↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/11

DAY9 迷探偵益子と、温泉旅館連続殺人事件!?

一 筋肉痛には温泉が効く、らしい


 朝九時。国立天晴大学、旧校舎。


「……階段が敵に見える」


 ぼくこと神谷莉央(かみや りお)は、一段目に足を掛けたところで立ち止まった。


 昨日のフットサル大会。あれは楽しかった。楽しかったのだけれど、太ももが今、明確な敵意を示している。


 夜乃さとみ(よの さとみ)が、ぼくの足元を見た。


「莉央、歩き方がおばあちゃんみたい」

「さとみだって、さっき椅子に座るとき『よっこいしょ』って言ったじゃん」

「言ってない。『よっ……』まで」

「言いかけてるよ」


 廊下の向こうではラブと呼ばれる込家羅武(こみけ らぶ)先輩が壁を伝いながら歩いていた。


「デュフフ……昨日の試合、拙者の脚に深刻な作画崩壊をもたらしたでござる」

「それ、筋肉痛です」


 唯一、まっすること田中真摺(たなか まっする)先輩だけは絶好調だった。


「筋肉痛とは成長の証! 諸君、今日も鍛えよう!」

「お前は昨日、天井に向かってボール蹴っただけだろ」


 仁藤均(にとう ひとし)先輩の冷静な指摘が、今日も旧校舎の空気を正常に保っている。


 そこへチャラ男こと藤澤千荒(ふじさわ ちあら)先輩が、紙を一枚ひらひらさせて現れた。


「みんなに朗報。今夜、温泉行かない?」


 全員の動きが止まった。


「温泉!」


 さとみが飛びつく。ラブ先輩が復活する。ロワと呼ばれる狼羽いやる(ろわ いやる)先輩が窓の外を見て意味ありげに笑う。


「ふっ……湯煙の向こうに、封じられし何かが待っている気がする」

「ただのお風呂であってほしいです」


 チャラ男先輩によると、知り合いの紹介で、山あいの小さな旅館が団体客向けの空きを出しているらしい。大学からバスで一時間ほど。夕食と朝食つき。学生でも手が届く料金だ。


「ただし条件があるんだって」

「条件?」

「『ほかのお客様にご迷惑をおかけしない方』」


 沈黙。


 全員が、全員の顔を見た。


「……無理じゃね?」


 千堂俊雄(せんどう ただお)先輩が言った。


「無理じゃないですわ!」


 三重様と呼ばれる副会長、三重晴美(みえ はるみ)がいつの間にか現れ、鉄扇をぱちんと閉じる。


「わたくしが礼儀作法を徹底指導いたします。廊下は走らない! 食事中に叫ばない! 温泉で妙な技名を叫ばない!」

「ポメラニアンショットも駄目か?」

「当然ですわ!」


 まっする先輩は少し残念そうだった。


 問題は旧校舎の座り込みだ。毎日九時から十七時まで、十の部が交代で建物を守ると決めている。旅行だからといって、そこを放り出すわけにはいかない。


 煎論益子(いろん ますこ)先輩が手帳を開いた。


「十七時までは通常どおり。移動はそのあとです。明朝九時から十七時までの代打は、案内ロボ改、ベコ、アグー豚。私たちは午前中に戻り、帰還後は三者と一緒に当番を続けます」

