言い訳。
それは私たちが教室で待っている時だった。
体育館の二階堂さんの様子はテレビで中継されていた。
言葉を失うとは、正にこのことだろう。
二階堂さんの歌はそれだけすごかった。
クラスのみんなが緊張を忘れてしまうほどに。
「……やられたね」
前川さんが悔しそうに呟く。
けど、吊り上がる口角を抑えきれていない。
私たちは夏祭りの件で知っていた。
知っていたからこそ、度肝を抜かれていた。
あの時は言わば門外漢、ステージが違っていた。
それが、自分の土俵に立つことで、ここまで変わるなんて。
「すっかりハードルを上げちゃってくれて」
「そうですね」
私も前川さんと一緒。
あの二階堂さんが、あんなに堂々と歌っているのが嬉しい。
きっと、今日のために沢山練習したんです。
けど、それは私たちも一緒だ。
「皆さん。気後れせずに行きましょう」
柄にもなくそんなセリフが出る。
みんなが気合を入れていた。
「――みんな!」
クラスメイトの切羽詰まった動きが、否応なく空気を変えた。
「そんなに慌てて、どったの?」
「怪我した!」
焦りからか、情報の少ない一言だった。
それだけで凍り付くには十分だった。
「怪我って……! 大丈夫なんですか⁉」
「あ、ああ……保健室で見てもらったら、足を捻っただけらしいんだが……」
酷い怪我ではなく、胸を撫で下ろす。
それも束の間。言い淀みから察してしまった。
「なんで! なんでこのタイミングで!」
前川さんが珍しく強い剣幕で迫る。
「そ、それが……道具が足りないからって倉庫に……」
「倉庫⁉ せーじんが近づくなって言ってたじゃん!」
「前川さん落ち着いて! 責めてもどうしようもないですよ!」
誰かが悪いわけじゃない。不慮の事故だ。
言い争っても空気が悪くなるだけで解決しない。
問題なのは、よりにもよって王子役が欠けてしまったこと。
他ならいいわけでもないけど、替えの効かない役だ。
解決策は思いつかず、ただただ時間だけが過ぎる。
「――俺がやる」
耳を疑った。
連れて来た前川さんですら驚いていた。
「事情は聞いている」
「せーじん正気⁉」
「俺ならセリフを覚えてる。動きも全部見てきた」
確かにそうだ。三上君はセリフを全て覚えている。
私の練習のどの場面にも対応してくれていた。
けど、それは理屈の話。
「駄目だよ! 君、ただでさえ顔色が!」
「俺の責任だ! 俺が目を離したからだ!」
言葉が届いていない。
まるで、別の何かに脅迫されているようにすら見える。
「三上君止めましょう!」
「大丈夫。新波さん、俺は大丈夫だから」
「大丈夫じゃないから止めているんです!」
顔は酷く青ざめ、焦点が定まっていない。
熱に浮されたように呼吸も乱れている。
とてもじゃないけど、舞台に立たせていい状態じゃない。
それでも止まらない。止められない。
文化祭に興味の無かった人も、熱心だった人も。
少なからず、この日のために準備を進めていたから。
それ以上に、三上君の恐怖すら感じる気迫に押し黙らされてしまった。
だからせめて、失敗でもいいから。
少しでも早く終わってほしいと願った。
――万雷の拍手だった。
私たちの劇は、予想に反して大盛況で終わった。
舞台上の三上君は、まるで人が変わったように平常だった。
演技は一つも乱れることなくやり通した。
舞台袖に降りてすぐ三上君を追いかけた。
「新波さん」
私に向かって振り返って、笑顔を浮かべて。
「ほら、大丈夫だっただろう?」
全身が総毛だった。
これは火事場の馬鹿力とか、根性とか、そういう話じゃない。
高熱のランナーが、フルマラソンを完走してしまったような異常。
明らかな異常に私は……後退ってしまった。
まるでいつも通りの彼に、心臓が震えあがった。
「気にするな。そういう時もあるさ」
土壇場で怪我した子にさえ、そう許してしまった。
一人、非難の的になりそうだった所を、事なきを得た。
