DAY2 牛にも出勤時間はあります
午前八時五十七分。
国立天晴大学の旧校舎前に、一枚の紙が貼られていた。
旧校舎立てこもり活動 午前九時〜午後五時
※時間外の立てこもりはご遠慮ください。
神谷莉央は、その紙を三度読んだ。
「……誰が貼ったの、これ」
「ぼくだけど?」
隣で夜乃さとみ(よの さとみ)が、平然と答えた。
「だって昨日、みんな帰る時間がばらばらだったから」
「立てこもりって、時間割を決めるものだっけ?」
「遅刻する人が出るかもしれないし」
「立てこもりに遅刻って概念ある!?」
旧校舎の前には、すでに学生たちが集まり始めていた。
筋力トレーニング研究会の「まっする」と呼ばれる田中真摺は、腕立て伏せをしている。
アニメーション研究会の「ラブ」と呼ばれる込家羅武は、大きな紙袋を抱えている。
映像制作研究会の「アキ」と呼ばれる白澤秋は、何も起きていない正門を撮影していた。
「おはよう、莉央。昨日の映像、いい感じだったよ」
「消して」
「まだ見せてないのに」
「見なくても分かる!」
アキはカメラを構え直した。
「あっ、気にしないで続けて」
「気になるってば!」
そのとき、校舎の向こうから低い鳴き声が聞こえた。
「モォォ」
莉央は目を閉じた。
「……今日も来るんだ、牛」
「来るべ! 立てこもり二日目だべ!」
熊田牛男が、得意満面で牛を連れて現れた。
牛の首には、昨日までなかった札が下がっている。
臨時部員 べこ
「部員にしないで!」
「ちゃんと会費も払うべ」
「牛がお金持ってるわけないでしょ!」
「現物支給だべ」
「何を!?」
牛男は答えなかった。
莉央は、答えなくてよかったと思った。
午前九時ちょうど。
さとみが腕時計を見た。
「はい。立てこもり開始」
「おーっ!」
学生たちが旧校舎へ入っていく。
その光景を、少し離れた場所から学生に「うおっまぶし!」と呼ばれる禿山光副学長が見ていた。
「……あいつらは本当に、毎朝通勤するつもりなのか」
隣の職員が、言いにくそうに答えた。
「そのようです」
「ふざけおって!」
副学長は額に手をやった。
朝日が反射した。
「うおっ、まぶし!」
職員が思わず口を押さえた。
「笑うな!」
「笑っておりません!」
* * *
午前九時二十分 第二の退去命令
旧校舎の共用部室では、莉央が黒板の前に立っていた。
「昨日は勢いで始めちゃったけど、今日はちゃんと考えよう」
黒板には大きく、こう書かれている。
旧校舎を守るためにすること
一、話し合う。
二、勝手に壊さない。
三、牛を増やさない。
「三番は何だべ!」
牛男が抗議した。
「必要だから書いたの!」
「べこは一頭だべ!」
「増やす予定があるみたいな言い方しないで!」
部室の扉が開いた。
「失礼いたしますわ」
学生自治会副会長で、皆に「三重様」と呼ばれる三重晴美が入ってきた。
背後には執行部長の御坊千也真と書記の剛田つよし(ごうだ つよし)もいる。
三重様は、牛を一瞥した。
「……昨日より、馴染んでいますわね」
「モォ」
「返事は結構ですわ」
御坊は莉央を見つけた途端、姿勢を正した。
「り、莉央さん! お、おはようございます!」
「おはよう、御坊くん」
「きょ、今日もその……お元気そうで……!」
「うん。元気だよ」
御坊は耳まで赤くなった。
三重様が鉄扇を鳴らした。
「御坊! 通知を読みなさい!」
「は、はい!」
御坊は封筒から書類を取り出した。
「大学施設内における大型動物の持ち込みについて、至急、適切な管理体制を示すこと。確認できない場合は――」
彼はそこで言葉を切った。
「……当該動物を旧校舎から退去させること」
「当たり前じゃない?」
莉央が言った。
牛男が飛び上がった。
「べこを追い出す気だべか!」
「いや、牛男。そこはちょっと考えようよ。昨日からぼくもずっと気になってたんだから」
「べこは家族だべ!」
「家族ならなおさら、ちゃんとした場所で寝かせてあげて!」
その一言で、牛男がぴたりと止まった。
「……それは、そうだべ」
意外にも素直だった。
剛田が頷く。
「オレ様も莉央に賛成だ。牛を危険な建物に閉じ込めるのは筋が違う」
「剛田さん、たまにはまともなこと言うんだね」
「たまにはって何だ、たまにはって!」
御坊が小さく咳払いした。
「ただ、管理の確認ができれば、大学側も一方的な処分はしにくいはずです」
