融解の論理
「まだやることが残っている」とエマに言い放ち、数日後――ついに、その時がやってきた。
夕暮れの礼拝堂。西日がステンドグラスを赤黒く染め上げ、誰もいなくなったタイミングを見計らったように、あの抜け目のない神父が、そっとルイスの背後に音もなく忍び寄ってきた。
「ルイスさん。あなたが兼ねてより希望されていた、最高司祭様とのご面会ですが……最高司祭様が予定をやりくりしてお時間をくださいました。今宵、あなたを司祭様との面会へとお連れいたします」
「——ああ、それはありがたい!子供たちに泥をぶつけられた甲斐があったってもんです」
ルイスはいつもの軽い調子で応じたが、背中の神経は一瞬で総毛立った。
ついに親玉との対決か、と内心で緊迫感を覚えながらも、顔にはゴシップ記者の軽薄な笑みを張り付かせる。
案内されたのは、教会のさらに奥、重厚な扉に閉ざされた一室だった。
部屋の奥、簡素な椅子に佇んでいたのは、白髪の老貌に底知れぬ慈愛の眼差しを湛えた老いた男――聖アリア教の最高司祭だった。
「ようこそ、迷える探求者よ。君がサリヴァン紙の記者、ルイス君だな。王立新聞社のような偏見を持たず、我が教会の真実を見ようとするその姿勢、実に素晴らしい」
最高司祭の声は、ただ聴いているだけで波立つ心が凪いでいくような、不思議な残響を持っていた。
「はは、どうも。ですが、うちはゴシップ紙ですから。いくら善行を積んでいようと、世間を納得させるだけの『真理』がこの宗教になければ、読者は最初の数行を流し読みして、さっさと賭け馬の欄に飛ぶでしょうね。——実際のところ、聖アリア教が説く『救い』の本質ってのは何なんです? 世間の評判じゃ、怪しい新興宗教扱いですが」
ルイスはあえて無作法な記者を装い、挑発的な問いを投げかけた。最高司祭の化けの皮を剥ぐための、冷徹な一太刀のつもりだった。
だが、最高司祭は微塵も揺らがず、深く、静かに微笑んだ。
「ルイス君、君はなぜこの世から争いや貧困、あるいは個人の苦悩が消えないと思うかね?」
「さあね。人間の欲が尽きないから、あるいは神様が不公平だからじゃないですか?」
「それらはすべて『結果』に過ぎない。根本にある原因はただ一つ。人間が『己』というものに執着しているからだよ」
最高司祭は、まるで我が子の無知を憐れむように、穏やかに言葉を重ねる。
「人は生まれながらに身分を与えられ、名前を持たされる。そして『自分は特別だ』『与えられた身分に見合った生活をすべき』あるいは『なぜ生まれながらにこのような仕打ちを受けなければならないのか』という呪いを植え付けられる。貴族は己のプライドを守るために平民を搾取し、上の人間に媚びへつらう。平民は不平を嘆きながら、飢えから逃れるために隣人を騙し、他人を出し抜こうとする。……君が普段書いているゴシップ記事なども、まさにその象徴だ。他人の不幸を覗き見、自分より下に貶めることで、自らの惨めな『自己』を慰めている。違うかね?」
「……それも、商売ですからね」
ルイスは鼻で笑い、鋭い一歩を踏み出す。ここで引き下がるわけにはいかない。
「人間の『自己』が諸悪の根源だってのは分かります。だからといって、その自分を捨ててしまえば全部解決すると? 神にすがって自分の意志を持たない、ただの操り人形になることが『救い』だって言うんですか? そんなのは生ける屍と同じだ。人間は自分の足で立って、自分の頭で考えて生きていくから価値があるんじゃないですか」
ルイスは金の目で老人を睨みつける。
しかし、最高司祭はその反論すらも、待ってましたと言わんばかりの慈悲深い笑みで包み込んだ。
「自分の足で立つ、か。実に力強い言葉だ。だがルイス君、その『自分の頭で出した結論』が、本当に君自身の意志だと断言できるかね?」
「……何だって?」
「君が這いつくばって生きてきたその価値観すらも、この歪んだ社会が君に『そう生きないと死ぬ』と強制した、ただの防衛本能に過ぎない。君は社会の奴隷のまま、自分で考えていると錯覚しているだけなのだよ」
最高司祭はゆっくりと手を広げた。その仕草すら、神聖な奇跡の予兆のように見えた。
「私たちが説くのは、君の言うような操り人形になることではない。我欲を捨て、大いなる神の意思へと己を『融解』させる事だ。私という存在がなく、あなたという存在もない。すべてが共有され、すべてが等しく愛される世界。そこには比較も、嫉妬も、奪い合いも存在しない。現世のあらゆる苦しみ、そのすべての根源である『自己』からの解放……これこそが、本物の平穏だと思わないかね?」
