第36話 黒の令嬢
数日後。
貴族街の屋敷で、社交の集まりが開かれていた。
ホールには淡い色のドレスが並ぶ。
桃色、水色、クリーム色。
広がるスカート。
重なるフリル。
笑い声。
「やっぱり可愛いですわね」
「フェリシア様の形、安心しますもの」
そのとき。
入口が開いた。
黒が入る。
一歩で、空気が変わった。
長いスカート。
白い袖。
揺れない線。
近くの令嬢が言葉を失う。
「……え?」
「黒……?」
ざわめきが広がる。
「喪服みたい……」
小さな声。だが、はっきり聞こえた。
別の令嬢が首を振る。
「違うわ、あれは……」
言葉が続かない。
視線だけが集まる。
ヴィオレッタはその中を歩く。
裾が遅れて動く。
白いレースだけが、灯りを拾う。
誰も声をかけない。
距離が空く。
一人の令嬢が、ようやく口を開いた。
「……綺麗」
すぐに別の声が重なる。
「でも、近づきにくいですわ」
「怖い、というか……」
否定とも違う。
だが、ためらいが残る。
「可愛い、ではないですね」
「ええ。あれは……」
少し間。
「“見せる”ドレスです」
視線を集めるための装い。
楽しむものではない――そんな響きがあった。
ヴィオレッタは立ち止まる。
視線がぶつかる。
逃げる者はいない。だが、踏み込む者もいない。
静かな均衡。
やがて、一人が前に出た。
「……素敵です」
言い切る。
だが続ける。
「ただ、私は着られません」
本音だった。
周囲に小さなざわめきが走る。
「分かるわ」
「似合う人、選びそう」
「でも――」
別の令嬢が、目を離さずに言う。
「忘れられないわね」
それが、この場の答えだった。
ヴィオレッタは何も言わない。
ただ一度だけ、視線を巡らせる。
十分だった。
黒は、記憶に残る。
名前はまだない。
流行とも呼ばれていない。
だが――
あのドレスを見た者は、もう戻れない。
可愛いだけの世界には。




