第二十三話 足りる一手
次の対局で、朝倉湊は最初から決めて座った。
右辺の石を残す。
中央に息を通す。
その息を上辺へ使う。
そして、十分なところで次へ回る。
今日は、そこまででいい。
先手AI、後手AI。
盤は静かに動き、また右辺に黒石が残った。湊はそこへ一手足す。呼吸を消さず、中央へ向く道も残す位置だった。
向かいの相手は二段。
盤を見て、少しだけ考え、それから別の場所へ回る。
湊は追わない。
右辺へもう一手。相手が無視しにくい形を作る。
相手は受けた。
ここで、前の湊なら迷っていた。
でも今日は違う。中央へ息を通す一手を、もう持っている。
湊はその位置へ打った。
右辺の石は、ただ残っているだけの石ではなくなった。中央で切られにくくなり、相手もそこを放って上へ走りにくくなる。
白は中央を浅くさわってきた。
嫌な手だった。だが黒の息はまだ切れていない。なら次だ。
湊は上辺を押さえた。
そこで初めて、盤が少しだけ自分の方へ寄るのを感じた。
右辺、中央、上辺。
今日の手は、ここまではちゃんとつながっている。
白はその上辺を軽く荒らしに来た。
湊は受けた。
もう一手かけたくなる形だった。もう少し押さえれば、もっとはっきり黒のものになる気がする。
だが、そこで手を止める。
十分だ。
その一手を足しても、すぐ大きく得するわけではない。
白もすぐには働けない。
なら、ここで次へ回る。
湊は上辺をもう追わず、盤の広い方へ打った。
置いた瞬間、自分でも少し驚いた。
我慢した、という感じではない。
必要なところまでは取った、その先へ行った。そう思えたからだ。
中盤は細かかった。
白も崩れない。黒も楽ではない。
それでも今日は、同じ場所に余分な一手をかけなかったぶんだけ、盤の広いところへ向く余裕が残っていた。
終盤まで行くころには、差はまた小さくなっていた。
大きな勝ちではない。
でも今日は、自分で取ったものと、取らなかったものがはっきりしている。
整地のあと、記録端末に数字が出る。
黒一目勝ち。
静かな勝ちだった。
席を立つ前に、湊は盤を見た。
右辺の石。中央に通した息。上辺の押さえ。
そして、そこで止まって次へ回った一手。
今日は、その順番が崩れなかった。
廊下へ出ると、夕方の光が窓に白く残っていた。
対局室の中の張りつめた空気とは少し違う、外の時間の色だった。
「今日はちゃんと止まれたね」
藍原紗英が言った。
湊は少しだけ笑う。
「見てたのか」
「途中から」
「そうだろうな」
「もう聞かなくていいよ」
紗英は壁にもたれず、まっすぐ立っている。
「右で受けさせて、中央に息を通して、上を押さえた」
「うん」
「そのあと、もう一回上を触らなかった」
「うん」
「今日はそこが一番よかった」
湊は窓の外を見る。
勝ったことも嬉しい。だが、それより先に残るものがある。
十分なところで次へ回れた。
前の自分なら、たぶんもう一手かけていた。
ちゃんとしたくて。取りたくて。安心したくて。
今日はそこを、自分で止めた。
「紗英」
「何」
「まだ全然足りないな」
「うん」
「でも、前よりは打てた気がする」
「うん」
そこで彼女は、少しだけ目を細めた。
「やっと、自分の一手になってきた」
その言葉は、思っていたより静かに胸に入った。
対局室の向こうで、東雲朔が次の席へ向かうのが見えた。
まだ遠い。
完成度も、盤の広さも、どこで取ってどこで止まるかも、あの人の方がずっと先にいる。
それでも、もうただ見上げるだけではないと思えた。
嫌な流れが見えるだけだった。
石を残すことを覚えた。
働かせることを覚えた。
その先を決めることを覚えた。
そして今日、止まる場所を一つ、自分で決めた。
たったそれだけだ。
でも湊には、その「たったそれだけ」が、いまは何より大きかった。
「行くよ」
と紗英が言う。
湊はうなずく。
二人で並んで歩き出すわけではない。まだその距離ではない。
けれど、同じ会場の同じ空気の中で、前より少しだけ近い場所に立っている気がした。
会場の出口の前で、湊は一度だけ振り返る。
盤の中で、自分が決められることはまだ少ない。
それでも、次にどこを見るか、何を残すか、どこで止まるか。
それを少しずつ増やしていけば、いつか本当に自分の碁になるのかもしれない。
そのとき初めて、タイトルの言葉が少しだけ自分の中で形になった。
AIが置く。
相手が応じる。
その次に何を打つか。
そして、その一手をどこまで引き受けるか。
その次の一手は、もう前みたいにただ怖いだけのものではなかった。
湊は会場を出る。
外の空気は少し冷たかった。
でも、呼吸は前より深かった。