「誰も人間じゃないよ!?」

「人件費はゼロです」

「リスク管理の、リスクの方しか見えないんだけど!」


 学長の許可まで取ってあるらしい。どこから説得したのか、そこが一番知りたかった。


「投資において重要なのは、事前のリスク管理です」


 その言葉を、ぼくたちはもっと重く受け止めるべきだった。


 少なくとも、益子先輩本人は。


二 湯けむりと、二十人の団体様


 午後六時四十分。


 山の斜面に建つ旅館『湯ノ森荘』の前に、ぼくたちは到着した。


 旧校舎組十七人に、自治会の三人。合計二十人。


「引率の方は?」


 玄関で尋ねられ、三重様が鉄扇を上げた。


「わたくしですわ」

「同じ学生だよね?」

「気持ちの問題ですわ!」


 木造二階建て。磨かれた廊下。玄関に漂う畳とお香の匂い。外には小さな川が流れ、遠くで虫が鳴いている。


「わあ……いいところ」


 ほのちゃんこと稲森穂乃(いなもり ほの)が目を細める。


 熊田牛男(くまだ うしお)先輩も、満足そうに辺りを見回した。


「牛も喜びそうだべ」

「牛男先輩、ベコは連れてきてないですよね?」

「旅館に牛は泊めらんねえって言われただ」

「問い合わせたんだ……」


 女将さんは柔らかな笑顔で迎えてくれた。


「皆さん、ようこそ。お食事は七時半からです。お風呂は夜十一時まで、翌朝は六時から。どうぞごゆっくり」


「はい! 静かにします!」


 全員で返事をした瞬間、声が玄関に反響した。


 女将さんの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


 夕食は大広間だった。湯気の立つ鍋、山菜、焼き魚。ヘルシーと呼ばれる優居減子(やさい へるし)先輩は献立の栄養バランスに感動し、ほのちゃんは一品ごとに「おいしい」と呟き、牛男先輩は山菜を見て「ベコにも食わせてえ」と涙ぐんでいる。


「それ、牛の餌じゃないからね」


 ぼくが言うと、牛男先輩は真剣に首を振った。


「ベコは家族だべ」

「そこは否定してません」


 ラブ先輩は旅館の浴衣を広げて感極まっていた。


「デュフフ……浴衣イベント……旅館……卓球……! これは間違いなく神回でござる!」

「まだお風呂にも入ってないですよ」


 映像制作研究会のアキこと白澤秋(しろさわ あき)先輩が小型カメラを構える。


「記録映画『旧校舎の休日』。撮影開始」

「先輩、今日は休んだら?」

「休んでる人間を撮るのが一番面白いんだよ」


 キアリと呼ばれる地味来有(じみ きあり)先輩がため息をつく。


「他のお客さんは映さないでくださいね。あと旅館の許可を取った場所だけ」

「分かってる」


 隅ではハジメこと理科野発(りかの はじめ)先輩が、大学に置いてきた案内ロボ改の遠隔操作端末を荷物から取り出そうとしていた。


「でゅふふ……大学の案内ロボ改にも、温泉旅行を疑似体験させるのである!」

「留守番に仕事を増やすな」


 千堂先輩が即答した。


「まだ電源も入れてないのである!」

「前回は電源入れたら電話かけ始めたろ」

「それは緊急時の救援機能である」

「留守番が、旅行中の製作者に救援要請する意味を考えろ」


 ぼくは笑いすぎて、お茶をこぼしそうになった。


 そのとき、益子先輩が卓上の料金表を見つめて呟いた。


「……妙ですね」

「何がです?」

「この値段でこの料理。旅館側の利益率が気になります」

「温泉に来てまで損益計算しないでください」


 まだ、そのときは誰も知らなかった。


 この夜、益子先輩の計算が、まったく役に立たなくなることを。


三 第一の事件――宴会場の赤い惨劇


 午後八時四十二分。


 食後の自由時間。ぼくたちは旅館の娯楽室で卓球をしていた。


 チャラ男先輩のスマッシュは妙に格好よく、ロワ先輩はラケットを持つたびに必殺技の詠唱を始め、ラブ先輩は空振りするたび「ラグでござる!」と叫んだ。


 まっする先輩は「ちょっと筋肉を整えてくる」と言って、先に宴会場へ戻っていた。


 そして。


 ガッシャアアアン!


