DAY10 地味な男たちの、派手すぎる一日。
一 いつもどおりの朝
温泉旅行から帰った、その翌朝。
国立天晴大学の旧校舎は、九時ちょうどから騒がしかった。
「ベコぉ! 昨日はご苦労だったべ!」
「モォォォ」
「アグーも立派だったべ!」
「ブヒッ」
熊田牛男先輩が二頭を抱きしめようとして、体の大きさの都合でベコに押し返されていた。
「……留守番の表彰式って、毎日やるものなの?」
ぼくこと神谷莉央が聞くと、夜乃さとみ(よの さとみ)は真顔でうなずいた。
「昨日の功労者だもん。勲章くらい必要だよ」
「牛の勲章って何?」
「牧草の輪っか?」
案内ロボ改が廊下を横切る。
『昨日の防衛成績を報告します。侵入者一名、退去。牛一頭、豚一頭、無事。本機、転倒一回』
「最後のは反省点だろ」
千堂俊雄先輩が車輪を覗き込む。
『改善案を提出します。転倒しない床を設置してください』
「お前の重心を直せ!」
ハジメこと理科野発先輩が、嬉しそうに笑った。
「でゅふふ……ロボが床に改善を要求する時代なのである」
「お前も喜んでないで設計を見直せぇ!」
部室の隅では、アキこと白澤秋先輩が撮影機材のケースを並べていた。
その隣では、キアリと呼ばれる地味来有先輩が機材を確認している。
「キアリ、今日の素材、編集できそう?」
「……うん。午前中に整理する」
映像制作研究会の、眼鏡をかけた物静かな先輩だ。ぼくが知る限り、誰よりも目立たず、誰よりも淡々と仕事をする。
温泉でまっすること田中真摺先輩のポーズを一瞬で再現したり、滑りかけたチャラ男こと藤澤千荒先輩を妙に鮮やかに支えたりしたことは、ちょっと意外だったけれど。
「キアリ、三脚の予備を倉庫に戻してくれる?」
「……わかった」
先輩は頑丈な撮影機材ケースを片手で持ち上げた。
「……え、それ重くない?」
「……慣れてるから」
それだけ言って、廊下へ消えた。
ぼくたちはそのとき、誰も知らなかった。
今日一日、旧校舎で一番忙しくなるのは、案内ロボでも、まっする先輩でもない。
たぶん、一番地味なあの人なのだ。
二 学生自治会執行部長の机
同じころ、新校舎の学生自治会室。
学生自治会執行部長の御坊千也真の机には、書類が山になっていた。
書類の分類は三つある。
「予算」。
「設備」。
「至急」。
そしてなぜか、「至急」だけが二つあった。
「……ど、どうして至急が二つに」
「昨日までの至急と、本日の至急ですわ」
三重様と呼ばれる副会長、三重晴美が鉄扇を閉じる。
「分けておかなければ、どちらがより至急かわかりませんもの」
「至急に序列をつけるなぁ!」
書記の剛田つよし(ごうだ つよし)が腕を組んだ。
「心の友よ! 全部まとめてオレ様が片づけてやる!」
「……剛田くん、書類を物理的に片づけるのはだめだよ」
「わかってる! 棚にしまうんだろ!」
「もっとだめだよ!」
今日は各部の要望を聞く定例会議。旧校舎の十七人とは関係のない、大学中の部活動と一般学生が相手だ。
御坊は一枚目の議事進行表を手に取った。
「……では、始めようか」
声は小さい。でも、三重様がうなずき、剛田が扉を開けた。
廊下には、すでに十人以上が並んでいた。
「……多くない?」
「先月より少ないですわ」
「先月は何人だったの?」
「二十七人」
「……よ、よし。今日は頑張ろう」
三 予算は増やして、石は拾って
最初に入ってきたのは、陸上競技部の部長だった。
「トラックの外側に小石が散らばってるんです。走ってると危ないんですよ」
御坊はすぐにメモを取った。
「場所は第三コーナーの外側ですね。今朝の写真はありますか?」
