第3章 十二人
翌朝七時。
神谷は警視庁資料室にいた。昨日より早い、眠れなかったからだ。
机の上には佐伯美咲の手帳。そして東条から送られてきた簡易分析資料。十二件。自然死、病死、死因不明、本来なら交わることのない案件だった。
だが今、神谷の頭の中では一つの線になり始めている。
AI利用時間が長い人間、それが今の仮説だった。
全員が感情補正システムを使う、そこに差はない。違うのは使う時間だ。AI対話量、補正ログ量、セルフケア支援頻度、再編集回数、それらは利用時間が長いほど高い数字が出る、ヘビーユーザーほど最適化は進む。
もし本当にそこに偏りがあるなら、それは欠陥ではない。利用量の多さによって起きた歪みになる。だから気づかれない、だから誰も止めない。
「顔、死んでますよ」
東条だった。缶コーヒーを置く。
「十二件、比較終わりました」
神谷は画面を見る。年齢、性別、職業、利用歴、危険度、AI対話時間、補正ログ量、感情整理頻度、通信傾向、ずらっと項目が並んでいる。
神谷は少し目を細めた。「似すぎだな」
東条も珍しく笑わない。「ですよね」
全員、危険度正常、精神不安定要素なし、支援介入履歴なし、そして……AI利用時間が長い。
「この指標、一般と比べてどの程度だ」
東条が切り替える。一般市民との比較結果は明確だった。十二人の利用時間スコアは高い。平均以上というより、かなり上振れしている。
「まさにヘビーユーザーって感じですね。セルフケアAI使用率高、相談AI利用高、補正ログ量多い」
神谷は黙った。利用時間が長い。全員が同じ方向に振れている。
「だから企業側も問題扱いしないんでしょうね」
「なぜだ」
「システムの失敗じゃないからです」東条が続ける。「大半にはメリットしかない。むしろ安定化してる。犯罪減少、精神ケア改善、社会適応改善。ヘビーユーザーだけに偏るなら」少し止まる。「"使いすぎの問題"って扱われます。個人の利用習慣の問題で、システム側の責任にはならない」
神谷は窓を見る。合理的だ、あまりにも。だからこそ怖い。そこには誰の悪意もない、成功だ、数字も改善している。その中で少数異常は埋もれる、本格的に調べる理由はなくなる。
美咲が執着した理由も少し見えてきた、数字の向こう側を見たのだ。
午前十時。神谷は十二件の家族証言を再確認していた。
元気だった。むしろ落ち着いていた。最近安定していた。悩みは聞いていない。
神谷は目を閉じた。妙だ、あまりにも揃いすぎている。
普通なら、誰か一人くらい「苦しそうだった」と言う。人は壊れる前に軋むものだ。だから家族が気づく、恋人が気づく、友人が気づく、少なくとも何かが漏れ出す。
ところが今回は漏れていない。全員、異常が見えていない。
「神谷さん。ちょっと変なのあります」
東条が画面を出す。通信傾向比較、一般群と死亡群のグラフが並ぶ。
「接触頻度か」
東条が頷く。「変化がないんです」
極端な差はない、孤立もしていない、一定の数値が保たれている。家族、友人、コミュニティ、相談。全部の数値が保たれている。
「AIとばかり会話するなら、それ以外の時間は少なくなると思いませんか」東条が言う。「でも別に変わらないんです」
神谷は手帳を思い出す。美咲の言葉。
誰かが見えなくなっている。
その意味がさらに分からなくなる。孤立してはいない、つながりは残っている。つまり、確かにそこに人がいて、見えている。なのに何かが届かない。
「他に」
東条が少し迷う。「これはまだ微妙ですけど」
画面が切り替わる。自己否定表現量。
神谷は少し眉をひそめた。普通なら増える。精神状態が悪化する人間は「無理だ」「駄目だ」「消えたい」、そういう表現が増える。
ところが十二件は逆だった。減っている。緩やかに、だが確実に。
「おかしいな」
「普通じゃないです」東条も頷く。「苦しいなら増えるはずですよね」
神谷は黙った。
気持ち悪い、どうにも腑に落ちない。苦しみが消えているなら分かる。しかし、現に人は死んでいる、苦しみは消えていない、なのに表現だけが減っている。
AIを長く使うと、そういうことが起きるのか。神谷にはまだ説明できなかった。
午後。神谷は高橋直人を再び呼んだ。
前回の話が引っかかっていた。数字、伝わる……その意味を知りたかった。