 廊下の向こうで、何かが派手に壊れる音がした。


「……今の、何?」


 仁藤先輩が真っ先に走り出す。ぼくたちもあとを追った。


 宴会場の襖を開けた瞬間、足が止まった。


 まっする先輩が、畳の上に倒れていた。


 傍らには、脚の折れた椅子。


 床には赤い液体が広がっている。


 そして、倒れた椅子の近くに、細長い擦れ跡が一本。


「まっする先輩!?」


 仁藤先輩が駆け寄り、肩に触れた。


「おい、まっする! 聞こえるか!」


 返事がない。


 旅館の従業員がすぐに呼ばれた。呼吸を確かめ、救急相談と医療機関への連絡が行われる。ぼくたちは邪魔にならないよう壁際に下がった。


「……大丈夫、だよね?」


 さとみの声が小さい。


 ぼくも頷こうとして、うまくできなかった。


 そこへ益子先輩が現れた。


 眼鏡を押し上げる。


 赤い床を見る。


 壊れた椅子を見る。


 そして、ひどく低い声で言った。


「……皆さん。現場には触れないでください」

「もう旅館の人が救護してますよ」

「これは……事件です」

「事故かもしれないでしょ」

「赤い液体。破損した家具。意識のない被害者。これだけの条件が揃えば――」


 益子先輩は一拍置いた。


「殺人事件です!」


「死んでないからぁぁぁ!」


 ぼくの声が、旅館中に響いた。


 三重様が鉄扇を構える。


「莉央さん! 静かに!」

「言わせたの益子先輩です!」


 千堂先輩は椅子をじっと見ていた。


「……座面の下から割れてるな」

「千堂さん、何か?」


 益子先輩が鋭く振り向く。


「いや。壊れ方を見てただけだ」

「重要な証拠です。記録しておきましょう」


 益子先輩は手帳を取り出した。


 そこには大きな文字で、こう書かれた。


『第一の事件 被害者・田中真摺』


 ぼくは嫌な予感がした。


 ものすごく、嫌な予感が。


四 迷探偵、誕生


 まっする先輩は医療機関で診てもらうことになり、仁藤先輩が付き添った。幸い、搬送時には反応が戻り始めていたと聞いて、みんなようやく少し息をついた。


 その間、益子先輩は宴会場の隅にホワイトボードを立てていた。


 どこから借りたのかは知らない。


「事件の鍵は動機です」


 益子先輩は、堂々と言った。


「犯罪にはリスクがあります。人は利益が見込めない行動を取りません。つまり犯人には、まっするさんを排除する経済的合理性があったはずです」


「なんでいきなり経済の話になるんですか?」


「例えば、筋肉の市場占有率を奪いたい人物……」

「そんな市場ないよ!」


 ラブ先輩が目を輝かせた。


「デュフフ! 孤立した山荘、赤い液体、謎の凶器! 王道でござる!」

「山荘じゃなくて旅館です」


 ロワ先輩は腕を組み、低い声で言った。


「見える……。闇の組織が、ついに俺たちを追ってきたか」

「昨日はサッカーの闇の組織と戦ってませんでした?」

「組織は多い」

「便利な世界観ですね」


 千堂先輩が壁に寄りかかる。


「そもそも、椅子が壊れた理由から調べたらどうだ?」

「それは解決編で明らかにします」

「解決編って何だよ」


 益子先輩は眼鏡を光らせた。


「私が必ず、真相を暴いてみせます」


 ぼくは思った。


 この人、もう誰にも止められない。


五 第二の事件――深夜零時の厨房


 午後十一時を回るころ、ぼくたちは各部屋に戻った。


 まっする先輩は大事には至らず、経過を見て休むよう言われたらしい。仁藤先輩からの連絡で、ひとまず安心した。


 さとみは布団に入るなり眠ってしまった。


 ぼくも目を閉じた。


 ……のだけれど。


 午前零時十三分。


 旅館の奥から、ひときわ大きな音が響いた。


 ガラガラッ、ゴンッ!


