第5章 失踪者
真壁遼。
その名前が初めて現れてから三日。神谷の机には、新しい資料が積み上がっていた。
ただし本人に関する資料は、驚くほど少なかった。少なすぎると言ってもいい。まるで途中から存在が切り取られているようだった。
警視庁資料室。午前九時。
東条が端末を抱えてやってくる。顔色が悪い。明らかに寝ていない。
「寝てないな」
「神谷さんに言われたくないです」
東条はコーヒーを机に置き、端末を開いた。「真壁です」
神谷は顔を上げる。「出たか」
「半分だけ」
その言い方が妙だった。神谷は椅子を寄せて画面を見る。
真壁遼、三十八歳、元データ監査技術者、Emotion Architect関連企業勤務。
「関連企業?」
「本体じゃありません。補正評価監査専門の外部法人です」
神谷は少し考える。監査、つまりシステムそのものではなく、結果を見る側、美咲に近い立場だった。数字を見る人間、異常を見る側。
「退職理由は」
「不明です。三年前に突然消えてます」
神谷の目が細くなる。退職届なし、転職記録なし、住民移動記録なし、通信契約なし、銀行利用ほぼ停止、認証履歴断絶。普通ではない。事故死なら死亡届が出る、海外移住なら出国記録が出る、失踪ならもっと乱れる。だが真壁は違った。綺麗すぎる、意図的としか思えない。
「消えたな」
「しかも慣れてる感じです。逃げ方を知ってる感じで」
東条は別資料を出す。行政認証履歴、そこに奇妙な特徴があった。ゼロではない、断片。病院受付、交通認証、一時的住居利用、それらが一定期間ごとに途切れ、また現れ、消える。
「誰かに追われてる?」東条が言う。
神谷は即答しない。追跡を避けているのは明らかだが、相手が誰かは分からない。もっと厄介な可能性もある。この社会そのものだ。感情補正システム、行政認証、通信、交通、医療、生活の全てが繋がっていて、完全に消えることの方が難しい。つまり真壁は「社会から隠れている」のではなく、「社会に見つからないよう生きている」、その方が近かった。
「それと気になるのがありました」東条が別ファイルを開く。
真壁の業務履歴、そこに見慣れない部署名があった。
長期影響監査室
「長期影響?」
「調べました」東条が続ける。「古い組織図です。十年以上前、感情補正システム初期、まだ全国導入前の時代に存在した部署です。役割は、長時間利用者の行動変化追跡」
神谷の手が止まる。また同じ言葉だった。長時間利用者。
長時間利用者:AI介入効率が高まる対象群
特徴:補正受容率が高い、AI対話時間が長い、感情安定化速度が高い、行動修正率が高い
「これ、美咲さんと一致しません?」東条が言う。
神谷は黙って頷く。一致する。いや美咲だけではない、死亡事例の全員が条件に近い。
神谷は資料を閉じなかった。違和感が増す。長期利用者に偏りがあるなら、被害者選別ではない、統計上の偏りになる。「なぜこの人たちなのか」が説明できる。だが逆に新しい疑問が生まれる。なぜ長時間利用者の中でも、ごく一部だけなのか。
「でも変ですよね」東条が言う。「危険ならもっと前に問題になってません?」
「数が少ないんだろう。影響が出るのが」
東条が画面を確認する。全国利用者は約一億、AI対話時間が極端に長い長期利用者は推定で数百万人規模、だが死亡事例は十二件。桁が違いすぎる。
「だから誤差扱い……」
神谷は頷く。数字の暴力だった。全体改善率、犯罪減少、対立減少、自傷予測改善、巨大な成功の中で少数の異常は埋もれる。しかも欠陥ではない。AIの最適化、正常動作、善意の介入。だから誰も止めない、止められない。
「怖いですね」東条が嫌そうな顔をした。
神谷も同じことを思っていた。悪意なら単純だ、敵がいる、止めればいい。だがこれは違う。正しさの延長線で起きている、その方が厄介だった。
それでも疑問は残る。長期利用者は数百万人いる。なのに影響が出るのがごく一部なら、長期利用だけが原因ではない。神谷はその考えをまだ声に出さない。証拠がない。だが確かに、何かが足りていた。
神谷の端末が鳴る。差出人不明の通知、二人の空気が止まる。
また匿名送信者だった。本文は短い。
城崎を見ろ
「城崎?」東条が読む。
神谷は眉をひそめた。初めて出る名前だった。
添付ファイルがある。集合写真、研究施設、若い技術者たち、中央に天城修司、その隣に真壁遼。そして別の男に赤い印がついている。ファイル名は「Kinosaki_Archive_00」。
東条が気づいた。「……ゼロゼロ」
神谷も見る。真壁の資料は「Makabe_Archive_01」、番号が一つ前にある。つまりこの男が、真壁より先にいた。
神谷は写真を見つめた。天城、真壁、城崎、そして美咲。今までバラバラに見えていたものが、少しずつ同じ線の上へ並び始めていた。
もし「最初の報告者」が存在するなら、この現象は十年前では終わらない。もっと前から始まっていた可能性がある。
神谷は静かに立ち上がった。「行くぞ」
「どこへ」
「城崎を探す」
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城崎浩一が見つかったのは翌日の午後だった。思ったより簡単だった、それが逆に不自然だった。
隠れていない、逃げてもいない。研究職を辞めた後も、公的研究機関の技術顧問として名前が残っている。住所もある、認証履歴も普通だ、まるで最初から何も隠していない人間だった。