「あります」
「ありがとう。今日中に施設管理へ連絡します。練習前の確認も、部の皆さんにお願いできますか」
次はバスケットボール部。
「体育館のゴールネット、片方だけ短いんです」
「プレーには影響する?」
「シュートが決まったとき、片方だけ『すぽっ』ってなるんです」
「……音の問題?」
「士気の問題です!」
剛田が勢いよく立った。
「わかるぞ! 勝利の音は大切だ!」
「座りなさい」
三重様の鉄扇が机を叩いた。
続いて水泳部。
「プールの更衣室のドライヤー、三台のうち一台しか動きません」
「それは不便ですね。電気設備も含めて点検依頼を出します」
柔道部。
「畳の端が少し浮いてます」
「転倒の危険がありますね。使用場所を避けて、至急確認しましょう」
サッカー部。
「ボールが二個、用水路に落ちました」
「……回収は?」
「一個は取れました」
「もう一個は?」
「下流に旅立ちました」
剛田が目を閉じた。
「さらば、心の友よ……」
「ボールに心の友を増やさないでくださいまし」
テーブルの上には、野球部の防球ネット、剣道部の面の修繕、卓球部の台の車輪、弓道部の的場の雨漏り、バレーボール部の支柱の保護材、ダンス部の鏡の固定と、次々に申請書が積み重なっていった。
「全部予算アップじゃないか!」
剛田が叫ぶ。
「当たり前ですわ。要望を聞く会議なのですから」
「じゃあオレ様の昼飯代も!」
「却下」
「早い!」
御坊は、書類を一枚ずつ分けていた。
「……危険があるものは、予算の増減より先に点検を依頼する。消耗品は昨年度の使用実績を確認。新しい設備は、全体の予算と優先順位を見てから……」
誰もが望む答えではない。
けれど、御坊はどの申請書にも目を通した。
「すぐには決められません。でも、返事をしないままにはしません」
柔道部長が、少し意外そうに笑った。
「……それだけでも助かります」
四 音楽はどこからともなく
午前十一時。旧校舎の裏手。
キアリは、撮影機材ケースを倉庫へ運ぶ途中で足を止めた。
塀の向こうに、見慣れない男が三人。
一人は図面らしい紙を持ち、一人は裏口を覗き、もう一人はスマートフォンで何かを撮っている。
「……あの」
三人が振り向いた。
「ここ、学生の活動場所なので。何か用ですか」
「お前に関係ねえだろ」
「……そうですか」
キアリは、あっさり引き返そうとした。
「おい、待て。さっきから見てただろ」
「……見えたので」
「なめてんのか?」
男の一人がキアリの眼鏡を指で弾いた。
かつん。
眼鏡が地面に落ちる。
「……あ」
キアリがゆっくり顔を上げた。
ちょうどそのとき。
遠くの音楽棟から、吹奏楽部の練習が聞こえてきた。
♪ パッパラパッパー! パララララ〜!
キアリの口角が、にゅうっと持ち上がった。
「おやおやおやぁぁぁ?」
「……は?」
「これはこれは! お客様ぁぁ! 本日はぁ! 旧校舎裏、特設ステージへようこそぉぉ!」
両手を広げて一回転。
右足を滑らせ、左足でぴたりと止まる。眉が片方だけ跳ね上がり、口元が三日月のように曲がった。
「……なんだこいつ」
「本日の演目はぁ! 『お帰りはあちらです』! 主演、地味キャリーでぇぇす!」
♪ パパパパーン!
男が殴りかかった。
キアリはひょいっと上半身を傾ける。拳は空を切った。
「おぉっと! 今のは元気なご挨拶!」
「この! ちょこまかと! 動くんじゃねえ!」
ぴたっ。
「じゃ、止まる!」
キアリは直立不動になった。
「……は?」
「どぉ〜ぞっ!」
男が拳を振り上げる。
キアリは足元の頑丈な撮影機材ケースを、ひょいっと顔の前へ掲げた。
ゴッ!
