第4章 設計者
佐伯美咲の死から二週間。
本来なら、とっくに終わっている案件だった。
事件性なし、外傷なし、毒物反応なし、危険因子なし、生活評価良好、感情安定指数も正常、そして死因は依然として曖昧だった。急性循環器障害の可能性、だが断定材料なし。だから警察組織としては終わりだ、少なくとも正式捜査になる要素はなかった。
それでも神谷誠司は終われなかった。
理由は単純だった。調べるほど、説明が壊れていく。
警視庁資料室。午後七時、東条悠人が缶コーヒーを机へ置いた。
「まだ帰らないんですか」
神谷は返事をしない、モニターを見続けていた。
死亡事例一覧。佐伯美咲、そして類似事例。現在確認できた件数は十二件、二十代後半から四十代、地域も職業も違う。死因もばらばらで、病死推定、原因不明、急性障害、自然経過可能性と様々、共通点など本来ないはずだった。
だが神谷の目にはあった。全員、感情補正システムの長時間利用者。
「まだそれ見てるんですか」
「気になることがある」神谷はようやく口を開いた。
神谷は画面を指差した。AI対話時間、長、長、長、長。
「ヘビーユーザーですね」と東条が言う。
「そう見える。だが、それだけじゃない気がする」
東条が眉をひそめる。「それだけじゃない?」
神谷は別の統計を表示した。全国利用状況、感情補正システムの現在の利用率は九六・四%、ほぼ全市民だった。利用開始年齢は低い。学校教育、行政手続き、医療相談、仕事。生活のほぼ全てに補正支援が組み込まれている。
「ヘビーユーザーなんて珍しくない。もし利用時間が長いだけで影響が出るなら、今頃もっと多くの人間が同じ状態になってるはずだ」
東条は少し考える。「じゃあ偶然?」
「そう思いたい。だが違和感が残る」
東条が椅子を引いた。「聞きます」
神谷は画面を切り替えた。補正ログ件数、AI対話時間、介入率。新しいグラフが出る。
「これを見ろ」神谷は十二件の被害者平均値と全国平均の比較表を出す。
東条の表情が止まった。「……高い」
高すぎた。AI対話時間は全国平均の約三倍、補正ログ量は二・八倍、補正提案受諾率は九割超。利用時間だけではなく、何か別の数字まで突出していた。
「使いすぎ?」
「そうとも言えん」神谷は続ける。「仕事柄もある。美咲は利用分析担当だから、当然ログ量は増える。だが他の事例にも似た傾向がある。教師、福祉職、カスタマー対応、対人業務。感情負荷が高い職種だ」
東条が腕を組む。「でも普通じゃないですか? 感情安定のために使うシステムなんだし、たくさん使う人がいるのは自然でしょ」
正論だった、神谷も同意する。だから困っている、異常に見えない、合理的なのだ。
「問題はここだ」神谷が別画面を開く。研究資料、内部論文。タイトルは「補正適応最適化モデル」。
「適応?」
「利用者ごとに介入を最適化する仕組みらしい。AIが学習するんだ。どんな言葉で落ち着くか、どんな表現を嫌うか、どの程度の補正を受け入れるか。長く使うほど個別最適化される」
「便利ですね」東条が少し笑う。
神谷は返さない。便利、確かにそうだ、だから社会に浸透した。争いが減り、暴力も減り、コミュニケーション摩擦も減った。
だが神谷の目が、研究論文の脚注で止まる。普通なら読み飛ばす場所だった。神谷は拡大する。そして黙った。
「どうしました」
神谷は代わりに画面を向けた。そこにはこう書かれていた。
長時間利用者では、行動補正最適化が強化される傾向が確認される。
ただし有害性は確認されていない。
「長時間利用者?」東条が読む。
神谷は椅子にもたれた。その言葉が妙に引っかかった。長時間利用者、つまり長く使い続けた利用者。
「定義があるはずだ」と神谷が言い、検索を始める。数分後、別資料へ辿り着いた。
長時間利用者 定義:
・AI対話時間が一定以上
・補正ログ量が多い
・感情整理の大半をAIで行う
・補正提案の受諾率が高い
「美咲さん……」東条が呟く。
神谷は頷く。条件に合う、他の事例も、ほぼ一致していた。利用時間の問題ではなく、より深くAIへ関わった人間。
「でもこれ、欠陥じゃなくないですか?」東条が言う。「だって合理的です。AIって最適化するものじゃないですか、よく使う人ほど精度が上がるって普通ですよね」
神谷は少し黙った。その通りだった。ここが厄介なのだ。
もしこれがバグなら簡単だった。エラー、故障、欠陥。原因を切れば終わる。だが違う。これは正常動作の範疇に見える。システムが善意で利用者を最適化した結果、何か別の影響が起きている。そう考える方が自然だった。
「だから誰も問題にしなかったのかもしれん」神谷は静かに言う。
東条が黙る。長期利用、高満足、高安定、統計上は優良利用者。だから少数の異常は誤差として処理される、合理的だ。だが合理的だからこそ怖かった。
だがまだ、神谷の中に一つの疑問が残る。
長く使えば全員影響を受けるのか。それとも、長く使った上でさらに何か別の条件が重なるのか。十二件は多くない。全国のヘビーユーザーの数を考えれば、あまりにも少ない。
その疑問を、神谷はまだ声に出さなかった。証拠もない。確信もない。ただ、何かが足りない気がした。
