85.過去を欠いた者
上位五竜種の一角、白竜。竜殺しによって今はフォウと名乗る彼女は、記憶を断片的に失っていた。
自分が何者なのかという記憶はあったが、名前は憶えていなかった。ただ同じ上位五竜種から呼ばれる、白竜という称号だけが己を表す記号となっていた。
彼女は、自分が今までどこでどうやって生きていたかという大部分を憶えておらず、どこで生まれたかということも忘れてしまっている。
しかし記憶の糸を辿っていくと、そこにあったのは人間と生活していた頃の思い出。
フォウの性格を考えるとそれは冗談にしか聞こえないだろう。なにせ彼女はもっとも竜らしく、人間とかかずらうことを嫌い、人間に関心が全くと言っていいほど無いのだから。
話を聞いたエイジは怪訝な表情を浮かべて、眉間に幾つもの皺を寄せた。
「お前が人間と暮らしていた……だと?」
「俄かには信じられんじゃろう。わしもじゃ」
「どういうことだ。まるで意味がわからん」
「……恐らく、この記憶は百年以上も前のものじゃ。記憶の薄れ方がそこまで酷くはないからの」
百年以上前と言うと、人間では生きられない年数だ。そんな過去の話を、フォウはまるでついこの間のことのように扱って話した。
「きっと、その頃は人間と竜のあいだに確執らしい確執もなかったんじゃろう。共存と言っていいのかわからんが、互いに理解しあえていた時代じゃ」
「さっきから恐らくとかきっととか言っているが、それはお前の記憶が断片的に無いからか?」
「うむ。人間と暮らしていた記憶はあるが、どうして暮らし始めたのか、そしてその後どうなったのかというのは憶えておらん」
「……お前のような竜が、人間と、か」
短い付き合いではあるが、その事実がフォウという存在とどれほど矛盾しているかをエイジはよく理解できていた。
フォウは無闇矢鱈と人間を襲うことはしないが、それと同時に、進んで人間と関わりを持とうとしない。人間のことを蟻か虫くらいに思っている性格だ。
そんな彼女が、見下す対象である人間と共に暮らしていたとは。
想像しようにも出来ない。
「わしも甚だ、その記憶だけは常に疑い続けておる。自分でも到底信じられん」
「……お前、もしかして記憶を失う前はそんな性格をしていなかったんじゃないか」
「なにぃ? 気色の悪いことを言うなエイジ。わしはずっと前からこうに決まっておる」
「その証拠はあるのか?」
「……そう言われると、何も言い返せんではないか」
記憶が無いということは、自分が無いということと同義だ。
記憶を失い目覚めたときには、自分はもう生まれ変わっている。それ以前がどうであれ、今まで歩んできた道を逸れて進むことになるのだ。
今のような性格をしていないフォウというのは、一体どんなふうだったのかとエイジは想像を膨らませようとしたが、やはり出来なかった。
少なくとも、人間と同じ目線に立って和気藹々と生活している姿など、乖離しすぎていてイメージ出来なかった。
「……だが、お前の話を聞いて少し親近感が湧いた」
「なんじゃあ? 今のわしは間違っても人間と仲良く手を繋ぐなんてことはせんぞ。妙な期待はよせ」
「そうじゃない……お前と同じで、俺も自分の記憶が無いんだ」
水平に空を進んでいたフォウの身体が一瞬だけぴくりと反応する。
「……ほう。興味深いの。続きを聞かせてみろ」
「お前と違って、俺は全ての記憶を失っている。この世界に召喚される以前のことを全てな」
「なんじゃとぉ? すると何じゃ、この世界に来たときおぬしはどんな気持ちじゃったんじゃ」
「先ずは自分の記憶が無いことに絶望したさ。それから、僅かばかりに残っていた『以前の世界の常識』とかけ離れたこの世界に驚いた」
エイジが失っていたのは、自分に関する全ての記憶。それ以外の一般常識――つまり日常生活に必要なことは憶えていたのだが、どういう訳か、以前の世界に関する記憶も同時に失っていた。
自分はここではない別の世界に住んでいた。という記憶はあったのだが、その世界がどんな場所だったかはわからないのだ。
「記憶を失った状態で異界召喚されるとはのぉ……そんな混乱の中、おぬしも戦争に駆り出されたとは、流石のわしでも心中察せられるのぉ」
「いいや、俺は戦争には参加していないぞ」
「なに? 異界者は召喚士に召喚されたあと、例外なく竜との戦いに身を投じることを強制されるはずじゃろう」
「俺が召喚されたのは戦争が終結した直後だ。投じる戦いも既に無くなっていたんだ……その事について話さなかったか?」
「言ったじゃろう、わしはおぬしのことをほとんど訊いたことがないとな」
そこまで自分は、フォウと距離を取っていたかと初めてエイジは自覚した。
確かに今まではフォウのことを竜として憎む気持ちの方が大きかったし、必要以上に歩み寄ろうとはしてこなかった。いま思うと、本当に単なる協力者だったのだと思える。
フォウもそうだがエイジ自身もここまで自分の話をするというのは、やはり仲間という自覚が芽生え、距離感が縮まった証拠なのだろう。
「して。何故おぬしは戦争終結後に呼び出された? その召喚士は何を考えておったというのじゃ」
「……俺を呼び出した召喚士は、俺に言った。『こんな世界に呼び出してごめんなさい、私たちを守っていただけませんか』、とな」
「ほう。戦争に勝つためではなく自分たちの保身のための召喚か……烏滸がましい召喚士も居たものじゃな」
「いや……当然の願いだったんだろう。あいつは、まだ小さい子供だったからな」
三年前から一時たりとも、エイジの頭から離れたことのない少女の姿。
エイジの復讐のルーツは全てその少女にあり、彼にとっての生きる目的はそれだけである。
あの少女を弔うための戦い。
それが、エイジの復讐なのだから。




