第9話「剥ぎ取られた証」
その日の依頼は、森の奥に生息する岩猪の討伐だった。手強くはあったが、三人の連携はすでに板についており、これまでのような大きな失敗もなく、討伐は順調に進んでいた。
「よし、これで完了だな」
仕留めた岩猪の証拠部位を切り取り、レオは満足げに頷いた。帰り支度を始めようとした、その時。
「……待って」
ミレイが、ふと足を止めた。視線の先、少し離れた茂みの陰に、何かが倒れているのが見えた。
「あれは……」
三人は警戒しながら近づいた。そこにいたのは、もう一頭の岩猪だった。だが、様子がおかしい。荒い息を吐きながら、地面に伏せたまま、力なく震えている。
「これ……」
ガレスが、静かにその体を検分した。脇腹には、鋭い刃物で切り取られたような、生々しい傷跡が残っていた。
「証拠部位、剥ぎ取られてる。でも」
ガレスの声が、わずかに低くなった。
「トドメ、刺されてない」
「……え?」
ミレイが息を呑む。
冒険者の間では、絶対的なルールがある。討伐対象の証拠部位を採取する場合、必ず息の根を止めてから行うこと。手負いのまま放置する行為は、対象を無用に苦しめるだけでなく、凶暴化した個体が町や旅人を襲う危険を生む、重大なタブーとされていた。
「……酷い」
レオが、拳を握りしめた。声には、いつもの軽さがなかった。
「証拠だけ取って、後は知らんぷりってことか。こいつは、この状態のまま、苦しみながら死ぬのを待つしかなかったんだぞ」
「レオ……」
「こんなの、絶対に許せない」
レオはゆっくりと膝をつき、岩猪の傷の状態を確かめた。もはや、助けられる状態ではないことは、誰の目にも明らかだった。
「……せめて、楽にしてやろう」
静かにそう言うと、レオは剣を構えた。ミレイとガレスも、無言のまま頷いた。
短い呼吸の後、剣が一閃した。岩猪の荒い息が、静かに止まる。
しばしの沈黙が、その場を支配した。
「……このやり方、ラルフィードの一件と同じ」
ガレスが、低い声で呟いた。
「ノアが襲われた時も、同じような手負いの魔獣がいた」
「……つまり、同じ奴らの仕業ってこと?」
ミレイの問いに、ガレスは険しい表情のまま頷いた。
「可能性、高い。この森でも、同じことが繰り返されてる」
「くそ……!」
レオが、苛立たしげに地面を蹴った。
その時だった。
「――ガアアアアアアッ!!」
突如、森の奥から、複数の唸り声が響き渡った。茂みを割って現れたのは、三頭の狼型の魔獣。目は血走り、体には、やはり中途半端な傷が残っている。手負いのまま逃げ延び、凶暴化した個体たちだった。
「まさか……!」
「来るぞ!」
ガレスの警告と同時に、魔獣たちが一斉に飛びかかってきた。
「くっ――!」
レオが真っ先に前に出て、一頭の突進を受け止める。だが、通常の個体とは明らかに違う、凶暴化した魔獣の膂力は、レオの想定を大きく上回っていた。
「うおっ、重い……!」
「レオ!」
ミレイが詠唱を試みるが、残る二頭が同時に、ミレイとガレスへと襲いかかる。三対三――数の上では互角だが、相手の凶暴化した動きは、通常の討伐とは明らかに勝手が違った。
「厄介……! 普通の岩猪や魔狼と、動きが全然違う!」
ガレスが一頭の攻撃を辛うじて剣で受け止めながら、歯を食いしばる。
「このままじゃ……!」
ミレイが焦りの滲む声を上げた、その瞬間。
「――退くぞ!!」
レオが、鋭く叫んだ。
「無理に戦うな! 相手の状態が異常すぎる、俺たちの手には負えない!」
「で、でも……!」
「今優先すべきは、生きて町に戻って、この状況をギルドに報告することだ! ここで無理して共倒れになったら、意味がない!」
レオの判断に、ミレイとガレスは一瞬迷った様子を見せたが、すぐに頷いた。
「――《ウォーター・フラッシュ》!!」
ミレイが放った水流が、魔獣たちの視界を一瞬塞ぐ。その隙を突き、三人は一斉に森の外へと駆け出した。
「離れろ、離れろ!!」