「いったぁぁぁぁ!!」
男が拳を押さえて跳ねた。
キアリは涼しい顔。
「……止まってたよ?」
「箱は動かしただろうが!」
「あっ! ほんとだぁ!」
ケースを丁寧に床へ戻す。
「ごめんねぇ! じゃ、もう一回!」
「もうやらねえよ!」
♪ プワァァァン!
トロンボーンが、実に気の抜けた音を響かせた。
五 文化系も、世界は広い
学生自治会室では、文化系の部が始まっていた。
吹奏楽部長が頭を下げる。
「楽器の修理費を少し増やしてほしいんです。それと、音楽棟の窓の防音が弱くて、練習が外まで聞こえるって苦情が」
「練習そのものをやめてもらうわけにはいきませんね」
御坊が言う。
「設備を確認します。時間帯についても、近くの教室の利用状況を調べてみます」
「助かります!」
そのころ旧校舎裏では。
♪ パッパラパッパー!
「逃げるな、この野郎!」
「逃げてないよぉ! 踊ってるのぉ!」
キアリが両足を交差させ、相手の突進をすれすれでかわした。
男は自分の勢いで植え込みへ尻もちをつく。
「はい! 着席ぃ!」
♪ ジャァン!
学生自治会室。
園芸部長が花壇の水栓の不具合を説明し、写真部長が暗室の換気扇の交換を求めた。
茶道部長は畳の擦り切れを、天文研究会は観測会の申請手続きを、演劇部は大道具の保管場所を相談する。
「文化祭で使う衣装を保管する場所が足りなくて……」
演劇部長が言うと、三重様は日程表を開いた。
「文化祭の使用場所は、正式な調整が始まってから決めますわ。今の段階で勝手に部屋を押さえるのはおやめなさい」
「はい……」
御坊が続けた。
「ただ、湿気で傷むものなら、当面の保管方法は相談しましょう。倉庫の空き状況を確認します」
演劇部長の表情が明るくなった。
次は将棋研究会。
「盤が一枚、傾いてます」
「脚の調整でしょうか」
「いえ、対局者の気持ちが傾くんです」
「……それは、自治会で直せるかな」
剛田が勢いよく挙手した。
「オレ様が心を鍛えてやる!」
「あなたの心を先に整えなさい!」
三重様の鉄扇が開いた。
御坊は小さく笑い、また次の書類を取った。
六 三千円の大富豪
旧校舎裏。
二人目の男が足を踏み出した瞬間、ポケットから財布が落ちた。
「おっとぉぉ! お財布、落としてますよぉぉ!」
キアリは素早く拾い上げ、なぜか中を開いた。
「おい! 勝手に見るな!」
「えっとぉ……千円札が、い〜ち、に〜い、さぁ〜ん……」
キアリが止まった。
「……三千円?」
「だから何だよ!」
キアリの下唇がぷるぷると震える。
「どぉぉんまぁぁいぃぃ!!」
「何がだよ!」
「大の大人がぁ! 三千円しかなくったってぇ! 悲しまなぁぁいでぇぇ!」
「悲しんでねえよ!」
キアリは男と肩を組み、目尻を押さえて泣き始めた。
「ここまで、よく頑張ったねぇぇ……!」
「だから何の話だよ!」
財布をそっと男のポケットに戻す。
「人生、山あり谷あり……。あっ!」
キアリは、いま戻した財布をもう一度取り出した。
「これ、少ないけど取っといて!」
千円札を一枚、男の手に握らせる。
「…………」
「温かいものでも食べてねぇぇ!」
「それ俺の千円だろぉぉぉ!」
「えっ!? じゃあ残りの二千円は誰の!?」
「全部俺のだよ!」
キアリは目を丸くした。
そして、ぱっと顔を輝かせる。
「あっ! じゃ、一発千円で!」
「……はっ?」
♪ パッ!
スパァン!