こうして、私たちの文化祭は無事に終わりを迎えたのだ。
……私の心に蟠りを残して。
月曜日。今日は文化祭の振替休日。
スマホを眺めても、三上君からの返信はない。
『――先輩たち、いる?』
スマホの振動に飛びつくが、発信者は違う。
『みそっちどうしたの?』
『その、文化祭のことでせーじん先輩にお礼が言いたかったんだけど……』
返信の手が止まる。
それは前川さんも同じようだった。
つまり今、誰も三上君と連絡が取れていない。
『今回、投票の優秀賞取れたの、先輩のおかげだからさ』
この場で、二階堂さんだけがあの現状を知らない。
どうすればいいのか。どう答えればいいのか。
普段通りにしようとすればするほど、いつもから乖離する。
『ようし! せーじんの家で打ち上げしよう!』
『え? いいのかな、あたしたちだけで勝手に決めて』
『いいよいいよ。どうせ惰眠を貪ってるだけだし! あやなっちもいいよね?』
悩んだ。心配半分、怖さが半分。
『はい』
結果的に、そんな簡素な二文字だった。
連絡の後に、駅で集合した。
「サプライズ! サプライズ!」
「……新波先輩、どうかした」
「え? ど、どうって?」
「なんか心ここに非ずみたいな」
「えっと、前川さん今日テンション高いなと思って」
「確かに……?」
いつものように元気よく振る舞う前川さん。
今はそれが酷く、カラ元気に見えてしまってならない。
あの時の三上君が重なるからなのか、考えすぎているかもしれない。
「せーじん君! 遊びましょ!」
インターホンを押しても、反応が帰ってこない。
「ありり? マジで寝てるのかな?」
「先輩、よっぽど疲れてるのかも」
「……空いています」
空気がどんよりとしたものになる。
この時既に、全員の中で猛烈な嫌な予感を感じ取っていた。
だから、迷わず家の中に踏み込んだ。
勘違いだったら謝ればいい。むしろそうであってほしい。
期待を裏切るように、無音だけが私たちを支配する。
あんなに騒がしかった家が、嘘のように。
一歩一歩が、部屋に近づくほどに重くなる。
そのドアノブは、錆びついたように回りが悪かった。
「――――」
惨状に呆然とする。
以前来た時は、男の子の部屋とは思えない綺麗さだった。
今は、違う。
本は散乱し、私たちが使った小さな机は横転している。
棚は倒れ、シーツはビリビリに破れていた。
まるで、一頻り獣が暴れたような状態だった。
「――――」
ベッドに座る少年が一人。
虚空を見つめ、身動き一つ取らない。
あまりに雰囲気が違い過ぎて別人だと思ってしまった。
「……なんだ」
まるで、今気が付いたかのようにこちらを見た。
「お母さんじゃないのか」
興味を無くしたように視線を戻す。
私たちを知らないみたいに。いえ、もしかたら今の彼は知らないのかもしれない。
「……ゼリー」
「先輩?」
「風邪を引いた時、お母さんはいつも買ってきてくれる」
誰と話しているのか。間違いなく私たちとは話していない。
自分に対して言い聞かせているような感じだ。
「早く帰ってこないかなぁ」
親の帰りを待つ子供のように、足を揺らす。
虚ろを向いた瞳には期待で輝いているように見える。
絶句するしかない。異常性を察するには十分だった。
ふざけていても大人だった彼が、幼児みたいに。
「――うん?」
突如、瞳に光が灯った。
「……何でお前たちいるんだ?」
訝しげ。いつもの彼だ。
「って、もうこんな時間か⁉ 悪い、わざわざ迎えに来てくれたのか」
慌てた様子で制服を探し回っていた。
……もう制服を着ているのに、必死に。
「先輩、大丈夫」
驚きから目を見開いてしまった。
「大丈夫じゃないだろ。学校いかないと」
「大丈夫だから」
「大丈夫じゃない!」
怒声に一切怯まない。
それどころか、頭を胸に抱き寄せた。
「……学校、行かないと怒られる」
「大丈夫。今日は休みだから」