平日昼のカフェ。高橋は少し疲れた顔だった。
「最近の美咲さん、変なこと言ってなかったか」
高橋は少し考え、視線を動かした。「ありました。相談の話です。"人ってちゃんと助けを求めてるのかな"って」
「どういう意味だ」
「俺も聞いたんですよ。でもうまく説明してくれなくて。ただ、"本当に困ってる人ほど静かになるなら怖い"って」
神谷は無言になる。美咲の仮説と繋がる。相談件数減少、危険通知減少、でも現場負荷は減らない。つまり問題は消えていない、ただ見えなくなっている。
「最近、AIとの会話を見返してました」高橋が続ける。
また同じだ。七海も言っていた。
「何を見てた」
「分かりません。でも、"私、最近ちゃんと話せてる?"って聞かれました」
伝わる、話せる、困ってる。どれも表現の話だ。なぜそこまで気にする。
神谷は最後に聞いた。「美咲さん自身、困ってたと思うか」
高橋は少し長く黙った。そして静かな声で言う。
「今思うと、困ってたのかもしれません。でも見えなかった」
その言葉だけが残った。
夕方。警視庁へ戻る途中、神谷は街を見ていた。
駅、広告、補正支援、感情最適化、穏やかな人々、怒号の少ない社会、誰もそれを疑わない。
だが、もし苦しみそのものではなく、苦しんでいるように見えないだけなら。
誰にも見えない、危険判定にも出ない、支援要請も減る、完璧な生活のまま死ぬ―――。
仮説が少しずつ形を持ち始めていた。AIを長く使う人間が、苦しみを表に出せなくなる。使えば使うほど深く最適化される。そしてある段階で、助けを求める言葉だけが届かなくなる。
だがまだ分からないことがある。なぜ長く使うだけで、そういうことが起きるのか。誰でも起きるのか。それとも一部の人間だけなのか。
神谷の端末が震えた。東条からだった。
美咲の社内アクセス履歴、変です。
死亡前2か月、監査領域ばかり見てます。
違和感がまた増えた。佐伯美咲は死ぬ直前まで、何かを調べていた。そして恐らく、何かを見つけていた。
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午後八時、警視庁資料室。
大半の職員は帰り、照明も半分落ちていた。
神谷と東条だけがそこに残っていた。机の上には美咲の手帳、十二件の比較資料、そして新たに取得した社内アクセスログ。
「これです」東条が端末を回す。
閲覧履歴のタイムラインが並ぶ。最初は普通だった。統計資料、利用分析、業務報告、どれも佐伯美咲の担当業務範囲、何も問題ない。
だが死亡二か月前から変わる。神谷の目が止まった。
監査領域。一般分析担当では通常見ない場所だった。
「見すぎだな」
「異常です」東条も頷く。「何を見てるか詳細を出しますね」
ファイル名が並ぶ。支援要請推移分析、長期利用者比較、感情補正強度変化、危険通知精度検証。
神谷の視線が鋭くなる。長時間利用者比較。その言葉が目に入った。
「他には」
「変なのがあります」東条が画面を切り替える。「社内実験ログです。補正精度評価用の匿名研究群があって、個人特定はできないけど表現変化の傾向だけ見られます。怒り、悲しみ、不安、攻撃性、自己否定、そういった統計です」
東条が一項目を拡大する。支援要請表現率。下降している。長期的に、ゆっくりと、だが確実に。
「一般群です。少し下がってる」
神谷は頷く。社会安定の結果だろう。問題は次だった。
東条はAI利用時間が特に長いユーザーへ絞った表示へ切り替える。
神谷の表情が止まる。落ち方が違う。急ではない、だが深い。そして特定の言葉群だけが顕著だった。
相談したい。
助けて。
限界。
苦しい。
誰か聞いて。
東条が小さく言った。「これ、気持ち悪くないですか」
神谷は答えない。ただ胸の中に冷たいものが落ちていく。
美咲の仮説、十二件、危険度正常、相談減少、自己否定減少―――、全部が少しずつ繋がる。
もし感情補正が、苦しみそのものではなくSOSだけを弱めるなら、支援件数は減り、相談件数も減る。
でも問題は消えない、誰にも見えなくなるだけだ。
神谷は手帳を開いた。最後の方、乱れた文字。
本当に困っている人ほど静かになる?
違う。
静かにされている?