背後から迫る唸り声を振り切るように、三人は全速力で走り続けた。木々の間を縫い、時に転びそうになりながらも、なんとか森の外れまで辿り着いたところで、追撃の気配が途絶えた。
「はぁっ……はぁっ……。撒いた、か……?」
レオが、荒い息のまま振り返る。幸い、魔獣たちの姿は見えなかった。
「……危なかった」
ミレイが、膝に手をついて息を整える。ガレスも、珍しく肩で息をしていた。
「……あんな凶暴化した魔獣、初めて見た」
「ああ。今の俺たちの実力じゃ、正面からやり合うのは無謀だ」
三人はしばらく無言で、荒い呼吸を整えていた。怒りと恐怖、そして無力感――さまざまな感情が、その沈黙の中に滲んでいた。
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町へと続く街道に出たところで、三人はふと、開けた休憩所に差し掛かった。そこには、見覚えのないパーティーが、酒杯を片手に、賑やかに笑い合っていた。
「いやー、今日の討伐も楽勝だったな!」
「証拠部位さえ取れりゃ、こっちのもんだ。後始末なんて知ったこっちゃない」
その言葉に、レオの足が、ぴたりと止まった。
「……今、なんて言った?」
思わず声をかけたレオに、三人組のパーティーが、億劫そうに視線を向けた。装備の質、佇まいの余裕――どれをとっても、Fランクの三人とは、明らかに格が違うことが窺えた。
「あん? 何だお前ら」
リーダー格らしき男が、レオたちを頭のてっぺんから爪先まで、値踏みするように眺めた。
「ずいぶんとみすぼらしい装備だな。どこのFランクだ?」
「今、後始末はどうでもいいって言ったな。まさか、森の岩猪や魔狼、証拠部位だけ取って、トドメも刺さずに放置してるのか?」
レオの声には、抑えきれない怒気が滲んでいた。男は、面倒くさそうに肩をすくめた。
「ああ、それがどうした。トドメ刺すのも手間だし、時間の無駄だろ。証拠さえありゃ、報酬は変わんねえんだから」
「その手負いの魔獣が、凶暴化して、俺たちを襲ってきたんだよ! 危うく死にかけたんだぞ!」
「へぇ、そりゃ災難だったな。だが、それはお前らの実力不足だろ。凶暴化した個体一つ相手にできないとか、正直、Fランクの相手なんてしてる暇はないんでね」
男の物言いに、ミレイの表情も険しくなった。
「実力の問題じゃない! あなたたちが後始末をちゃんとしないから、危険な状態が放置されてるんです! この森を通る一般人だって、危険に晒されてる!」
「はっ、お綺麗な正論だな。だが、それを気にしてたら、効率が落ちるんだよ。俺たちは俺たちのやり方で結果出してる。文句あるなら、お前らも早く稼げるようになってから言えよ」
嘲るような笑みを浮かべる男に、レオは拳を強く握りしめた。今すぐにでも殴りかかりたい衝動を、必死に抑え込んでいるのが、傍目にも分かった。
「……ガレス」
ミレイが、小さく囁いた。ガレスも、無言のまま頷き、レオの肩に、そっと手を置いた。
「今、ここでやり合っても、意味ない」
「……分かってる」
レオは、震える声で絞り出した。
「だが、これは絶対に見過ごせない。ギルドに、正式に報告する」
「はっ、好きにしろよ」
男は興味なさそうに手を振ると、仲間たちとの談笑に戻っていった。
その背を睨みつけたまま、レオはしばらくその場を動けずにいた。
「……行こう、レオ」
ミレイの声に、レオはようやく我に返り、拳をゆっくりと緩めた。
「……ああ」
三人は、無言のまま、町へと続く道を歩き始めた。夕暮れの空は、いつもより、少しだけ赤く、重く見えた。
「ギルドに着いたら、今日見たこと、全部正直に報告しよう」
レオが、静かに口を開いた。
「あの手負いの魔獣のことも、あいつらの言動も、全部」
「うん」
「変えられるかどうかは、分からない。でも、黙って見過ごすのだけは、絶対にしたくない」
ミレイとガレスは、何も言わず、ただ頷いた。
三人の足取りは重かったが、その瞳には、確かな意志が宿っていた。