 続いて、何かが床に落ちる鈍い音。


 廊下に足音が集まる。


「今度は何ですの!?」


 三重様の声。


 旅館の従業員が厨房の扉を開ける。


 そこにいたのは――。


 床に倒れた、ぼくだった。


 頭の近くにはフライパン。


 床には割れた卵。


 ぼくの服と床には、赤い液体が派手に飛び散っていた。


「莉央!?」


 さとみが青ざめて駆け寄ろうとする。


「莉央さん! り、り、莉央さんっ!」


 学生自治会執行部長の御坊千也真(おぼう ちやま)先輩の声が裏返った。


 ぼくは返事をしなかった。


 できなかった。


 旅館の人が救護に入り、意識と呼吸を確認して、すぐに医療機関へ相談する。転倒して頭を打った可能性があるため、むやみに動かさないよう指示が飛ぶ。


 その場に立ち尽くしていた益子先輩が、ゆっくり眼鏡を押し上げた。


「……第二の事件」


 千堂先輩が床を見た。


「卵が割れてる。フライパンは棚の真下か……」


「千堂さん」

「何だ」

「犯人は、同じ手口を使っています」

「同じ手口?」

「赤い液体と、鈍器。これは連続殺人未遂事件です!」


 三重様が鉄扇で益子先輩の頭を軽くはたいた。


「まず莉央さんの心配をなさい!」


 その通りだと思う。


 そのときのぼくは、思うことすらできなかったけれど。


六 第三の事件――白い亡霊の密室


 夜明け前。


 莉央は医師の診察を受け、重大な異常は見つからなかったものの、安静にして経過を観察することになった。さとみと三重様が付き添っている。


 益子先輩は、寝ていなかった。


 旅館の談話室で、事件の時刻を表にまとめていた。


「第一の事件が二十時四十二分。第二が零時十三分。間隔は三時間三十一分……」


 キアリ先輩が眠そうに言った。


「たまたまじゃないですか」

「数字は嘘をつきません」

「数字は嘘つかなくても、解釈は嘘つきますよ」


 そのとき。


「開かない!」


 廊下の奥から声がした。


 ロワ先輩の部屋だ。内側から鍵が掛かっているのに、呼びかけても返事がないという。


 旅館の人が合鍵で扉を開けた。


 白い布をかぶった人影が、床に倒れていた。


「うわっ!」


 近くの鏡には、ぼんやりと白い影が映っている。


 床には濡れた足跡。窓は閉まっていた。


 布をめくると、ロワ先輩だった。


 気を失っている。


 シノブと呼ばれる影山忍(かげやま しのぶ)先輩がすぐにそばにしゃがみ、旅館の人に声を掛けた。


「……息はある。転んだみたい。診てもらおう」


 益子先輩が震える指で手帳を開く。


「第三の事件……しかも密室……!」


 千堂先輩は濡れた足跡を見た。


「……全部、同じ靴底だな」


「犯人は足跡を偽装したのです!」

「いや、まだ何も言ってねえ」


 ラブ先輩が感極まって叫んだ。


「デュフフ! 密室トリックまで実装されたでござる!」


 キアリ先輩は眉間を押さえた。


「実装とか言わないでください……」


七 第四の事件――消えたチャラ男


 朝六時二十分。


 ようやく静かになったと思ったころ、今度はチャラ男先輩の姿が見当たらなくなった。


 脱衣所にはスマホ。


 片方だけのスリッパ。


 床には二本、平行に続く筋のような跡。


「チャラ男が……消えた!?」


 書記の剛田つよし(ごうだ つよし)先輩が大げさに叫ぶ。


「心の友よ! どこへ行ったぁぁ!」

「いつから心の友になったんですか」


 御坊先輩は電話を掛けようとして、脱衣所に残されたスマホを見て固まった。


「で、電話が……ここに……」


 益子先輩はもう、完全に探偵の顔だった。


「遺留品を残し、本人だけが消失。これは……」

「旅館の人に聞いてみろよ」


 千堂先輩が言った。


「まず行き先を確認するのが先だろ」


「犯人が証拠を隠滅する前に推理しなければ!」


 益子先輩は床の二本線を指差した。


「被害者を引きずった跡です!」


「……二本とも真っすぐだぞ」

「それほど手慣れた犯人なのです!」


 千堂先輩は何も言わなかった。


 ただ、廊下の端に停めてあった荷物用の台車を一度だけ見た。


八 解決編は、朝食のあとで


 午前八時。


 旅館の宴会場に、チャラ男先輩を除く十九人が集まった。


 まっする先輩は診察を終えて戻り、頭を打ったぼくも医師の指示に従って休んだあと、付き添いと一緒に短時間だけ顔を出していた。ロワ先輩も目を覚まし、こちらを見ないようにしている。


 チャラ男先輩だけは、まだいない。


 益子先輩はホワイトボードの前に立っていた。


 第一、第二、第三、第四。


 四つの事件が、赤い線で結ばれている。


「皆さん。真相に辿り着きました」


 さとみがぼくの耳元で囁く。


「莉央、大丈夫?」

「頭はちょっと痛い。でも、益子先輩の話を聞いてる方が痛くなりそう」


 益子先輩が咳払いした。


「第一の事件。犯人は、まっするさんを背後から襲い、椅子で殴打したのです!」


「……いや」


 千堂先輩がぼそっと言った。


「たぶん、椅子に乗ったんじゃねえか?」


「……はい?」

「脚の折れ方、下に荷重が掛かった壊れ方だろ。あいつ、宴会場でポーズでも決めようとしたんじゃねえの」


 全員がまっする先輩を見た。


 まっする先輩は腕を組んだ。


「……確かに、鏡の前で背中を見せるポーズを決めようとした」


「椅子に乗って!?」


「高さが必要だった」


「必要じゃないよ!」


 ここで、ようやく事件の瞬間が語られた。


 まっする先輩は椅子に片足を乗せ、筋肉を誇示するポーズを取った。椅子の脚がぐらつき、踏ん張った瞬間に折れた。転倒した拍子にテーブルのトマトジュースが飛び、頭を打って気を失ったのだ。


