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水槽。

「うぅ……緊張してきました……!」

 電話越しに新波さんが震えている。

 闘志が漲っているならいいが、この場合は逆だ。

 結局、秘密の特訓は最後まで続いた。

「これで失敗したらピラニアです」

「……前から気になってたんだが、何でピラニアなんだ?」

 聞くタイミングもなくて、今まで聞けなかった。

「小さい頃言われたんです……悪いことしたらピラニアの池に落とすって」

「拷問じみた教育だな」

「今でも覚えてます……『次やったらこれ』と、肉に群がる映像を見せつけられて……」

「いいいい! 無理するな!」

 歯がカタカタ音を立てていた。

 元凶は間違いなく紗那香さんだ。どういう教育しているんだ。

 しかし、今更喚いてももう遅い。

「……上手くいくといいですね」

「それは新波さんの肩に懸かっている」

「せめて励ましてくださいよぉ」

 俺は新波さんの頑張りを間近で見てきた。

 今なら何も問題ない。そう断言できる。

 何より、本人が一番わかっているだろう。

 いつもより早く電話を切り上げる。

 無事終えられることを祈り合って、眠りについた。

――文化祭当日。

 休日の学校でありながら、輪をかけて騒がしい学校。

 家族や、他校の生徒、終いには学校のご近所さんまで顔を出すらしい。

 校門で宣伝をしていると、それがよくわかる。

 俺たちのクラスは午後の部の後半。

 前半は有志たちによる演目が行われる。

 つまり、自分たちの出番と同時に、二階堂の出番も着々と迫っているのだ。

『――文化祭に親を呼ぶ?』

『来るかわかんないけど、一応……』

『随分と思い切ったな』

『一番納得させたい相手だから。今回こそは』

……今回こそ、か。

 二階堂の父親も、似たようなことを口にしていた。

 きっと、そこが腫瘍なのだろう。

 自信のなさの原因。どういう事情があるのかはわからない。

 ただ、父親が大きく関係しているのだろう。

 だから呼んだ。だが、果たして来るのだろうか。

「あ」

 校門を潜る人混みの中で、悪目立ちしている二人がいた。

 長身のスーツ姿の男と、その隣の歩く女性。

 こちらに気が付いたようで目が合う。思わず背筋が伸びてしまった。

「……こんにちは」

「こんにちは、成人君」

「……ども、です」

 困った。前回、生意気なことを言った手前、どんな顔をすればいいか。

 二階堂と同じで、目付きが鋭い人なので、怒っているのかいないのか。

「もう、貴方。そんな堅苦しい装いで来るから、困っていますよ?」

「……む? 正装をするものだろう?」

 そこじゃない。二人ともズレてる。

 変な所で親子の血を感じてしまった。

 にしても、ちゃんと来てくれたのか。

「そうです。折角ですから、案内を頼みませんか?」

「あ、案内、ですか?」

「お願いできませんか?」

「は、はい。こちらへどうぞ」

 どことなく、二階堂の面影を感じてしまった。

 それ以上に、隣の人が怖くて断れなかった。

 移動中、特に会話ができるわけもなく。

 強面の男性と、終始にこやかな笑みを浮かべる女性。

 それを引き連れる生徒で、大層目立った。

「あ、先輩! きてくれ、た……」

 笑顔で駆け寄ろうとしてくれて、急ブレーキをかける。

 背後の二人に、顔を引き攣らせていた。

 俺は俺で、愛想笑いを浮かべてしまっている。

「何で……!」

「呼んだのはお前だろう。楚御詩」

「それはそうだけど!」

