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深淵を映す鏡

 目隠しをされ、ひたすらに山道を歩かされたルイスの視界が再び開けた時、目の前に窓一つない狭い木造の小屋が現れていた。



「日の出まで、決してこの中から出てはなりませんよ」



 神父によって中へ押し込まれ、背後からバタンと重々しい錠が下ろされる。



 完全な密閉空間。部屋の中央には、一本の蝋燭と、人の背ほどもある大きな「鏡」が鎮座しており、その脇に、水差しに入った飲み水が置かれている。


 調律の儀。その実態は、ひたすら鏡に映る自分自身に向かって、狭い暗室で一晩中自問自答を繰り返させるというものだった。

 硬い床ではまともに寝ることもできず、時折聞こえる獣の鳴き声が否が応でも警戒心を煽る。



 ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎が、鏡の中のルイスの顔を不気味に照らし出している。


 静寂と孤独、そしてどこからともなく漂ってくる、脳をクラクラとさせる「妙な香り」の煙。肉体的な疲労と精神的な孤立を利用し、鏡の中の自分を他人のように錯覚させ、自己の境界線を崩壊させる洗脳の手口。



「なるほど、こういう事か……」


 ルイスは鏡の中の自分の濁った瞳を睨みつけ、不敵に口角を上げた。並の人間なら一晩で精神を破壊され、教会の操り人形になるだろう。


(上等だ。お望みどおり、一晩中付き合ってやるよ。……その代わり、この教会の汚いやり口を全て暴いてやる)


 ルイスは静かに床に腰を下ろし、煙が満ちていく暗闇の中で、静かに目を閉じた。










 どれほどの時間を、暗闇の中で過ごしただろうか。

  


 (――チッ、この煙が厄介だな……)


 ルイスは上着の袖口で鼻と口を覆い、あえて浅い呼吸を繰り返しながら、正面の鏡を見据えていた。



 何も起きない空間。ただ、自分の呼吸音と、蝋燭がパチパチと爆ぜる音だけが響く。


 時間が経つにつれ、部屋に充満する甘い香りが、確実にルイスの脳を侵食し始めていた。手足の感覚が妙に遠のき、思考の輪郭がドロドロと溶けていくような感覚。

 じっと鏡の中の「自分」を見つめていると、それが本当に自分なのか、あるいは鏡の向こうに別の怪物が潜んでいるのか、境界が曖昧になってくる。




 『君が今守ろうとしているその「自分」は、本当に命を賭してまで守る価値のあるものかね?』




  脳裏に、最高司祭のあの這い回るような声が蘇る。


 自分の足で立ち、自分の頭で考えて生きてきた。

 その自負すらも、社会に植え付けられたただの防衛本能、奴隷の錯覚に過ぎないのではないか。だとしたら、こんなに苦しい思いをして、孤独に戦い続ける意味はどこにある? 

 いっそすべてを諦めて、あの男の言う「融解」に身を任せてしまえば、どれほど楽になれるだろうか――。



 (……ふざけるな。黙れ……!)


 ルイスは奥歯が痛むほどに噛み締め、必死に混濁していく意識を引き締めた。


 俺はサリヴァン新聞社の記者じゃない。王立軍・上級調査官のルイス・アークライトだ。アイルハルト殿下の命を受けて、ここに潜入しているんだ。



 だが、肉体の疲労と薬物の効果は非情だった。

 ガクン、と視界が大きく揺れる。同時に蝋燭の火が消え、真の暗闇が訪れた。





 火が消える間際に見た鏡の中の自分の顔が残像としてルイスの視界を占めている。

 その顔が、突如としてドロリと形を崩し、最高司祭のあの不気味な「戦の傷跡」のように歪んで見えた。


 目の前の『ルイス』が、見たこともない邪悪な笑みを浮かべて自分を嘲笑っている。



 (――しまっ、た。引きずり込まれ……)


 孤独な暗闇の中で、ルイスの精神の壁に、決定的な「亀裂」が入りかけていた。




 脳が融けていく。頭の中の自分の輪郭が歪み、司祭の言葉が甘い毒のように、ルイスの精神の傷口から侵入してくる。




 すべてを諦めて、溶け合ってしまえば楽になれる。


 自分の名前も、孤独も、戦いも、すべてを捨てて『一つ』になれば、もう傷つくこともない――。



 その心地よい破滅の淵に片足を突っ込んだ瞬間、ルイスの脳裏に、不意に強烈な「愛憎の記憶」が蘇った。



 ――それは、今もどこかの街で、落ちぶれながら生き長らえている実の母親の姿だ。




 高貴な人間の男に捨てられ、渡された多額の手切れ金すらも、見栄のためにすべて無駄遣いして使い果たした女。

 今や見る影もなく身を持ち崩しているくせに、それでもまだ「私は、さるお方に見初められた特別な女なのよ」「お前は高貴な血を引いているの」と、消え失せた過去の幻影をこねくり回してはみっともなくしがみつき、現実逃避を続けている。



 ルイスの胸の奥で、激しい感情が渦巻いた。


 あんな風にしか生きられない女への、反吐が出るような憎しみと軽蔑。

 同時に、幼い自分を抱きしめてくれた手の温もりや寒い冬に二人で薄い布団に包まって眠った心地良さの、捨てきれない狂おしいほどの愛情。

 そして、幻影に縋らなければ壊れてしまうほど弱く、今も惨めに身を削り続けている事への哀れみ。



 憎くて、愛しくて、たまらなく哀れな、俺の母親。

 その割り切れないドロドロとした情念こそが、幼少期からルイスの心を縛り、同時に彼を突き動かす原動力だった。




 ハッと、ルイスの金の瞳に鋭い光が戻る。


 (すべてを共有するだと? 誰もが等しく愛される世界だと? ――ふざけるな)


 最高司祭の言う「融解」の正体が、一瞬で見えた。あんなものは、誰も傷つかない代わりに、誰も特別に愛せない、薄っぺらなまやかしだ。


 もしその世界に行けば、俺のこの母親への激しい憎しみも、歪んだ愛も、すべてが綺麗に薄められ、誰のものともつかない「ただの愛」へと還元されてしまう。


 (あの女を憎む事も、愛する事も、哀れむ事も……全部、俺だけの特権だ。他の誰のものでもない。神だろうが救世主だろうが聖女だろうが、俺の人生を勝手に共有して、綺麗に洗い流してんじゃねえよ……!!)


 苦痛、憎しみ、孤独、そして愛。それら全てが、彼を他者ではない「ルイス・アークライト」として生きさせている絶対の証明であり、今の彼を動かす原動力だ。それを手放すことは、あの哀れな母親の幻影に、本当の意味で呑まれることを意味する。



 脳内の自分の姿が、再び冷静な猟犬の目をした男の像へと集約していく。



 霧は晴れた。脳の芯は完全に覚醒していた。



 「クソ野郎ども……こんな子供だましにやられるような男じゃないんだ、俺は」



 ルイスはふぅ、と一息つくと、血の滲む手の緊張を解いた。

 闇の中、どこか遠くの山の中から、何かの獣の遠吠えが響いた、気がした。


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