神谷は目を閉じた。危険な仮説だ、大きすぎる、社会基盤への疑いだ。だからこそ反証が必要になる。強い疑いほど、まず潰す。
「証拠にならん」
「分かってます」東条も頷く。「ただの傾向です、因果関係もない、まだ偶然で説明できます」
合理的な答えだった。だから神谷も少し安心した、東条は意外と慎重だ。
「他の説明は」
「時代変化、若者文化、AI相談への移行、自己開示傾向の変化、社会安定。全部説明できます。全部もっともらしい仮説です」
つまりまだ勝負にならない。仮説はある、だが証拠がない。そして、もう一つ分からないことが残っている。
もし利用時間が長いだけで影響が出るなら、今頃もっと多くの人間が同じ状態になっているはずだ。ヘビーユーザーは珍しくない。なぜ十二件だけなのか。なぜ全員ではないのか。
神谷は立ち上がる。「現場を見る」
「現場?」
「十二件だ。できるだけ近い案件」
東条はため息をついた。「はいはい」
翌日。神奈川県、小さな住宅街。
三十二歳男性、自然死扱い、死因不明、危険度正常、AI利用時間長。
神谷たちは管理人立ち会いで部屋へ入る、まだ次の住人は決まっていないらしい。
当時の記録に目を通す。
静かだった、整っている、異様なほどに。冷蔵庫には少量の食材、洗濯物も畳まれていた。
生活は崩れていない。酒も少ない、薬もない、ゴミもない。
東条が呟く。「普通ですね」
神谷は答えない。普通すぎる。
刑事は知っている。壊れる人間の部屋には痕跡がある。荒れ、乱れ、放置、生活崩壊。だが、そういったものを示すような記録は、何一つ存在しない。
ふと神谷の視線が、一枚の捜査記録に吸い寄せられる。紙、メモ帳、何気ない走り書き。
仕事少しきつい
最近疲れる
誰かに話そうかな
普通の言葉だった。だが次のページ。消されている、筆圧だけ残っている。
神谷はタブレットを斜めに傾けた。東条が横を見る。「読めます?」
神谷は画面を拡大し、少し目を細める。微かに見えた。
助けて
東条が黙る。神谷も動かなかった。
短い。ただ一言、誰にも送られていない、誰にも届いていない。
管理人が後ろから言う。「変な人じゃなかったですよ」
二人が振り向く。
「普通です。優しかったし、落ち着いてました。元気そうでした」
「悩みは」
管理人は首を振る。「見えませんでしたね」
神谷はメモ帳を見る。助けて。そこにある、でも誰にも見えていない、誰にも届いていない声―――。
そして神谷はふと、管理人の言葉を繰り返した。「元気そうでした」
「ええ。むしろ落ち着いてたんですよ。前は少し荒れた感じもあったのに、それもなくなって」
神谷の手が止まる。「荒れた感じ?」
「怒ったり、独り言言ったり、そういうやつです。でも最近はそれもなくなって。AIの相談サービスのおかげですかね、ってそん時は思ってたんですよ」
神谷は東条と視線を合わせた。東条も気づいている顔だった。
荒れが消えた時期と、AI利用が増えた時期が重なる。そしてその後、助けを求める声も消えた。
だがまだ分からない。荒れが消えたのは本当に回復だったのか。それとも、表現が失われただけなのか。
帰りの車。東条が珍しく静かだった。しばらくして、ぽつりと言う。
「神谷さん。俺、ちょっと嫌なこと考えました」
神谷は前を向いたまま聞く。「何だ」
東条は窓を見る。「もし長く使えば使うほどSOSが弱くなるなら」
神谷は待つ。
東条が言った。「誰も悪くないですよね」
その言葉が残った。
確かにそうだ。システムは成功している、企業も悪意ではない。政府も、医療も、利用者自身も、そして家族も。誰も気づけない、気づく材料がない、だから助けられない。
それが一番怖かった。
だがまだ一つ、引っかかりが残る。
ヘビーユーザーは多い。なのになぜ、影響が出るのは一部だけなのか。利用時間だけが原因なら、もっと広く出るはずだ。神谷はその疑問を頭の片隅へ置いた。答えはまだない。だが、この問いが重要になる気がした。
夜。警視庁で神谷が資料を整理していた時だった。
端末へ通知が入る。差出人不明。
神谷の目が止まる、開く。そこには短い一文が記されていた。
深さを見ろ。
その下に添付ファイル。
東条が覗き込む。「……誰ですかこれ」
神谷も分からない、だが添付には内部資料があった。
長時間利用者介入深度分析
神谷の鼓動が少し速くなる。
長時間利用者。今まで追っていた仮説の、さらに内側を指している。深さ。利用時間だけではなく、介入の深さ。その違いが何かを示している可能性があった。
誰かが、こちらを見ている。そして誘導している。美咲が見た場所へ。




