。



 学園のトップに君臨する高位貴族の令息たち――特に、この学園に在籍しているエマニュエル第二王太子を中心とする最上位の一団に取り入るのには、様々な障壁がそびえ立っていた。

 彼らの周囲には常に優秀なお付きの令息たちが控えており、身分の壁も含めて、その強固な輪は容易には崩せそうにない。



 中でも、ライアンという伯爵令息は群を抜いて警戒心が強かった。


 モナがどれだけ取り入る隙を探しても、その瞳は常に冷静さを湛え、物事を一歩引いたところからじっと観察していた。


(あの男が王太子の側にいる以上、変に近づけば疑われて、簡単に排除される……だったら、向こうから寄ってこさせればいい)



 モナは瞬時に作戦を切り替えた。


 強固な城壁を外から攻撃するよりも、内側から破壊する。毎日庭にやってくるだけの猫のように、静かに存在を認識させればいい。なんてったって、私は美しいのだから。




 モナは王太子の登校時間、移動する動線を徹底的に調べ上げた。


 そして、王太子が必ず通る中庭のベンチに、毎日、全く同じ時間に腰掛けた。

 決して自分から声はかけない。ただ静かに本を読んでいるだけ。そして王太子が通りかかる瞬間にだけ、ふと気づいたように顔を上げ、ほんの少しだけ、気まずそうに会釈をして視線を落とす。



 最初の数日は一瞥されるだけだった。

 だが、一週間が経ち、二週間が経つ頃には、王太子の脳裏に「中庭を通れば、必ずあの白金の髪の美しい少女がいる」という強烈な既視感が出来上がる。


 人は、何度も視界に入る見慣れたものに対して、無意識のうちに警戒心を解き、親近感を抱く生き物なのだ。



 やがて、王太子の方から「いつも熱心に何を読んでいるんだ?」と声をかけてきた。モナの計算通りだった。


 会話が始まってからも、モナは決して長居しなかった。

 お互いの話が盛り上がり、王太子が楽しそうに身を乗り出し、「もっとこの娘の話を聞きたい」と最も強い興味を抱いた瞬間、モナはあえて時計を見て、ハッと顔を青くした。


「……あ、申し訳ありません殿下……! 気がつけばこんな時間に……、貴重なお時間を割いていただきありがとうございました!では失礼いたします!」


 名残惜しさを残したまま、モナは慌ててその場を立ち去る。



 結末のわからない未完成の会話は、王太子の好奇心を大いに刺激した。

 それ故、別れた後も、王太子の頭の中に「モナ」という存在が意識の片隅に残り続けることになる。




 思ったとおり、王太子はそれからもモナに「市井の事をもっと教えてほしい」と声を掛けてくるようになった。


 王太子はモナに、「天真爛漫で小悪魔的で、話題が豊富な少女」という像を求めている――そうモナは分析した。

 その理想像にピントを合わせて、親しくなるに従い、元平民の女友達らしい気安さを微調整しながら演出していく。



「え!……エマニュエル様って結構むっつりなんですね……あ、嘘、今の嘘です!――不敬罪に問うぞって、それ、王族ジョークですよね?本気じゃないですよね?もう、やめてくださいよぉ」


 そう言って悪戯っぽく笑ってみせる。慇憱無礼な追従しか言わない退屈な貴族たちの中で、「王太子に対して珍しい態度をとる女」という唯一無二の価値を、モナは見事に演出してみせた。





 当然、この異様な急接近に、王太子や周囲の高位令息たちの婚約者である名門の令嬢たちは難色を示し、鋭い警戒の目を向け始めた。


「身分を弁えなさい。いくら男爵家の養女とはいえ、王太子殿下の周囲をうろつくなど不敬ですわ」


 ある日、令嬢たちに取り囲まれ、冷酷な詰問を受けた。

 王太子の婚約者であるマチルド・ブリュイエール公爵令嬢の取り巻きたちだ。彼女に牽制するよう頼まれたか、あるいは忠誠心と野心による独断による行動か。



 だが、モナは怯えるどころか、凛とした態度で令嬢を見据えた。後ろ暗いところなど一切ないという、堂々とした佇まいだった。


「ご心労をおかけしてしまい、大変申し訳ありませんでした。全て私の無知が原因です。養父、リビエール男爵には一切の責任はございません。明日からは私の方から、王太子殿下とは距離を置かせていただきます」


 言い訳もせず、気品すら感じさせる態度で綺麗に頭を下げ、唖然とする令嬢たちを置いてモナはその場を立ち去った。




 そして約束どおり、モナは翌日からピタリと王太子たちの前から姿を消し、中庭のベンチにも現れなくなった。



 効果は抜群だった。

 人は、手に入りかけていたものを「他人に奪われる」と、その価値が何倍にも跳ね上がったように錯覚し、異常なまでの奪還欲を燃やす。


 婚約者の取り巻きから圧力をかけられたと知った王太子は、プライドを激しく傷つけられ、モナに難色を示した令嬢たちへ強烈な怒りと嫌悪感を抱いた。

 


 結果として、王太子は周囲の制止を完全に振り切り、自らモナを探し出して、以前よりもさらに強固に彼女を自分の傍へと囲い込むようになったのだ。


 令嬢たちの「排除しようとする反発」すらも、モナは自分の希少性を高めるための踏み台にしてのけた。

 王太子がモナの底なしの沼にずぶずぶと引きずり込まれ、彼女を片時も離さぬようになるまで、そう時間はかからなかった。



  ライアンを始めとする取り巻きたちもまた、主君の傍らにいるモナと嫌でも接触せざるを得なくなった。


 ライアンの瞳に、微かな焦燥の光が混ざり始める。


 主君を文字通り「骨抜き」にしつつあるこの少女の、一見無防備に見えるが、しかし目に見えない奇妙な手腕に、彼は本能的な危機感を抱き始めていた。



 だが、モナの罠はこれで終わりではなかった。


 彼らを完全に破滅へと導くための、とっておきの強力な「武器」――モンテーニュ公爵夫人から預かった「特別な品」を投入する一幕が、すぐ後ろに控えていた。

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