莉央が振り向く。
「御坊くん、詳しいんだ?」
「ぼ、僕は自治会ですから!」
御坊は胸を張った。
三重様が横から言った。
「昨夜、関連する学内規程を一緒に調べましたの」
「三重様も?」
「べ、別にあなた方の味方をしたわけではありませんわ! 手続きは手続きです!」
剛田が笑った。
「まあ、話を聞くくらいはできるってことだ」
莉央は少しだけ肩の力を抜いた。
昨日は、自治会も全員敵に見えた。
でも、どうやらそう単純ではないらしい。
* * *
午前十時 農業・畜産研究会、出番です
「というわけで、説明するべ!」
牛男が黒板を奪った。
その両脇に、二人の学生が並ぶ。
一人目は農業・畜産研究会の「ヘルシー」と呼ばれる優居減子。野菜の入った籠を抱え、穏やかな笑顔を浮かべている。
もう一人は「ほの」と呼ばれる稲森穂乃。分厚い記録ノートを持ち、すでに何かを書き込んでいた。
「まず、べこの生活について説明します」
ほのがノートを開いた。
「普段は大学の農業実習区画にある、飼育設備を使っています。担当教員への連絡も済んでいます。旧校舎には昨日、短時間だけ連れてきたんですが……」
「その短時間が長すぎたんだよ!」
莉央が突っ込む。
「はい。反省してます」
ほのは真面目に頭を下げた。
「今日からは、飼育設備と実習区画を中心に管理します。水も餌も、記録をつけています」
「じゃあ、旧校舎の中にずっといるわけじゃないんだ」
「もちろんです。べこにも休憩が必要なので」
莉央は安堵した。
少なくとも、ここにはまともな人が一人いた。
「あと、立てこもりのために、べこの出勤簿を作りました」
「まともじゃなかった!」
ほのが差し出した紙には、日付と時刻の欄が並んでいた。
べこ出勤記録
九時〇〇分 出勤
十時〇五分 反芻
「反芻を勤怠管理しないで!」
ヘルシーが籠を机に置いた。
「それより、お昼ごはんをどうするか考えませんか? みんな、昨日はお菓子ばかり食べていましたよね」
「うっ」
莉央は目を逸らした。
昨夜の夕飯も、菓子パンだった。
「野菜なら実習区画で育てています。収穫時期のものは、ちゃんと手続きを踏んで使えますし」
「えっ、すごい!」
「ただし、勝手に全部食べたら研究記録が台無しですからね」
ヘルシーは笑顔のまま、牛男を見た。
「聞いてます?」
「き、聞いてるべ」
莉央は感心した。
農業・畜産研究会。
昨日までは、牛を連れてくる騒がしい人たちだと思っていた。
だが、飼育も栽培も、毎日の世話が欠かせない。勢いだけでは続けられない活動なのだ。
そのとき、まっするが籠の中を覗き込んだ。
「……ヘルシー」
「はい?」
「この中に、タンパク質はあるか?」
「枝豆ならありますよ」
「おおおおお!」
まっするは両手を天に突き上げた。
「大地の恵み! 筋肉の希望!」
「ただの枝豆だよ!」
莉央の突っ込みは、もう反射だった。
* * *
午前十一時三十分 牛に投票権はありません
共用部室の机が、円形に並べ替えられた。
莉央の提案で、今後の方針を決める会議をすることになったのだ。
「まず、建物を壊したり、誰かを傷つけたりするのは絶対なし」
「異議なし」
千堂俊雄が頷く。
「それから、大学の人が話し合いに来たら、ちゃんと話す」
「異議なし」
三重様が腕を組んだ。
「あと、変な装置は勝手に動かさない」
「異議ありなのである!」
「ハジメ」と呼ばれる理科野発が立ち上がった。
「昨日の失敗は安全機構の設計思想における些細な――」
「シャッター閉じ込め事件を些細って言わないで!」
ハジメは座った。
「……異議を撤回するのである」
続いてラブが手を挙げた。
「貴重なグッズの保護を優先事項に加えてほしい」
「個人の荷物は自分で守って」
「そこを何とか!」
「却下!」
「ロワ」と呼ばれる狼羽いやる(ろわ いやる)が立ち上がる。
「夜間の監視体制は、我が影の軍団に――」
「夜は帰るの!」
「闇にこそ真の戦いが――」
「午後五時まで!」
さとみが、黒板に大きく書き足した。
四、午後五時には帰宅する。
会議が少しだけ前に進んだ。
そこへ、映像制作研究会のもう一人、「キアリ」と呼ばれる地味来有が顔を出した。アキの隣で撮影機材を抱え、いつもは控えめにしている学生だ。
「アキ先輩、昨日の映像……編集したんですけど」
「見せて」
小さなノートパソコンの画面に、昨日の騒動が映し出された。