 細い擦れ跡は、滑った椅子の脚が残したものだった。


「では……赤い液体は」

「トマトジュース」


 仁藤先輩が即答した。


「味見までしたのか!?」

「旅館の人が瓶を回収してた。ラベルも残ってる」


 益子先輩が固まった。


「……第一の事件は、事故?」

「最初からそう言ってんだろ」


 千堂先輩は腕を組む。


「次」


 益子先輩は慌てて二番目の写真を示した。


「第二の事件! 莉央さんは深夜の厨房に誘い出され、フライパンで襲われた!」


 千堂先輩は少し考えた。


「……たぶん、腹減ったんじゃねえか?」


「は?」

「夜中だろ。腹減って、何か作ろうとしたんだろ」


 ぼくは、そっと手を上げた。


「……オムレツ」


「え?」


「オムレツが食べたくなって……。旅館の人に夜食用に使っていい場所を聞いて、卵を持って……」


 みんなの視線がぼくに集まる。


「マットで足が滑って、棚にぶつかって……」


 その瞬間の記憶が、やっと繋がった。


 棚の上で傾くフライパン。


 頭に響いた鈍い衝撃。


 手からすっぽ抜けるケチャップ。


 そして真っ暗になった視界。


「……気づいたら病院だった」


 千堂先輩が頷いた。


「フライパンが棚の真下に落ちてた。卵も割れてた。赤いのはケチャップだな」


「で、では犯人は!?」

「いねえよ」

「動機は!?」

「空腹だろ」

「凶器は!?」

「勝手に落ちたフライパンだ」


 益子先輩は眼鏡を外した。


「そんな……そんな推理小説があってたまりますか!」


「ぼく、推理小説のためにお腹すかせたわけじゃないんだけど!」


 さとみが笑いながら、ぼくの背中をさすった。


「莉央、今度は私がオムレツ作るからね」

「……お願い」


 益子先輩は、震える手で三番目の写真を掲げた。


「しかし! 第三の事件は密室です! 白い亡霊、濡れた足跡、内側からの施錠! これは説明できないはず!」


 千堂先輩はロワ先輩を見た。


「……お前、白い布かぶって鏡見たんじゃねえの?」


 ロワ先輩がびくっとした。


「な、なぜ分かった……」


「足跡が全部お前の靴底だ。洗面所から鏡の前まで続いて、そこで急に向きが変わってた」


 シノブ先輩がぽつりと言う。


「……自分に驚いたんだね」


「違う! あれは白き異界の――」

「自分だろ」

「……自分だった」


 ロワ先輩は小さく俯いた。


 話を聞けば、深夜の怪談ごっこを一人で試そうとして、濡れた髪のまま白いシーツをかぶり、鏡に映った自分に本気で驚いたらしい。後ずさりして足を滑らせ、気絶。鍵は自分で掛けていた。


 ラブ先輩が膝を叩く。


「デュフフ! 自作自演の怪異でござる!」

「笑うな、ラブ! お前も怖がってただろ!」

「拙者は演出を評価していたのでござる!」


 益子先輩はとうとうホワイトボードにもたれた。


「ま、まだ第四の事件が……。チャラ男さんは消えたままです!」


「……ああ、それな」


 千堂先輩が旅館の従業員に目を向けた。


「朝、荷物運ぶ台車使いました?」

「ええ。お客様が脱衣所で転ばれたので、荷物を運ぶのに使いました」


 その瞬間。


「おはよー。みんな、集まって何してるの?」


 襖が開いた。


 チャラ男先輩が、爽やかな笑顔で立っていた。


「……生きてる!?」


 益子先輩が叫ぶ。


「いや、生きてるよ?」


 チャラ男先輩は不思議そうに首を傾げた。


 湯上がりに脱衣所で滑って軽く頭を打ち、旅館の人に見つけてもらった。念のため医療機関で確認してもらい、別室で休んでいたという。スマホと片方のスリッパは、慌てて置き忘れたものだった。


