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噛み合う歯車

 夜が明け、木小屋の重い錠が外されたとき、ルイスは「狂信者の顔」を完璧に作り上げていた。


 歩き方はどこか心許なく、焦点の定まらない瞳で虚空を見つめ、口元には恍惚とした締まりのない笑みを浮かべる。

 それは一晩の『調律の儀』を経て、自己を崩壊させられた哀れな信者の姿そのものだった。



 ラファエルは、その濁った金の目と力抜けた佇まいを見て深く満足そうに頷き、ルイスの肩を優しく叩いた。



「素晴らしい。あなたの境界は、今や大いなる輪へと融けました」


「はい、神父様。全てが、軽くなったようです……!」



 洗脳された信者のふりを完全に演じきりながら、解放されたルイスは、教会の裏手に広がる薬草園へと向かった。

 





 目当ての人物――エマが、ベンチに腰掛けている姿を見つけたのは、朝霧がまだ白く立ち込める頃だった。


 ふらふらとした足取りで近づいていく。




「――おはようございます、エマ様」


 声をかけられたエマがゆっくりと顔を上げる。その瞳は相変わらず、一切の光を通さない青だ。世界を遮断し、狂信の檻に進んで囚われた美しい人形。

 

 ルイスはぼんやりとした声を装いながら、彼女の隣に腰掛けた。



「自分自身と一晩中向き合うのは、死ぬほど辛かった……だけど、今は生まれ変わった気分です。エマ様も、『調律』を受けられたことがお有りで?ねえ、聖女様。あなたは最高司祭様にお会いしたことはありますか? あの救世主の御方に……」



 核心を突くその問いが、エマの耳に届いた瞬間。


 エマの纏う空気が、ピキリと凍りついた。彼女は首をゆっくりと傾げ、生気のない瞳をまっすぐにルイスへと向ける。



「……あなた、あの方に会ったの? 『調律の儀』ですって?それは一体何なの?」


 その声音は低く、優雅な令嬢の面影は微塵もなかった。チクチクと肌を刺すような棘が、空気に混じって漂っていた。


 彼女はこの短期間で一気に最高司祭へ近づいたこのゴシップ記者に対し、明確な怒りを剥き出しにしていた。

 彼女にとってこの教会は、ようやく手に入れた「自分が特別でいられる聖域」なのだ。それを脅かす新参者の存在が、激しく癇に障るらしい。



 ルイスはその拒絶に怯むことなく、惚けた恍惚の仮面の下で、ひとつ賭けに出ることにした。

 エマとの直接の接点は見つかっていないが、彼女の婚約者ライアンと懇意であるというモナという女生徒――事前調査で不穏な動きを見せていたその名前を、そっと切り出す。


「――エマ様。最高司祭様から伺ったんですが……『モナ』という少女をご存知ですか?」


 最高司祭が言ったという事実は全くない。カマをかけるつもりの、一か八かの博打だった。



 だが、その名前が引き金となった。


 次の瞬間、エマの表情が驚きの色に染まる。そして彼女は、目の前のルイスを呪い殺さんばかりの鋭い眼差しで睨みつけた。




「――なぜ貴方がその名前を? 司祭様がモナと、そう言ったの?」


 何が琴線に触れたのか、エマの怒涛の質問攻めに、ルイスは(……しまった、藪を突きすぎたか)と内心で冷や汗をかいた。ただの痴情のもつれを突くつもりが、エマの食いつき方は尋常ではない。


 だがここで怯めば、一晩苦痛に耐えたことが水の泡になる。ルイスは視線の焦点をわざと外し、司祭の言葉を復唱するかのような、うわ言のトーンでそっと言い訳を紡いだ。


「ええと……。司祭様はただ、大いなる融解を前に、堕落した元信者の『悪魔の子』がいると。これは神話の再来なのだ——と、そう仰っていました。その名が、確か、モナ……と」



 王立軍の調査で得ていた「モナの不審な動き」を、最高司祭の言葉として仕立て直す。



「……やっぱり。やっぱり、思ったとおりだわ……」


 震えるエマの口から、掠れた呟きが漏れた。




 次の瞬間、彼女の表情が劇的に豹変した。これまでの人形のような無表情が嘘のように、その顔面は生々しく、どす黒い「憎悪」によって美しく歪められた。



「――悪い行いをした人間は、報いを受けるべきですわ。そのうち必ず、正義の鉄槌によって断罪される日が来ることでしょう」



 エマは勢いよく立ち上がり、吐き捨てるように言葉を叩きつけた。あまりの激昂ぶりに、ルイスは「そこまで刺さるか」と内心で舌を巻く。




 婚約者を奪った女への怨嗟。そして、洗脳によってその感情を限界まで増幅させられ、「私は聖女として愛されている」という妄想にしがみつく姿。

 

 ルイスは、その姿に母親が重なって見え、目を背けたくなる。




「貴方も、もう記事を書くには十分でしょう。目障りだわ……早くここから消えて!」


 激しい感情を爆発させたエマは、ドレスの裾を乱暴に翻し、怒りに身を任せた足取りでその場を去っていった。






 遠ざかる背中を見送りながら、ルイスは小さく息を吐き出し、口元の締まりのない笑みを消した。金の瞳に、いつもの鋭い光が戻る。



(なるほどな。モナへの恨みと劣等感、そして『特別でありたい』という異常なまでの飢え。伯爵令嬢という箔もあり、彼女は『聖女』にうってつけだったというわけだ。……ああ嫌だ、あの母親と何も変わりゃしねえ)


 エマもまた、現実の裏切りに深く絶望し、この歪んだ理想郷に縋ることでしか自分を保てない、哀れな狂信者の一人に過ぎない。

 ルイスの目には、彼女がただ教団に踊らされている哀れな人形に見えた。



 その時だった。


「……あんまり派手に動かない方がいいよ、おっさん」




 背後から、妙に落ち着いた少年の声が響いた。


 振り返ると、そこにはいつもエマに付いて回る孤児の少年――レオンが立っていた。




 これまで一度もルイスの問いかけに答えず、完全に心を閉ざしているかのように見えた少年。

 だが、今ルイスを見つめるその瞳には、学のない孤児とは思えないほどの酷く冷静な、高い知性が宿っていた。



 少年は、エマが去っていった方向を悲しげに見つめた後、再びルイスに鋭い視線を戻す。



「これ以上余計なことをして、彼女を刺激しないでくれよ。……おっさんが何者で、何を調べているのかは知らないけどさ。これ以上は、危険だよ」



 何も喋らなかった少年が、明確な「警告」と、ルイスが偽者であるという見抜きを口にしている。




 ルイスは一瞬だけ驚きを目に走らせたが、すぐに不敵に口角を上げた。



「何者? 君」



 新たな嵐の前触れか、それとも福音か。

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