まっするが叫ぶ。
牛が鳴く。
御坊が噛む。
莉央が怒る。
そして、画面の隅には、副学長の頭頂部がまぶしく光っていた。
「ちょっと、これ!」
莉央が身を乗り出す。
「何でぼくがずっと怒ってるところばっかりなの!」
キアリは小さな声で答えた。
「……ほかの場面でも、怒ってたので」
「そんなに!?」
アキは感動したように頷いた。
「素晴らしい。主人公の感情が一貫している」
「映画にしないで!」
キアリは少し迷ってから、別の映像を開いた。
「でも、ここ……ちょっと気になって」
画面には、昨日の退去通知を掲げる副学長と、その背後で書類を抱えた職員が映っていた。
職員の手元に、別の紙が一瞬だけ見える。
建物の図面らしい。
「この紙、昨日の朝から持ってたみたいなんです。退去が決まったのは昨日だって言ってたのに」
千堂が画面を覗き込んだ。
「……拡大できるか?」
「画質が足りません。でも、元データは残してあります」
「そうか。消さないでくれ」
アキが嬉しそうに笑った。
「ほら、記録映画には意味があるだろ?」
莉央は渋々頷いた。
「……ぼくの怒ってる顔は減らしてね」
「そこは作品の核だから」
「減らして!」
* * *
午後一時 昼食を賭けた仁義なき戦い
旧校舎の前に、段ボール箱が届いた。
差出人は、雨宮すみれ(あまみや すみれ)。
箱の中には、おにぎりと温かいお茶が人数分入っていた。
「すみれさんだ!」
莉央は思わず笑顔になった。
箱には小さなメモが添えられている。
『お昼はちゃんと食べること。ゴミは持ち帰ること。牛さんの分は入っていません♡』
「牛の分も欲しかったべ……」
「人間用のおにぎり食べさせないで!」
牛男は真面目な顔で頷いた。
「それはそうだべ」
まっするが箱を覗いた。
「具は?」
「鮭、梅、昆布……」
「鮭!」
まっするの目が光った。
「良質なタンパク質!」
仁藤均。筋力トレーニング研究会のもう一人の部員が、横からまっするの肩を押さえた。
「先輩、一人一個です」
「鮭を二つ食べれば、筋肉が二倍に――」
「なりません」
「三つなら?」
「なりません」
「では四つ!」
「話を聞いてください!」
そのやり取りを見て、剛田が笑った。
「いいじゃねえか。オレ様の分の鮭、やるよ」
「剛田さん、いいの!?」
「腹は減ってねえからな」
剛田はそう言って、さりげなく梅のおにぎりを手に取った。
三重様が横目で見た。
「朝から何も召し上がっていないでしょうに」
「……何の話だ?」
「別に」
三重様はそれ以上、何も言わなかった。
御坊は莉央の隣に座ろうとして、三度場所を変えた末に、結局少し離れた椅子へ腰掛けた。
「御坊くん、こっち空いてるよ?」
「はひっ!」
御坊の手から、おにぎりが滑り落ちた。
剛田が空中で受け止める。
「おっと」
「お、お見事です!」
「お前、落ち着けよ」
部室に笑い声が広がった。
莉央は、おにぎりを一口食べた。
昨日より、少しだけ楽しかった。
大騒ぎで、何も決まらなくて、問題は山積みのまま。
それでも、昨日までろくに話したことのなかった相手と、同じ机で昼食を食べている。
こんな時間が、ずっと続けばいいのに。
ふと、そう思った。
* * *
午後三時十分 副学長の切り札
その頃、副学長室では、副学長が机を指で叩いていた。
「学長は何を考えている……!」
昨夜の荷物搬出は、施設管理上の確認が必要だという理由で見送られた。
正式な手続きが整うまでは、勝手に学生の私物を処分できない。
それは理解できる。
だが、誰がそこまで細かく手続きを調べたのか。
副学長には心当たりがあった。
「ほっほほ、などと笑っておる場合ではないだろうに……」
机の上のスマートフォンが震えた。
画面には、和色建設の名が表示されている。
副学長は、少し間を置いて電話に出た。
「……ああ、私だ」
『例の件、予定どおり進んでいるんでしょうな?』
低い声が聞こえた。
「もちろんだ。学生が少し騒いでいるだけだ」
『少し? 牛が立てこもっていると聞きましたが』
「牛は関係ない!」
『……そうですか』
副学長は額の汗を拭った。
「心配するな。期限までには片づける」
電話が切れた。
副学長は窓の外を見た。
旧校舎の前で、学生たちが何やら楽しそうに笑っている。
「……遊びではないのだぞ、これは」
その呟きを聞く者はいなかった。
* * *