キアリの足が、男の股間を鋭く蹴り上げた。
「――――ッッッ!!」
男は声にならない悲鳴を上げてしゃがみ込む。
するとキアリも、自分の股間を両手で押さえた。
つま先立ちでぴょんぴょん跳ね、顔をこれでもかというほど歪める。
「おぉぅううう……! い・た・そ・う〜〜〜!」
「お、お前が……蹴ったんだろ……!」
「わかるぅぅ! 男の子だもんねぇぇ!」
「わかってんなら蹴るなぁぁ!」
キアリは男の手の千円札を見つめた。
「……あれ? 今ので一発分、使っちゃった?」
「使ってねえ! 返せ! 全部返せ!」
「じゃあ、お釣りはぁ……?」
「いらねえよぉぉ!」
♪ パパパパパァァン!
遠くのシンバルが、なぜか勝利を祝っていた。
七 牛の声がうるさいんです
昼前。自治会室の空気が少し変わった。
一般学生の代表が、遠慮がちに手を挙げた。
「あの……旧校舎の方なんですけど」
御坊のペンが、一瞬だけ止まる。
「……はい」
「最近、牛の鳴き声が聞こえるんです。授業中にも」
別の学生が続けた。
「豚もいるって聞きました。衛生面は大丈夫なんですか?」
「それに、廊下から変な音楽が流れてきたり……」
三重様が眉を寄せる。
「それは、放置できない問題ですわね」
剛田が立ち上がりかけた。
「心の友たちは――」
御坊がそっと手を上げた。
「……剛田くん。まず、最後まで聞こう」
剛田は口を閉じた。
御坊は、相談に来た学生たちへ向き直る。
「授業の妨げになった時間と教室、わかる範囲で教えてください。衛生面も、飼育の管理状況を確認します」
「……撤去させるんですか?」
学生の一人が尋ねた。
御坊は少し考えてから答えた。
「苦情があるから、すぐに誰かを追い出す、という決め方はしません。逆に、活動している側の事情だけで、困っている人に我慢をお願いすることもしません」
机の上に、二つのメモを並べる。
「音の届く範囲と時間を確認して、できる対策を考えます。安全と衛生は、必要なら大学の担当部署にも確認します」
「……ちゃんと調べてくれるんですね」
「はい。大学は、いろんな人が使う場所なので」
御坊は少し照れくさそうに笑った。
相談者が出ていくと、剛田が机に両手をついた。
「お前、あいつらを守ったんだな!」
「……守ったというより、まだ何も決めてないだけだよ」
「それが大事なんだろ!」
三重様が静かに鉄扇を閉じた。
「ええ。苦情は記録する。でも、確認前に処分を決めない。それが筋ですわ」
御坊は、旧校舎の文字を見つめた。
「……あそこにいる人たちも、相談に来た人たちも、同じ大学の学生だから」
誰も、すぐには茶化さなかった。
ただ剛田だけが、こっそり鼻をすすった。
「心の友よぉ……!」
「……剛田くん、泣くところじゃないよ」
八 アンコールはお断り
旧校舎裏では、最後の一人がようやく状況を理解し始めていた。
目の前の眼鏡のない男は、さっきまでの物静かな学生とはまるで別人だ。
顔をぐにゃぐにゃ動かし、歌い、踊り、しかも近づこうとすると必ず自分の方が転ぶ。
「……お前、何者なんだよ!」
キアリは胸に手を当てた。
「えっ? ぼくぅ?」
急に横顔を作り、空を見上げる。
「ただのぉ……通りすがりのぉ……」
♪ パララララ〜!
「映画を愛する男さぁぁ!」
「答えになってねえ!」
男が腕を伸ばした。
キアリは、撮影用の折りたたみレフ板をぱっと広げる。
男は反射した自分の顔にびくっとした。
「うわっ!」
「おぉぉ! 主演俳優さん、いい表情ぉ!」
「俺だよ!」
「自分と向き合う勇気! すばらしぃぃ!」
キアリは拍手した。
男は顔を真っ赤にして、今度こそ掴みかかる。
キアリは体を半歩ずらし、相手の腕を受け流して、その勢いのまま芝生へころんと転がした。
受け身の取れる方向へ導く動きは、驚くほど正確だった。
「はい、カットぉ!」
「……なんで俺が、撮影されてるみたいになってんだ……」
男は立ち上がろうとしたが、もう気力がなかった。
キアリが差し出した手を、反射的に取ってしまう。
「お疲れさまでしたぁ! 今日の演技、熱量だけなら百点!」
「……お前に褒められてもうれしくねえ」
「じゃあ、花束の代わりに!」
キアリは足元のタンポポを一本差し出した。
「いらねえ!」
男たちは図面を拾い集め、足早に塀の向こうへ去っていった。
「もう来ねえ! 二度と来ねえ!」
「またのお越しをぉぉ! ……いや、来ないでねぇぇ!」
♪ パパパパパァァン!