「それより、私たちは客だ。お客様を廊下で立たせるのか?」

「ッ……わ、わかってる!」

「敬語」

「こ、こちらへどうぞ~」

 ゼロ点の営業スマイルを浮かべていた。

 とてもじゃないが「それじゃ!」と、抜け出せる空気ではない。

 そのまま店内へと案内され、同席するハメになる。

「そこの人、ごめんなさい? この『ちぇき』というのは何ですか?」

「は、はい! これはスタッフと写真を撮れるというもので!」

「まぁ! あなた、楚御詩ちゃんと写真が撮れるそうですよ?」

 無反応。仏頂面。微動だにしない。

 ウェイトレスも、父親の顔を窺いながら話している。

「いい音楽ですね、あなた」

 その言葉に、無言で頷いていた。

 だというのに、お母さんの方は随分とご機嫌である。

「……お待たせしました」

 二階堂がスマイルを継続したまま接客する。

「……私たちはまだ頼んでいない」

「サービス……です」

「お前は家族だからと優遇するのか?」

「違う! ……違います、これはクラスのみんなが渡してきて、と」

「まぁまぁ、折角の御厚意ですから」

 大方、この地獄の空気を何とかしてほしかったのだろう。

 だが逆効果だ。地獄の釜に剣山を追加してどうする。

「楚御詩ちゃん。このちぇきというのをお願いできますか?」

「ママ本気……ですか?」

「成人君も。いいですか?」

「俺もですか?」

……これといって、断る理由も無いわけで。

「は、は~い、撮りますよ~……?」

 これほど重苦しい記念撮影もないだろう。

 渡された写真は、要人を写したような空気だった。

 その後、時間まで学校を案内し終えた。

「すみません、後ろの方になってしまって」

 体育館に案内すると、既に前の座席は埋まっていた。

 一番注目を集めるとはいえ、ここまではとは予想外だった。

「いいんです。ありがとうございますね?」

「それじゃあ、俺はここで」

「どうせなら成人君も、聴いていきませんか?」

「いや、えっと」

「楚御詩ちゃんは、昔からお歌がとっても上手なんですよ?」

……正直に言って、自分のクラスも気になる。

 心美たちは「こっちはだいじょうぶい」と、言ってくれてはいる。

 かと言って、ここで断るのは違う気がしてならない。

 何よりも俺自身、この人たちの反応が気になっていた。

「――君は」

 酷く重い口が開いた。

「あの子をどう思っている?」

 待て待て。急になんだ。

 これは友達として? それともまさか、女の子として?

「い、良い子だと思いますよ?」

 どちらであっても、当たり障りのない返答をした。

「……不気味だ」

「不気味?」

「君は、不自然なほど背伸びをしている」

「あなた。そういう言葉は失礼ですよ」

「……すまない。失言だった」

 窘められ、ほんのちょっぴりシュンとしたように見えた。

 どういう意味なのか、受け取りかねる言葉だった。

 その内、有志の一番手が始まっていた。

 二人の反応は、今までと変わらない。

 ふと、舞台袖が慌ただしいのが目に入った。

「ちょっと失礼します」

 直感だった。

 嫌な予感と共に、二階堂の顔が過った。

 丁度、西澤先生が目に入った。

「先生。どうかしたんですか」

「三上君、それが……」

――無意識のうちに飛び出していた。

 豪快に響く扉の音を無視して、駆け出した。

「ごめん! 二階堂いるか⁉」

「うわ! え? 誰……?」

「あ、確か二階堂さんとよく一緒にいる人」

「二階堂さんなら体育館行ったんじゃないの?」

「クソっ!」

 ここにいないとなると、どこだ?