「それは、ただの都合のいい理想論でしょう」
ルイスは鼻で笑い、さらに一歩を踏み出す。
これだけの怪物だ、生半可な反論ではボロを出したと見なされかねない。ゴシップ記者らしい「世をすねた現実主義者」の皮肉をたっぷりと乗せて、言葉を叩きつけた。
「司祭様、人間が全員そんな聖人君子になれるわけないでしょう。現に、現世のあらゆる苦しみから解放されるために『自己を捨てろ』なんて言われて、はいそうですかと納得できるのは、よっぽど心に余裕があるか、あるいはとっくに頭のネジが飛んでる奴だけだ。現実は、今日生きるためのパンを奪い合わなきゃ死ぬ平民で溢れてる。全員が溶け合って一つになるなんて、おとぎ話の綺麗事に過ぎない」
ルイスは脚を組んで反抗的な態度を見せた。
しかし、最高司祭はその鋭い指摘すらも、待ってましたと言わんばかりの慈悲深い笑みで包み込んだ。
「そう、まさにその通りだ、ルイス君。だからこそ、人は自力では至れない。だからこそ、私たちが手を差し伸べ、導く『先導者』が必要なのだよ」
最高司祭は威厳に満ちた声色で語る。
「理想をただの綺麗事で終わらせないために、私たちは現世で衣食住を保証し、孤児を救い、迷える人々に寄り添っている。現世の淀みを払ってやって初めて、人は『自己』という呪縛から解き放たれる準備ができる。君が見た子供たちの笑顔こそ、理想が現実になった証拠だと思わないかね? 私たちが説くのは、遠い天上の話ではない。この地の上に、本物の平穏を築くことなのだよ」
「なら、その『理想郷』を維持するための莫大な資金源はどうするんです?」
ルイスは食い下がり、下俗な「金の話」をぶつけた。彼らの美辞麗句を引き剥がすには、現世の生々しい金勘定が一番の特効薬だからだ。
「物乞いに飯を食わせ、孤児をふかふかのベッドで寝かせ、理想論を維持する。それには莫大な金が要るはずだ。この辺鄙な教会が、高位の信者からの多額の寄付、あるいは……もっと後ろ暗い『資金源』に頼ってなきゃ、そんな綺麗事の配給が続くわけがない。結局、あんたらの言う融解とやらは、一部の都合のいい金蔓から金をむしり取るための装置なんじゃないですかねえ?」
これでも理想と言い張るか、とルイスは挑発的に口角を上げた。
だが、最高司祭は眉一つ動かさず、むしろルイスを称えるように、深く、静かに微笑んだ。
「素晴らしい現実感覚だ、ルイス君。物事を金という尺度で測るのは、まさに現世を生き抜いてきた者の知恵だ。だがね……それこそが私たちの言う『境界の融解』なのだよ」
「……つまり?」
「我が教会を支える富裕層や貴族たち、彼らもまた、聖アリアの教えによって『私有』の呪縛から解き放たれた者たちだ。己の財産という境界を無くし、それを必要とする子供たちや貧しき人々のために、自らの意志で差し出しているに過ぎない。君の言う『むしり取る』という発想自体が、他者と自分を切り離し、損得を競う現世の病なのだ」
最高司祭は、哀れみすら含んだ温和な眼差しでルイスを見つめる。
「金も、土地も、元は誰のものでもない。それを囲い込もうとするから争いが生まれる。私たちの理想郷では、持てる者が持たざる者へ分け与えるのではない。すべてが最初から『一つの輪』のものとして循環しているだけなのだ。君が現実的だと思っているその疑念すらも、歪んだ現世の常識に脳を縛られている証拠だと思わないかね?」
ルイスの額に、じわりと冷たい汗が滲む。
言葉の網の目が、どんどん細かくなっていく。こちらの現実的な指摘すらも、教団の「財産の共有」にすり替えられ、完璧な正論として補強されてしまう。
ルイスが体勢を立て直そうとしたその瞬間、最高司祭は彼の動揺を見逃さず、どこまでも優しく語り口を向けた。
「無理もないよ、ルイス君。君がそうして疑うのは、この世界があまりにも冷酷で、欺瞞に満ちているからだ。……実はね、私もかつては君と同じだった」
最高司祭は、遠い過去を惜しむように目を細め、静かに胸元へ手を当てた。
「数十年前——私は若く、野心に溢れ、自分の力だけを信じていた。だがある時、激しい内乱に巻き込まれてね。戦火の中、私は瓦礫に足を挟まれ、ただじっと死を待つしかなかった。周りには、もがき苦しんで息絶えていく人々。誰もが己の命を守るために必死で、隣の人間が飢え死にしようと、見向きもしなかった。私もまた、奪われないように僅かな干し肉を懐に隠し、他者を呪いながら死にかけていた」
老人の声は、まるで呪詛のように静かで、それでいて奇妙な臨場感を持って空気を支配していく。