午後四時四十五分 帰るための作戦会議
「それでは、本日の反省会を始めます」
さとみが言った。
「今日の成果は?」
莉央は黒板を見た。
一、建物を壊さない。
二、話し合う。
三、牛を増やさない。
四、午後五時には帰宅する。
「……牛が増えなかった」
「成果だべ!」
「成果かなぁ……」
ほのが手を挙げた。
「べこの飼育記録は整理できました。明日から旧校舎に連れてくる必要もありません」
「えっ、来ないの?」
莉央は思わず聞き返した。
「はい。動物に負担をかけるのはよくないので。会いたい人は、実習区画に来てください」
牛男は少し寂しそうだった。
「べこも立てこもり仲間だべ……」
ヘルシーが笑った。
「仲間なら、健康を守ってあげましょうね」
「……そうだべな」
まっするが残念そうに呟く。
「牛がいないと、筋肉の話し相手が……」
「人間と話して!」
仁藤が即座に突っ込んだ。
千堂は、机に広げた図面を畳んだ。
「俺は明日、旧校舎の補修履歴を調べてみる。大学側の説明と合っているか確認したい」
「分かった。無理しないでね」
「手抜きは爆発だぁああ!!」
「その言い方は無理してるよ!」
アキがカメラを止めた。
「本日の撮影終了」
キアリが小さく拍手した。
「お疲れさまでした」
「ぼくは一度も出演を許可してないけどね!」
莉央が言うと、部屋が笑いに包まれた。
時計の針が、午後五時に近づいていく。
* * *
午後五時 今日も無事に終業です
「それじゃ、また明日!」
莉央が手を振った。
学生たちが旧校舎から出ていく。
まっするは最後まで筋肉を伸ばし、ラブは紙袋を抱え直し、ロワは夕陽を背に謎のポーズを取った。
「混沌の継承者に、定時など――」
「早く帰るよ!」
「……承知した」
旧校舎前には、三重様と御坊が立っていた。
「明日も来るんですの?」
三重様が訊いた。
「もちろん!」
莉央は笑った。
「部室がなくなる話、まだ終わってないもん」
御坊は何か言いかけた。
「ぼ……僕は……」
「ん?」
「い、いえ! お気をつけて!」
「うん、御坊くんもね!」
莉央が去る。
御坊は、その背中を見送った。
三重様が鉄扇をぱちんと閉じる。
「言いたいことがあるなら、はっきり仰いなさい」
「……まだ、何も決めていませんから」
「そうですわね」
三重様も、旧校舎を見上げた。
「わたくしたちも、何が正しいのか、確かめなくてはなりませんわ」
剛田が二人の肩を軽く叩いた。
「難しい顔すんなよ。明日も面白くなりそうじゃねえか」
「あなたは少し難しく考えなさい!」
夕暮れの道に、三人の声が響いた。
* * *
午後五時二十分 すみれさんの忘れ物
すみれは、旧校舎の扉に鍵が掛かっているのを確かめた。
昼間の騒ぎが嘘のように、廊下は静かだった。
「今日も、ちゃんと帰ったのね」
手にした袋の中には、空になったおにぎりの容器と、学生たちからの小さなメモが入っている。
『すみれさん、お昼ごはんありがとう! 莉央』
すみれは微笑んだ。
「こちらこそ。ごちそうさまって言ってくれて、ありがとう」
背後から、聞き慣れた笑い声がした。
「ほっほほ。二日目も賑やかじゃったのぉ」
「御来光」の通称を持つ照日富士夫学長だった。
「ええ。今日は牛さんの勤務管理まで始まったみたいですよ」
「ほっほほ。勤勉な牛じゃ」
「でも、学生たちも少しずつ考え始めています」
学長は頷いた。
「それでよい。あの子らが自分で考え、自分で決めることに意味がある」
すみれは、廊下の奥を見た。
「副学長先生は、また動きますよ」
「そうじゃろうなぁ」
「今夜も、こちらで確認しておきますね」
「頼むのぉ」
学長は穏やかに笑った。
すみれは扉の鍵を確かめ、外へ出た。
その足取りは軽い。
けれど、校門へ向かう途中でスマートフォンが震えると、彼女の表情がほんの少し変わった。
画面に表示されたのは、短い一言だった。
『例の建設会社、動きがあった』
差出人の名前は、読者にはまだ明かされない。
すみれは返信を打った。
『ありがとう、お兄ちゃん。無理はしないでね』
そして、何事もなかったようにスマートフォンをしまう。
「あらあら。明日はもっと忙しくなりそうね」
旧校舎の窓には、夕陽の最後の光が残っていた。
その建物が三十日後にどうなっているのか。
まだ、誰も知らない。
* * *
DAY2 おわり
次回 DAY3へ続く