都内郊外、小さな研究施設。表札には「社会行動設計研究センター」とある。
「ずいぶん静かですね」東条が言う。
確かにそうだった。人の気配が薄い、だが廃れてはいない。研究所独特の、整った沈黙がある。
受付で警察であることを告げると、すぐ案内された。
待っていた男は六十代半ば、痩せていて白髪、疲労が深く刻まれた顔だった。だが目だけは鋭かった。
神谷を見るなり、男は言った。「警察が来るとは思わなかった」
「城崎浩一さんですね」
「そうだ」
声は落ち着いていた。驚いている様子はない、むしろ少し諦めているようだった。
応接室。神谷は単刀直入に聞いた。「感情補正システムについて聞きたい」
城崎の表情は動かなかった、代わりに少し長い沈黙があった。やがて小さく息を吐く。
「どこまで知っている」
神谷は資料を机へ置いた。匿名送信者から送られてきた写真、天城、真壁、そして城崎。
城崎の目が止まる。数秒の静かな沈黙の後、やがて苦笑した。「懐かしいな」
「初期メンバーですか」東条が聞く。
「正確には、初期監査班だ」
「設計者じゃない?」
「違う」城崎は即答した。「私は疑う側だった」
その言葉に、神谷の意識が集中する。疑う側、問題検出担当、刑事に近い。神谷は少しだけ親近感を覚えた。
「君たちは、何を追っている?」城崎がコーヒーを置きながら言った。
「長時間利用者の異常です」
城崎の目がわずかに動いた。ほんの一瞬、だが反応だった。神谷は見逃さない。
「話してください。最初に何を見つけた」
城崎はしばらく黙っていた。やがて静かに話し始めた。
「二十年前だ。まだ全国導入前、試験運用時代だ」
感情補正システムは当時、限定導入だった。行政実験、病院、学校、一部企業。対象者は数万人規模、そしてその中に奇妙な群があった。
「効果が出すぎる人たちだ」
「出すぎる?」
「補正精度が異常だった」城崎は説明する。「普通の利用者は補正提案を半分くらい受け入れる。高い人でも七割程度だ。だが一部利用者は九割を超えていた。しかも対話時間が極端に長い。毎日、長時間、AIと話して、感情を整理して、補正を受け入れる。システムとの相性が異常に良い」
神谷の頭で、美咲のケースが繋がる。AI対話時間、長い、長期利用、深い介入、全部一致する。
「最初は成功例だった」城崎が言う。「長く使えば使うほど、感情が安定する。理想的利用者だと考えられた」
当然だ。争わない、感情が安定する、対立が減る、制度目標そのものだ。だから誰も疑わなかった。
だが城崎はそこで止まらなかった。「私は監査だった。数字の裏を見る仕事だ。そして気づいた」
「何に」城崎の目が少し暗くなる。
「相談率だ」
神谷の脳裏に、美咲の言葉が浮かぶ。――助けを求める人が減っている。同じだ。
「改善率と一致しなかった」城崎は続ける。「長期利用者はストレス指標が下がり、対立も減り、安定も増えた。だが深刻相談だけが極端に減っていた、減りすぎていた」
「良いことじゃないんですか」東条が聞く。
「最初はそう思った。だが違った」城崎が画面を開く。古い統計、二十年前のもの。相談率、生活破綻率、未介入危機事例。その差が異様だった。
相談は減る。だが危機自体は消えていない。
「見えなくなった」神谷が静かに言った。
城崎は頷く。「そうだ。問題が消えたんじゃない。問題が表面化しなくなった」
沈黙が落ちる。東条も言葉を失っていた。
すでに兆候はあった。美咲より前、真壁より前、もっと前から、誰かが見ていた。そして見逃されてきた。
「報告したか」
城崎は乾いた笑い声を上げた。「もちろん」
引き出しから古い端末を出し、データを開く。タイトルは「長時間利用者群における介入依存傾向の検討」。
神谷は読む。
長時間利用者群では、感情安定と引き換えに
支援要請行動が低下する可能性あり。
原因不明。継続監査推奨。
神谷は息を止める。
二十年前。既に存在していた、美咲と同じ仮説、ほぼ同じ言葉。
「結果は」東条が聞く。
城崎の表情は動かない。短く答えた。「却下だ」
応接室が静かになる。「理由は?」
城崎は苦い笑いを浮かべた。「成功していたからだ」
その一言が重かった。全体改善、社会安定、犯罪減少、暴力減少、巨大な成果の中で、少数の違和感は誤差になる。しかもバグではない、最適化の結果だ。だから止まらなかった。
別れ際、城崎が言った。
「君たちに一つだけ言う」
神谷が振り返る。城崎の表情は真剣だった。
「真壁に会えたなら聞け。彼がなぜ消えたのかを」
「何かあったのか」
城崎は数秒黙った。そして小さく言った。「真壁は証明に近づいた」
神谷の表情が止まる。「何が危険だったんだ」
城崎は首を振る。「分からない。本当に分からない」
その顔は怯えていた。初めてだった。ここまで冷静だった男が、露骨に恐れを見せた。
偶然か、それとも一本の線なのか。その答えはまだ見えなかった。だが確かなことが一つある。美咲は最初ではない。二十年前から同じ違和感は既に見られていた。にもかかわらず止まらなかった。
そして今、神谷たちはその見逃しの果てに立っている。
施設を出る直前、神谷の頭にある疑問が戻ってきた。
城崎が最初に見た「効果が出すぎる人たち」。長期利用者の中でも特に深く入り込んだ一群。二十年前のデータでも、影響が出ていたのはその中の一部だった。
長時間利用だけでは説明しきれない。
その先に、何かがある。神谷はまだそれを言葉にできなかった。