「そういえば」東条がふと思い出したように言った。「開発者の資料、少し調べたんですよ」
「誰の」
東条が端末を操作した。画面中央に、一人の名前が現れる。
天城修司。
神谷は初めて、その名前を正面から見た。
天城修司。今の社会を生きる人間なら誰でも一度は目にしている名前だ。だが、意識して覚えている者は少ない。水道の仕組みを知らなくても水を使うように、通信規格の設計者を知らなくてもスマートフォンを使うように。感情補正システムもまた、当たり前になり過ぎていた。だからこそ、その設計者の存在は背景へ消えている。
東条が画面を操作する。巨大な組織図。企業、研究機関、行政委員会、大学、国際規格会議。その中心近くに、天城修司の名前がある。
神谷は目を細めた。「経歴がおかしいな」
「俺も思いました」東条が苦笑する。
異常な経歴だった。二十代後半で認証型感情解析理論を構築し、三十代前半に行政AI最適化、三十代後半に社会感情摩擦予測モデルを確立し、四十代に感情補正基盤を設計した。今の社会インフラの骨格がそのまま並んでいる。
「この人、今の社会の設計者みたいなもんです」東条が言う。
神谷は資料を読む。理論家、研究者、実務家。普通は両立しない。だが天城は全てをやっていた。それも成功している。犯罪率低下、暴力事件減少、学校内衝突減少、企業離職率低下、自殺率改善。統計上は圧倒的成果だった。
「救世主扱いか」
「うちの世代だと、教科書にも出てます」
神谷は眉を上げた。「そこまでか」
「"対立のコストを減らした人"って」東条が笑う。
神谷は少し黙る。対立のコスト、妙な言葉だ。確かに昔より怒鳴る人間は減った、暴力も、クレームも減った、社会は静かになった。穏やかになった、少なくとも表面上は。
神谷の脳裏に、美咲のメモが浮かぶ。
――助けを求める声が減っている。
それは改善なのか、それとも別の何かなのか。
「今は何してる」
「それが変なんですよ」東条の表情が少し変わる。「消えてる」
「死んだのか?」
「違います。生存記録はある、でも表に出てこない」
確かに妙だった。十年以上、公の場にほぼ出ていない。講演なし、インタビューなし、学会発表なし、名前だけが残っている。社会制度には影響を持ち続けているのに、本人だけが見えない。
「隠居じゃないか」
「そう思ったんですけど」東条が端末を切り替える。内部委員会記録、天城修司、出席。ただし全て遠隔参加、映像非公開、音声のみ。
「顔を出さない? 十年以上」
「変じゃないですか?」
神谷は即答しなかった。変と言えば変だ、だが巨大な権力者には珍しくもない。問題は、なぜ今その名前が気になるかだ。匿名送信者、長期利用者、十二件、そして十年前の技術設計。全てが微妙に接続し始めている。
資料室の自動照明が少し暗くなった。午後十時、閉館時間が近い。
東条が伸びをする。「でも神谷さん、天城が悪いって感じしませんよね」
「今のところはな」
「むしろ逆です、善人すぎる」
神谷は少し笑った。刑事らしくない感想だった、だが分からなくもない。資料を見る限り、天城は徹底して社会改善を目的にしている。理念も一貫している。対立を減らす。孤立を減らす、自傷を減らす、人を救う。悪意が見えない、むしろ過剰な善意の匂いがある。
神谷は知っている。厄介なのは悪意より善意だ、善意は止まりにくい、正しいと思っている人間ほど、間違いを疑わない。
その夜、神谷は帰宅せず資料室へ残った。一人で再び統計を見る。長期利用者、被害事例、利用傾向。何かが足りない、まだ決定的ではない、違和感はある、だが証明できない。刑事として最も嫌な状態だった。
端末へ通知が届く。新着メール、差出人不明。
まただ。匿名送信者、件名はない、本文は短かった。
長時間利用を追え
神谷は東条へ電話する。十分後、東条が息を切らして現れた。
「またですか」
神谷は画面を見せる。東条が読み、顔が変わった。
「長時間利用……」
神谷の頭に、あの時の添付資料が浮かぶ。長時間利用者介入深度分析。あの時は意味が掴めなかった。だが今、言葉が繋がる。
「さっきの仮説と一致する」
東条が椅子へ座る。「つまり、長く使えば使うほど、介入が強くなって……そこに偏りが出てる?」
神谷は答えない。まだ早い。だが仮説として筋が通り始めている。もしAIが「より長く使っている人」を優先的に深く介入していたなら、その先に何か別のことが起きる可能性はある。そしてそれは故障ではない、正常な動作の延長線上にある、だから誰も問題だと思わない。誰も気づかない、誰も疑わない。
ただ。
神谷はまだ引っかかりを消せない。長時間利用者は多い。なのに十二件だ。この少なさが、何かを示している気がした。
最後に添付ファイルがあることに気づき、開く。
一枚の画像だった。研究室らしい場所、数人の若い研究者、中央に一人の男。
神谷は見覚えがあった。天城修司。
その隣、別の男に赤い印がついている。
ファイル名。
Makabe_Archive_01
東条が画面を指差す。「これ、人名ですかね」
神谷は頷く。日本語読みにすれば「マカベ」、だが確信はない。
翌朝、照合した。行政認証データベース。感情補正関連企業、元在籍者、真壁遼。
天城修司と同じ研究室に、その名前があった。