「喉の渇きと恐怖で意識が薄れる中、私は悟ったのだよ。ああ、人間が個として生き、個として死ぬというのは、なんと孤独なのだろう、とね。誰もが『自分』という殻に閉じこもり、恐怖に怯え、互いを排斥し合っている。その時だ。私の前に、名もなき一人の男が現れた。彼は私に、水を与えてくれた。彼は微笑みながらこう言ったのだ。『私はあなたであり、あなたは私です。恐れることはありません』と」
最高司祭の瞳に、怪しい光が灯る。
「その瞬間、私の『自己』は崩壊した。彼が死んでも、彼の一部となった私は生き続ける。私が死んでも、私を救った彼は世界に残り続ける。私という境界線が消え去った時、死の恐怖も、他者への憎しみも、すべてが嘘のように消えてなくなったのだ。——気付けば、その男は忽然と姿を消していた。……後に気づいたのだよ。私を救ったあの男こそ、かつて世界を魔物から救った『救世主』の魂だったのだとね。彼は私であり、私は彼だ。そして長年の時を経て、ついに、我が教団に『聖女様』も降臨された。すべてを一つに融解する、大いなる使命の刻が間もなくやってくるのだよ。……ところでルイス君。そんな神聖な計画を前にして、君が今しがみついているそのちっぽけな『自分』は、本当に命を賭してまで守る価値のあるものかね?」
最高司祭はそう言うと、酷く緩慢な動作で、身に纏った豪奢な祭服の胸元を寛げた。
剥き出しになった老いた鎖骨のすぐ下、心臓に近い位置に、それはあった。
赤黒く、引き連れた皮膚が複雑に入り組んだ傷跡。数十年が経過した今なお生々しさを失わない、巨大な「戦の跡」だった。瓦礫に圧し潰され、肉を抉られたという言葉に、一片の誇張もないことを物語る、圧倒的な物質としての説得力がそこにあった。
「これを見るたびに思い出すのだよ。現世の地獄と、そこから私を引っ張り上げてくれた、境界なき大いなる神の愛をね」
最高司祭は愛おしげにその傷跡を指先でなぞりながら、再びルイスへと視線を戻した。
ルイスの背筋に、ゾワリと本能的な恐怖が走った。
(……やばいな。押し問答じゃキリがねえ。まともに正論でやり合ってたら、本当に脳の芯まで持っていかれる……!)
この男は人を騙す本物の天才だ。これ以上、記者としてのプライドや自論を突き通そうとすれば、逆に「こいつは怪しい」と危険視される恐れもある。
ルイスは限界を感じ、瞬時に思考を切り替えた。これ以上の対決は危険だ。ここは奴らの望む「正解」を与えて、一刻も早く退散するしかない。
ルイスはわざと視線の焦点をわずかにぼかし、大きく息を吐き出すと、魂を抜かれたような惚けた表情を作ってみせた。
「……自己を、無くす。社会の奴隷、としての、自分……か」
洗脳されかかった信者見込みのフリ。それが、今この怪物の前でルイスができる最大限の「防御」だった。
最高司祭は、満足そうに細い目をさらに細めて頷く。
「君のように賢い人ほど、受け入れるのに時間がかかるものだよ、ルイス君。よくよく自分自身でも考えてみてほしい。そしてまた忌憚なき意見を聞かせてくれ。私も、久しぶりに有意義な討論ができて嬉しかった。君の魂の渇きが癒されるよう、私はいつでも助けになろう。そして素晴らしい記事で君のような人々を救ってほしい」
「ええ! こちらこそ、このような機会がいただけた事に感謝します。この頭がハッキリしているうちに、すぐにでも記事に取り掛からなければ。今日は、これで失礼して……」
ルイスは紅潮した顔に笑みを貼り付けたまま、一刻も早くこの場から離脱し、体制を立て直そうと扉へ向かって歩き出した。なんとか騙し通した。この男の危険性は想像を絶する。すぐにでも情報を王立軍へ持ち帰り、この宗教の根を絶たねばならない――
ガチャリ、と背後で扉が閉まる音がした。
いつの間にか、退出したはずのラファエル神父が、左右対称な笑みを浮かべてルイスの退路を塞ぐように立っていた。
「素晴らしい問答でしたね、ルイスさん。司祭様の言葉が、あなたの乾いた心に優しく染み渡ったのが分かりましたよ」
「ああ……神父様。本当に、驚いた。早くこの感動を紙面に書かないと――」
「おっと、慌てる必要はありません」
ラファエルはルイスの肩をがっしりと掴むと、その耳元で、底冷えするような声を囁いた。
「真理の扉を開きかけたあなたを、このままお帰しするわけにはいきません。……さあ、次の段階、『調律の儀』へ進みましょう。そこで一晩中、己の魂と鏡を介して向き合うのです」
ルイスの表情が、凍りついた。
(――はめられた)
冷酷な牙を剥いた蛇に幾重にも絡めとられ、猟犬は湿った闇の奥底へと引きずり込まれていくのだった。