「床の二本線は台車の車輪跡。連れ去りじゃねえ」


 千堂先輩が結論を出す。


「……では、四件とも?」


 益子先輩が呟く。


「事故だな」


「では、犯人は……?」


「いねえ」


「では、なぜこんな短時間に四件も……?」


 千堂先輩は、宴会場に並んだ顔をゆっくり見回した。


 筋肉を見せたくて椅子に乗る人。


 夜中にオムレツを作りたくなる人。


 自分の幽霊姿に驚く人。


 脱衣所で転ぶ人。


 そして、その全員を連続殺人事件の被害者にした人。


「……お前らが落ち着きねえからだろ」


 しん、と静まり返った。


 次の瞬間、宴会場が爆笑に包まれた。


「そ、そんな結論、納得できません!」


 益子先輩だけが抗議している。


 千堂先輩は平然と答えた。


「俺は推理なんかしてねえよ。壊れたものと足跡を見ただけだ」


「あなた、本当は何者なんです!?」

「土木研究会だけど」


「土木研究会が名探偵を超えていいんですかぁぁぁ!」


 ぼくは笑った。


 笑うと頭が少し痛んだけれど、それでも笑ってしまった。


九 最後の入浴、第五の事件


 午前九時半。


 旅館を出るまで、少しだけ時間があった。


 医師から安静を指示されたぼくは入浴を見送り、さとみと休憩室で温かいお茶を飲むことにした。まっする先輩たちも無理をしないよう注意されていたのだけれど――。


「最後に温泉の空気だけでも吸いたい!」


 まっする先輩は、そう言って男湯へ向かった。


 お風呂へ向かう一行が、休憩室の前を通りかかった。


 キアリ先輩が、入浴前に眼鏡を外して胸ポケットへしまう。ちょうど隣のまっする先輩が、壁の鏡へ肩を向けた。


「背中の角度だけでも確認を――」

「温泉へ向かう途中まで筋肉の点検なの?」


 ぼくが呆れる横で、キアリ先輩がすっと同じ姿勢になった。肩、腰、足の角度まで、鏡に映したみたいにぴたりと揃う。


「……こうですか」

「待て。俺より筋肉の見せ方が上手くないか?」

「筋肉が嫉妬することってあるんだ……」


 その横で、チャラ男先輩のスリッパがつるりと滑った。


「おっと――」


 倒れるより先に、キアリ先輩の片手が肘を支えた。空いた手で近くの椅子を引き、チャラ男先輩は最初から座るつもりだったみたいに、すとんと収まる。


「……足元、滑ります」

「今、俺だけ三コマくらい飛ばなかった?」


 キアリ先輩の口元が、一瞬だけにゅっと上がった。


 ぼくが見直したときには、もういつもの物静かな顔だった。


 男湯の脱衣所には、チャラ男先輩、仁藤先輩、ラブ先輩、千堂先輩、益子先輩がいた。


 湯気の向こう、女湯から楽しそうな声が聞こえてくる。


「ほのちゃん、そっちの湯加減どう?」

「最高! 莉央も来られたらよかったのにね」

「今度みんなでまた来ましょうね」


 ぼくが休憩室にいることも知らず、チャラ男先輩が鼻の下を伸ばした。


「いやあ……温泉って、いいものだねえ」


 仁藤先輩が睨む。


「何を聞いてるんだ、お前は」

「いや、ただ平和な会話を」

「顔が平和じゃない」


 洗い場では、まっする先輩が堂々と仁王立ちしていた。


「見よ! この広背筋!」


 タオルを背中に回し、右へ左へ、豪快にゴシゴシと洗う。


「筋肉とは磨くもの! そして背中とは語るもの!」


「頼むから黙って洗え!」


 千堂先輩の声が反響する。


 ラブ先輩は湯船の縁で、うっとりと天井を見上げていた。


「デュフフ……温泉回……浴衣……湯けむり……これは円盤特典級でござる……」


 女湯から、誰かが笑う声。


「きゃっ、冷たい!」

「ちょっと、やめてよー!」


 ラブ先輩の想像力が、あらぬ方向に暴走した。


「でゅ……ふ……」


 つう、と鼻から赤いものが垂れる。


「おい、ラブ、鼻血!」


 仁藤先輩が声を掛けたときには、もう遅かった。


 ラブ先輩はのぼせて、湯船にふわりと倒れ込んだ。


 仰向けで、ぷかぁ……。


 まるで水死体。


 いや、実際にはそんなことを言っている場合ではない。


