犬
あたしは犬かな。
一番なら。
いやぁ、動画とか画像で見る分にはいいんですよ。
ポメラニアンとか、白くてふわふわでかわいいなって思うんですけど。
でも、実物が近くにいると駄目なんですよね。
別に、あたし自身が小さい頃に咬まれたことがあるとかじゃないんですけど、怖いんです。
犬って、寄って来るじゃないですか。
こっちは離れたいのに、散歩中とかあとは、たまに公園で放し飼いにしてるのとか……
大きいのも怖いですし、小さいのも怖いですね。
大きいのは、単純に咬まれたらどうしようっていう怖さ。
小さいのは、あたしがなにか間違って、ケガをさせたり、殺しちゃったりしたらどうしようっていう怖さがあるんですよ。
他の動物も苦手って言えば苦手なんですけど、犬が近くにいるとすごく緊張しちゃうんですよね。
一番といえば、やっぱ犬になっちゃいますね。
単純に接する機会が他の動物より多いっていう理由もあるかもですけど……
あの時——あぁ、実はあたし、今の彼氏と付き合う前に婚約までいった彼氏がいたんですよ。
その元カレの家の近くに、犬を飼っている人が住んでて。
その人の家、確かどこかの有名企業の社長だか専務だか……とにかく、金持ちらしくって、庭がめっちゃ広いんですよ。
だから、いつも庭の中で放し飼いにしてるっぽかったんですよね。
あの犬……とにかく大きい犬だったなぁ、犬種とかはわかんないですけど、黒い犬でした。
家の前を通ると、家の周りを囲っている柵の間から顔を出してみたり、何度も飛び跳ねて道路に出ようとしてくるんですよ。
あそこに犬がいるって知らずに通ったおじいさんやおばさんが腰を抜かしているのを何度か見たことがありました。
あたしも最初はそれを知らなくて、びっくりして転んだんです。
あの時はもう、本当にビビって……
心臓がもうバクバクでしたよ。
あたし、その話を元カレにしたんです。
手を擦りむいていたから、理由をきかれて。
そしたら、元カレも数日前に酷い目にあの犬のせいで怖い思いをしたって言って――
「あのクソ犬、柵を飛び越えて車の前に出て来たんだ」って、怒ってました。
元カレが仕事で隣町まで車で行って、帰って来た時、突然あの黒い犬が飛び出して来たらしいです。
で、びっくりするじゃないですか。
黒い塊が突然現れたんですから。
ぶつかるところだったらしくて。
ブレーキを踏んで、車は半回転。
電柱に危うくぶつかるところだったんですって。
何度か文句を言ったらしいんですけど、まともに取り合ってくれない様子だったみたいで、「ちょっと犬が外に出てたくらいで、大げさな」って、謝りもしなかったそうです。
「遊んで欲しくて近寄っただけだろ」とか「車が壊れたわけでもないだろ」とか言われたんですって。
犬の飼い主がみんなそうとは限らないですけど、とにかくその男はめっちゃ嫌なやつだったんですよ。
あたしもその後、何度か見たことありますけど、見た目は普通のサラリーマンって感じで。
とにかくあの家の前を通る時は注意しようってことになってたんですけど……それから何ヶ月か経って、その頃にはあたし、元カレの家で半同棲みたいな状態だったんですよ。
で、あの時、たまたまあたしも元カレもそれぞれ飲み会で遅くなる日があって――あたし、近くのコンビニの前でタクシーを降りて、ちょっと買い物をしてから、歩いて帰っていたんですよ。
そしたら、あの家の方から、なんか、悲鳴みたいなのが聞こえてきて……
深夜だったし、良く見えなかったんですけど、何だろうって思ったら男の人が倒れているのが見えたんですよ。
仰向けで、何か黒いものがその人の上に乗っているように見えて。
それがあの犬だって気づいた時、「ぎゃああああああ」って、また悲鳴が聞こえて……
噛みつたんです。
黒い犬が、倒れていた男の人の鼻に。
びっくりしましたよ。
男の人は血だらけ。
あたし、怖すぎて咄嗟に隠れたんです。
犬がこっちに向かってきたらどうしようって思って。
だから、その後は音しか聞いてないんですけど……
あの家から誰かが出て来た物音――玄関のドアが開く音がして、砂利を踏む足音、門が開く音。
それから、男の声で「人の家の前で何してるんだ」って。
「うるさいぞ」って言ったんです。
後から元カレに聞いたんですが、犬に襲われていた人は、ただの通行人だったんですよ。
最近この辺りに越してきたばかりで、ランニングの途中だったそうです。
泥棒とか不審者だったなら、番犬の役目を果たしたってことになるけど、何もしていない、ただの通行人を襲ったんですって。
普通なら人に危害を加えたなら、それは飼い主の責任で、最悪の場合犬は殺処分になるらしいんですけど、「犬がじゃれていただけだろう」って言い張って、示談で済ませたそうです。
なんでも、あの犬、どこかの大企業の社長のお気に入りだそうで……多分、まだあの家で生きていると思います。
あの時、本当に怖かった。
もし、もう少しあたしがあの時もう少し早くコンビニを出ていたら、あの犬に襲われていたのはあたしだったかもしれないと思うと、怖くてたまらなくって。
それに、あれからもう何年も経てっているのに――あの時の事、犬に襲われた男の人の悲鳴が、まだ、聞こえるんです。
もうずっと耳にこびりついて、離れないんですよ。