きっと、この場で一番ショックが大きかったのは二階堂さんだ。
あんなに憧れた人、慕った人、恋した人。
その人がこんな姿を晒している。
「そっか……休み」
「うん。だから、一緒にゆっくりしよ」
そっと、抱きしめていた。
そこに恋に焦がれた少女はいなくて。
――愛を知った女性だけがいた。
「成人君!」
慌てて帰ってきた三上さん。
この部屋の現状で、全てを理解したようだった。
「………………すまない」
二階堂さんと三上君だけ残して一階に降りた。
二人の間に割って入れる空気じゃなかった。
何て、言い訳だ。たぶん、今の私は彼とまともに会話することができない。
それだけ、さっきの出来事は衝撃が大きかった。
「先輩たち」
「みそっち……せーじんは?」
「寝ちゃった。よっぽど疲れてたみたい」
気恥ずかしくなったのか、照れ笑いを浮かべている。
そして、自然と三上さんに注目が集まる。
「……すまない。君たちには話しておくべきだった」
「そんな! 謝ることないですから」
ただ、聞きたくはあった。
「先輩の身に何があったんですか?」
「あまり、いい話ではないよ。当然だけどね」
あまりに重い空気だった。
私たちはそれでも頷いた。
――話は三上君が小学生の頃まで遡っていた。
当時、仕事で出張が多かった三上さん。
家には三上君とお母さんだけのことが多かったらしい。
「下手すると、僕より仲良しだったかもね」
三上さんがそう語るほど、仲良しだったらしい。
ただ、ある時から徐々に亀裂が入り始めてしまったらしい。
六年生の頃、三上君の成績が悪化したらしい。
今までクラスで上の方を維持していたはずが、突然酷くなった。
三上君のお母さんは、そのことで叱ることが増えた。
ほとんど一人だけというのもあって、焦っていたのかもしれない。
たぶんそれ以上に、努君のことが大きかったのかもしれない。
何としてでも育てなければいけない。
……あの子の分まで。そういう責任が。
限界は遂に来た。三上君が家出したのだ。
三上さんは飛んで帰ってきて、学校も大慌て。
けど、そんなことを知ってか知らずか、ひょっこり帰ってきた。
酷く疲れ切った様子で夜遅くに。
その後、三上君がクラスでイジメられていたのがわかったらしい。
それもクラスぐるみ。教師を含めたクラスぐるみ。
そんなことが有り得るのか、有り得てしまった。
だって、誰も悪意を持っていなかったから。
クラスの誰もが、彼をただのいじられキャラとしか扱っていなかった。
本人が死ぬ気で平和を守っていたとも知らずに。
『成人ごめんね……! お母さん何も知らなくて……!』
事情を知ったお母さんは、三上君に謝ろうとした。頭を撫でようとした。
『ひっ……!』
三上君はそれを拒絶した。
恐怖に歪んだ顔で体を強張らせた。
受け入れるべき母親の手が、恐怖の対象になってしまった。
ほどなくして、お母さんは家を出ていった。
三上君もしばらく、ベッドの上から立ち上がれないほどだった。
そんなある日。
『なり、ひと……君?』
『ん? 遅いぞ親父? 飯が冷めるだろ』
平気そうな顔で立っていたらしい。
今日の三上君と同じように。何事もなかったように。
「成人君は、きっと見捨てられたと……⁉」
一頻り話を聞き終えて、涙が込み上げてくる。
「私……悔しいんです……!」
悲しいんじゃない。悔しくやりきれない。
私は知っていた。そういう役割を押し付けられることが、どれだけ辛いか。
なのに私は押し付けていた。
「三上君なら大丈夫だって、大人であることを押し付けてました……」
何が違うと言うのだろう。
三上君をイジメた人たち。私を陥れた人たち。
私のどこが違うと言うのだろう。
一つ間違えれば、誰だって加害者になり得るんだ。
「すみません三上さん。私、頼まれたのに……! 友達なのに……!」
「あやなっち……」
何が友達だ。何が大丈夫だ。