「おいっ!」


 仁藤先輩と千堂先輩がすぐに引き上げ、浴槽の外で呼吸と反応を確認する。従業員も駆けつけ、救護に加わった。


 そこへ。


 眼鏡を曇らせた益子先輩が、湯気の向こうから現れた。


 鼻血。


 倒れたラブ先輩。


 騒然とする男湯。


 益子先輩の顔から血の気が引いた。


「……第五の事件」


 千堂先輩が振り返る。


「は?」


「第五の殺人事件ですぅぅぅ!!」


「まだやるのかお前ぇぇぇ!!」


 その声が、女湯を越えて休憩室まで届いた。


 ぼくはお茶を置いた。


「……また何かやってる」


 さとみが苦笑する。


「益子先輩、温泉に入ってまで探偵なの?」


 ぼくは窓の外を見た。


 山の木々が、朝の光にきらきらしている。


「……もう帰りたい」


十 帰る場所


 午前十一時過ぎ。


 予定より少し慌ただしくなったけれど、必要な確認と休息を済ませ、ぼくたちは大学へ戻った。


 ラブ先輩はすっかり元気になり、何事もなかったように旅館の感想を語っている。


「デュフフ……温泉回としては百点満点でござった!」


「五回目の事件まで起こしておいて!?」


 ぼくが言うと、ラブ先輩は胸を張った。


「拙者は事件を起こしたのではない。事件に巻き込まれたのでござる」


「鼻血出してのぼせただけでしょ!」


 益子先輩は帰りのバスでも手帳を開いていた。


「……おかしい。五件すべて偶然だなんて、確率的に……」


 千堂先輩が窓側の席から言った。


「確率計算する前に寝ろ」


「ですが、事件には必ず――」

「事件じゃねえ」


 チャラ男先輩が笑う。


「まあ、楽しかったじゃん。ちょっと刺激的な温泉旅行だったけど」


 三重様が鉄扇を開いた。


「次回は、もっと落ち着いた旅行にいたしますわ!」


 剛田先輩が拳を握る。


「心の友よ! 次は海だ!」


「次を決めるの早すぎません!?」


 御坊先輩は、ぼくの方をちらちら見ていた。


「あ、あの……莉央さん。頭、もう……」


「うん。心配してくれてありがとう」


「い、いえ! ぼ、ぼくは、その……!」


 御坊先輩は耳まで真っ赤になって、窓の外を向いてしまった。


 さとみがにやにやしている。


「……何?」

「べつにー」


 大学に着くと、旧校舎はいつもの姿で待っていた。


 古い壁。きしむ階段。少し立てつけの悪い扉。


 それでも、帰ってくると不思議と落ち着く。


 留守番をしてくれたベコとアグー豚を牛男先輩がねぎらい、ぼくは案内ロボ改に頭を下げた。


「ありがとう。ちゃんと留守番できた?」

『勤務報告は十七時に提出します』

「そこだけ社会人なんだね……」


 帰還後の当番を確認して、ぼくたちはいつもの部室に顔を出した。


「……やっぱり、ここがいいな」


 ぼくが呟くと、さとみが笑った。


「温泉より?」

「うん。少なくとも、ここなら殺人事件は起きないし」


 その瞬間。


 部室の隅から、機械音がした。


『危険を検知しました』


 全員が振り向く。


 ハジメ先輩の案内ロボ改が、片目だけ光らせている。


『製作者に電話します』


 ぷるるるる。


 ハジメ先輩のスマホが鳴った。


「でゅふふ! 温泉仕様の試験起動に成功したのである!」


 千堂先輩が天井を仰ぐ。


「……本体を大学に置いて、旅館から騒がせてたのか」

「遠隔で動作確認できるのである!」


 ロボットが続けた。


『危険です。助けに来てください』


 そして、いつもの保留音。


 ♪ ティン、ティティン、ティテテテ〜。


 益子先輩が、はっと顔を上げた。


「……第六の事件の予感がします」


 千堂先輩が叫ぶ。


「もう事件はいいんだよぉぉぉ!!」


 笑い声が、古い廊下いっぱいに広がった。


 九日目。


 旧校舎は今日も、騒がしくて、どうしようもなく平和だった。


――DAY9 完――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。