 情けない。まるで見当がつかないことに腹が立つ。

「先輩さん! 待って!」

「君は……」

 前に二階堂に相談していた子だ。

「よくわからないけど……二階堂さん頑張ってたんです」

 手には彼女のトレードマークである、ヘッドホンが握られていた。

「文化祭の準備も積極的に手伝ってくれて……」

 それは、以前の彼女からは想像できない姿だっただろう。

 いや、そうじゃない。ただ壁を作っていたなら、こんな反応をされない。

「二階堂さん、怖いけど優しいから……だからえっと……お願いします!」

「……ああ、任された」

 ヘッドホンを受け取り、もう一度駆け出す。

 間違いなく校内にはいる。彼女はそういう人間だ。

 ないのは時間だ。早くしないと出番に間に合わない。

 何か目星を、彼女が行きそうな場所はどこだ。

 焦りばかりが募って力が入る。力が入ってようやく気が付いた。

 その場所の扉を開けると、嫌な記憶が蘇る。

 今年の春ごろ、心美と一緒に問題を起こした場所。

 新波さんが恥ずかしい叫びを上げた場所だ。

 未だに使い方のわからない機材を無視して、奥の部屋に入る。

 その隅で、彼女は蹲っていた。

 今日のために用意したであろう、ドレス姿で。

「先輩……」

 言い訳を考える子供のように不安に揺れていた。

 だが結局、無意味だと悟って俯いた。

 ただ何も言わず、その隣に座った。

 そんなにカッコイイものじゃない。かける言葉がなかっただけだ。

 あくまでいつも通り。鼻から責めるつもりはない。

 ここに考え付くまでに時間がかかった。

 冗談で場が和むわけではない。

「……最初は平気だった。やる気だった」

 顔は上げない。そのまま話す。

「なのに……出番が近づいてきたら、急に」

 手が震えている。

「あたしさ、発表会のメンバーに選ばれたんだ」

 それはきっと昔の話。

「なのに、あたし逃げたんだ」

 短い言葉から、彼女の不安を拾い上げる。

「『あの子、パパの力で入ったらしいよ』って……」

 この際、真実かどうかは重要な話じゃない。

 子供にとってその言葉が、どれだけ自尊心を傷つけるものなのか。

 仮に、全くの虚偽であったとしても。

「それであたし、パパを責めて……初めて、叩かれた」

 痛みを思い出すように頬を抑える。

 擁護はしない。だからといって、父親の擁護もしない。

 どちらが正しいとか、そういう話で解決しない。

「わかってる。悪いのはあたし。自分の弱さを棚に上げて、人のせいにして」

 むくりと見せた顔には、涙で腫れていた。

「パパの言う通り。あたし、また逃げだした……泣き虫の子供だ……!」

 彼女の壁は、自信の無さの裏返し。

 それを決定づけたのは、他人の僻みでしかなかった。

 空気が、環境が。彼女をそう在れかしと押し付けてしまった。

 だから二階堂は一人だったんだ。

 誰も信じられなくて、怖くて。人と壁を作っていた。

「二階堂はすごいな」

「どこが! 気休めはやめてよ!」

「すごいよ」

「やめてよ! 先輩に言われたらあたし……!」

 自分を許してしまう。納得してしまう。そう瞳が訴えてくる。

 それだけ信頼してくれているらしい。嬉しいような、恐れ多いような。

 それでも俺は続ける。

「二階堂はそれだけ、本気で臨んでいるってことだ」

 目の前のことに、それだけ真剣になっている。

「逃げたのは、お前が弱いからじゃない」

 適当にやってる奴なら、まず恐怖自体を感じない。

 失敗したらどうしよう。駄目だったらどうしよう。

「そう悩む権利は、頑張っている人にしか与えられない」

 その不安、恐怖は努力に比例して大きくなる。

「逃げてもいいぞ」

「けど、そんなことしたらまた!」

「ああ。だから、俺が一緒に謝るよ」

 肯定する以上、俺も責任を負う。

「一人が怖いなら、俺も一緒に逃げるよ」

 俺なんかでいいなら、俺を信じてくれるなら。

「……先輩はすごいね。いつもそうやって堂々としてて」

「……すごくないぞ? 見ろよこの冷汗」

 二階堂が驚きで固まっていた。