友達の悲鳴の横でのうのうと笑っていた。
それがたまらなく悔しい。
「――新波さんの責任じゃない」
涙も振りまきながら振り返ると。
「今回は俺の体調管理がなってなかっただけだ」
そうやってケラケラと笑っていた。
また、さっきまでのことがなかったみたいに。
「心配かけて悪かった」
誰も悪くないと、全部自分が悪いんだと。
三上君がいつも『学校は嫌いだ』という理由が今さらわかった。
誰も恨めないからだ。あまりに優しすぎるからだ。
恨めないから、環境を恨むんだ。
そして、誰のせいにもできないから、自分のせいにするんだ。
今回もそうやって場を収めようとしている。
そんなの許せない。許せないのに。
気付けなかった私に、それを言う権利があるだろうか。
「……ふざけてんじゃねぇぞ」
最初、誰かわからなかった。
荒々しく椅子を蹴り飛ばした人物が、そうであるのはわかっている。
わかっているけど、脳が理解を拒んだ。
私だけじゃない三上君以外の人間がフリーズしている。
「またそうやって、諦めるつもりかよ!」
その一言に三上君の表情が変わった。
明らかに敵意の籠った言葉に、睨み返す。
「……何が言いたい」
「そうやって自己犠牲で解決すんなつってんだよ、この馬鹿!」
「事実そうだろう! 今回のことは俺の責任だ!」
「じゃあ、君の母親が出てったのも君のせいってか?」
「お前っ!」
一触即発。すぐにでもお互い手が出てもおかしくない。
「何が違うって言うんだよ! だから俺は今!」
「だから、良い子にすればいい? 自立すれば帰ってくる? とんだお笑い種だね!」
いつもの明るい声とは正反対の声色。突拍子もなさすぎて誰も動けない。
別人のよう、人が変わったような姿。
「帰ってきたとして、そこに君はいんのかよ!」
「それはっ!」
「いないだろうね! だって、そこに君がいないんだから!」
当然だ。三上君のお母さんは三上君のためにいなくなった。
もし言う通り、それで帰ってきたとしても、そこに三上君はいないだろう。
それが拘った理由だったんだ。いつも大人びていたのは。
「いい加減それが君の大っ嫌いな諦めだって気付けよ!」
「お前に何がわかる! 親に見放された人間の気持ちが!」
「だからあやなっちたちを言い訳に使うのかよ!」
三上君のあの叫び。逃げを肯定する考え。
「他人を自分の肯定に使うな!」
あれ全部が、自分のための言い訳だったのかもしれない。
……そうは思えない。少なくとも私を慮る心はあった。
けど、私たちの心に強く響いたのは……彼の悲鳴だったからなんだ。
「先輩っ!」
制止を飛び越え、出ていった三上君。
二階堂さんが一瞬だけ迷う。
こっちは任せて。そう合図を送ると、駆け出して行った。
嵐が過ぎ去ったように沈黙が流れ落ちる。
「……本当は、ボクこんなんなんだ」
怒鳴り続けた前川さんの握り拳が、疲れ果てたように解れる。
「好きな男の子と話したくて、けど男っぽくしないとハブられたから」
背を向けられて、顔は見えない。
「そしたら、可愛くないからってフラれてさ」
けど声は震えていた。
「そんなボクを、良い女なんて言うんだよ? せーじんてば」
振り返った、瞳にはめい一杯の涙を溜めていた。
「ボク知ってたんだよ。せーじんのこと……」
「……はい」
「それなのに、嫌われるのが怖くて。間違ってるって言えなくて」
そんな彼女の言葉を、ただ聞くことしかできない。
「けど、あやなっちが泣いてるの見て、やらなくちゃと思って……」
結局、前川さんも優しいんです。
友達のために黙って、私のために口を開いた。
優しい人が損をするんです。優しい人だから損を受けるんです。
「……ありがとうございます」
「……せーじんが一番、苦しいんだよ」
側に寄ると、頭を預けられた。
彼もまた優しくて、責任から逃れないんです。
私は、この優しい人たちに何をしてあげられるでしょうか。