キアリは深々と一礼した。
そして、地面に落ちていた眼鏡を拾い、レンズの土を拭いた。
かちゃり。
「……あ。ケース、戻さなきゃ」
背筋が少し丸まり、表情が静かになる。
音楽棟の演奏は、まだ続いていた。
キアリは、誰にも見られないまま倉庫へ向かった。
九 十七時の報告書
学生自治会の定例会議が終わったのは、夕方近くだった。
予算の申請は増えた。修繕の依頼も増えた。未解決の案件も、山ほど残った。
「……結局、何も終わってない気がする」
御坊がつぶやく。
三重様が議事録を整えた。
「いいえ。優先順位は決まりましたわ。危険箇所は今日中に連絡、予算案件は次回の審査、回答期限も記録済みです」
剛田が胸を張った。
「そしてオレ様は全員の話を聞いた!」
「途中で三回寝てましたわ」
「目を閉じて心で聞いてたんだ!」
「いびきまで心でかくのね」
御坊が笑った。
「……二人とも、ありがとう」
三重様は顔をそむける。
「当然の仕事ですわ」
剛田は御坊の肩を抱いた。
「心の友よ! お前が執行部長でよかったぜ!」
「く、苦しいよ、剛田くん!」
そのとき、廊下から吹奏楽部の部長が顔を出した。
「さっきはありがとうございました! 練習室の件、よろしくお願いします!」
「はい。連絡します」
「それと……今日の演奏、妙にノリがよかったんです。なんか、どこかで誰かが踊ってたような気がして」
「……え?」
「気のせいですよね。では!」
部長は走っていった。
御坊たちは顔を見合わせた。
「……音楽って、不思議だね」
「大学は不思議なことだらけですわ」
剛田がうなずく。
「オレ様の心の友も増える一方だ!」
「それはあなたの問題ですわ」
同じころ、旧校舎。
午後五時。立てこもりの終了時刻。
「今日も平和だったねえ」
ぼくが伸びをすると、さとみがうなずいた。
「温泉から戻った次の日だもん。これくらい静かな日がいいよ」
まっする先輩が筋肉を鳴らし、牛男先輩がベコの餌箱を片づけ、ハジメ先輩のロボはなぜか自分の車輪に電話をかけていた。
アキ先輩が倉庫から戻ってきたキアリ先輩を見つける。
「キアリ、遅かったね。機材は?」
「……戻したよ」
「何かあった?」
「……ちょっと、人がいた」
「撮影の邪魔になった?」
「……うん。でも、もう大丈夫」
先輩の眼鏡のつるには、ほんの少し土がついていた。
「キアリ先輩、温泉のときも思ったけど、運動神経いいですよね」
ぼくが言うと、先輩は小さく首をかしげた。
「……そうかな」
「まっする先輩のポーズも、すごかったし」
「……昔、少しだけ」
それ以上は何も言わなかった。
ぼくは、そういう人なんだと思った。
午後五時十分。
誰もいなくなった旧校舎裏には、タンポポが一本落ちていた。
遠くの音楽棟から、最後のトランペットが一音だけ聞こえる。
♪ パァン。
旧校舎を守ったのは、会議室で苦情を受け止めた男と、誰にも知られず裏手で踊った男。
二人は、互いの今日を知らない。
そして、キアリ先輩以外のぼくたち十六人も知らない。
地味な一日は、こうして何事もなかったように終わった。
――DAY10 完――