 震える手、異常なほどの脂汗。

 さっきからずっとこうだ。緊張で吐きそうなのを我慢している。

「新波さんの時も、祭りの時も。お前の父親と話している時もこうだった」

 それを必死に押し殺して、今ここにいる。

「今でも内心は『この土壇場でやるなよ!』ってキレてるんだ……!」

「ご、ごめん! けど、どうしてそこまで……」

「こんな俺でも譲れないものがある」

 これだけは譲れない。負けられない。

「二階堂には、諦めてほしくないんだ」

 今日のために頑張って来た。

 今日のために勇気を振り絞ったのだから。

 だから、ここで終わりにはしてほしくない。

それでも、どれだけ外野が騒いでも決めるのは自分だ。

「因みに、あんまり近づかないでほしい。本当に汗をかいているから」

「……ふふっ」

「あ、こら、やめろ!」

 悪戯っ子のように近づいてくる。

「あはは……よかった。せーじん先輩も人間なんだ」

「まさか、今まで宇宙人だと思ってたのか?」

「違うって。けど、勇気出た」

「そうか。なら、これ」

 ヘッドホンを首にかけてやる。

「やっぱり二階堂はこれがないとな?」

「……ありがと」

「二階堂。周りは思ったよりお前を見てくれてるよ」

 どれだけ演じても、根っこの性格だけは変えられない。

 真面目で優しくて、不器用な性格だけは。

 体育館に行って、二人で一緒に係の人に謝った。

「行って来い」

「うん」

 言葉は短く。拳を突き合わせた。

 二階堂夫婦の元に戻ろうとした時。

「やっぱり、良い声だ」

 とても優しい歌声が響いて来た。

 時間としては一曲分、短いものだ。

 それでも確実に観客の心を掴んでいた。

 拍手は、それはもう長い間鳴り響いたとも。

 鳴り終えた頃に、二階堂の夫妻が席を開けた。

 体育館の外まで慌てて追いかけた。

「待ってください!」

「……用は済んだ」

「その、楚御詩さんに声をかけないんですか?」

「あの子は私の感想など求めてはいない」

「ですが!」

「……水槽はどこで売っている?」

「え?」

「それなら、帰りに寄っていきませんか?」

 鳩が豆鉄砲を食ったようとはこのことだろう。

 脈絡のない話題に、ポカンとするしかない。

「不器用な人で、仕事でしか愛情を示せない人なんです」

 前を歩いて行く背中を見ながら、どこか嬉しそうにしている。

「そのせいで、楚御詩ちゃんと昔喧嘩してしまったのですけどね?」

「確か、二階堂を叩いたっていう……」

「あの人にとって、それはとても辛いことでした」

 家族のために必死に働いた。それだけが愛情表現だった。

「それでも、叩くのは」

「叩きますよ」

 意外だった。常に優しい空気を纏っている人だから特に。

「親だって人間です。子に否定されれば、手が出ることもあります」

 鋭く、凛々しい目で説いてくる。

「それでも。不器用なりに歩み寄ろうとするあの人を、責めないであげてください」

 今日、確かにここに来たこと。

 それが、最大限の愛情表現なのだと気付かされた。

「何をしている」

「はい、今すぐ。どうか、楚御詩ちゃんをよろしくお願いしますね?」

 深く頭を下げて去っていく。

 親だって人間、か。

 当然のことだった。当然のことなのに失念していた。

「先輩! パパたちは⁉」

「二階堂。あっち」

「――ごめん!」

 もう既に遠くなってしまった背中に叫ぶ。

「あの時はごめんパパ!」

 何事かと周りが騒々しくなる。

 それでも、当事者たちは振り返ることはなかった。

 すぐに仲直り、なんて都合のいいことはないだろう。

 何年も積み上がった負債はそう簡単にはなくならない。

 これは、重い重い第一歩でしかないのだから。

「さて、俺も頑張るかな」

「そっか、先輩たちこの後だったね」

「せーじん!」

 心美が衣装のまま駆け寄ってきた。

 呼吸を整える間もなく肩を掴んで来た。

「は?」

 心美の言葉に、世界から音が無くなってしまった。


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