第2章 違和感
午前七時四十分。
神谷誠司は警視庁資料室の端末前にいた。
前日の帰宅後、結局ほとんど眠れなかった。頭から離れなかったのは、佐伯美咲の最後だった。問題なし。危険度正常。生活安定。それなのに死んだ。
刑事として、似た案件を見たことはある。人は突然死ぬ。理由なく人生が終わることもある。だから違和感だけで事件を疑うほど、神谷は若くない。
ただ。今回の違和感は少し質が違っていた。
AI利用時間が多い。それが引っかかっている。
だが神谷はすぐ自分を止めた。仕事柄だ、補正ログを扱う部署なのだから、ログ量が多いのは当然だ。東条もそう言っていた、理的な説明がある、だから今は保留にする。刑事は根拠のない先入観で動いてはいけない
。
神谷は申請していたデータを開いた。
感情補正ログ開示記録。
通常なら警察が簡単に見られるものではない。だが死亡案件に限り、一部権限が認められている。もちろん全面開示ではない。個人の感情内容そのものは保護対象だ。見られるのは概要、利用傾向、補正頻度、AI対話量、危険判定、そして一部監査ログだけだった。
神谷は一覧を見た。
佐伯美咲。年齢二十六。AI利用時間:高。危険度推移:安定。介入警告:なし。医療誘導:なし。緊急通知:なし。
画面をスクロールして、止まる。
補正介入強度:高。
「……高い?」
独り言が漏れた。
「朝から何見てるんです?」
後ろから声がした。東条悠人だった。コンビニ袋を持っている。朝食らしい。
神谷は画面を向ける。東条の顔が少し動いた。
「あー。利用量多いですね」
「介入強度が高い。何が違う」
東条は隣へ座り、自分の端末を操作した。簡単な比較図が出る。一般利用者と多利用者。差は明確だった。
「使えば使うほど介入が増えるんですよね」東条が言う。「AIって使えば使うほど、その人への最適化が進むんで。毎日長時間使ってれば、介入量も増えますよ」
「それが問題になるのか」
東条はすぐ首を振った。「ならないです。今はむしろ積極的な利用者ほど安定群とされてます。感情整理が上手い、社会適応率も高い、企業評価も高い、リスク低下にも繋がる」
東条は少し笑った。「会社からしたら理想的な利用者ですね」
神谷は画面を見た。
理想。またその言葉だ。理想的な生活。理想的な評価。理想的な危険度。理想的な死。
何かがおかしい。
神谷は別項目を開く。補正傾向分析。グラフが出る。穏やかな下降線。
「これは何だ」
東条が覗き込む。「感情強度ですね。文章とか音声の表現量、怒り・不安・衝動、その波形です」
確かに下がっていた。だが極端ではない。緩やかで、自然な範囲にも見える。
「まあ普通ですよ。年齢でも落ちるし、仕事で安定しても落ちます。大人になると感情って丸くなるんで」
合理的な説明だった。神谷も理解できる。だが少し気になる。
「死亡前だけ見ろ」
東条が期間を絞る。最後の一年。半年。三か月。
神谷の視線が止まった。
下降が急になっている。微妙だ。だが確かに変わっている。
東条も少し黙る。「……疲れてたとか?」
「根拠は」
「いや」東条は困った顔をした。「危険判定出てないんですよ」
神谷は画面を見る。確かにゼロだった。異常なし。支援不要。正常範囲。全部そうなっている。
つまり、システムは問題なしと判断した。にもかかわらず、人は死んでいる。
「他の類似例を出せ」
東条が顔を上げる。「類似?」
「若年突然死。危険度正常。生活安定」
東条は少し嫌そうな顔をした。「始まった」
神谷は無視した。
東条は肩をすくめながら検索を始める。数分後、一覧が出た。十件、二十件、三十件。だが神谷はすぐ閉じた。違う。数が多すぎる。突然死自体は珍しくない。比較対象が雑だ。
「条件を絞る。AIヘビーユーザー。二十代後半から四十代」
東条が呆れた顔をした。「これじゃあまるで、個人的捜査の職権乱用ですね」
「文句言う暇あるなら動け」
東条はため息をつく。「はいはい」
だが、少し楽しそうでもあった。神谷の勘が当たる時を、何度も見ている。
一時間後。東条が顔をしかめた。
「変ですね」
「何がだ」
「件数少ないです」
一覧は十二件、範囲は過去三年分。思ったより少ない。だが神谷の目が止まる。三年前の大学生死亡案件も含まれている、そして、共通点があった。
AI利用時間:多。補正ログ量:多。危険度正常。自然死・病死・原因不明。
そして、周囲証言。
問題なかった。元気だった。普通だった。
また普通だ。
東条が小さく言う。「似てますね」
神谷は頷かなかった。まだ早い、刑事はパターンに酔うと負ける、偶然は何度でも起きる、だから反証する。
「補正ログ比較」
東条が出す。数分後、グラフが並んだ。
神谷の表情が少し止まった。
全員。死亡前数か月。同じように下がっている。感情強度が。急ではない、緩やか、しかし確実に。そして奇妙なことに、危険判定は全員正常だった。
東条が呟く。「これ、偶然ですかね」
神谷は答えない。まだ分からない。だが一つ気になる。
「中身が欲しいな」
「補正内容?」東条の即答だった。「無理ですよ、監査領域です。しかも個人情報……裁判令状でも難しい」
神谷は舌打ちした。そこが見えない。何が補正されたのか、何が変わったのか、それが分からない。
その時だった。端末へ通知が入る。
佐伯美咲 遺品確認完了。
神谷は画面を開いた。衣類。端末。私物。そして。
紙媒体:手帳一冊。
神谷の目が止まる。「東条」
「はい?」
「妹に連絡入れろ」
「何でです」
「死ぬ人間は、時々紙に本音を書く」
東条は笑った。「昭和ですね」
「うるさい」
だが神谷は本気だった。AI社会になっても、人間は全部をシステムへ預けない。どこかに、補正されない言葉を残す。それを刑事は何度も見てきた。もし本当に何かがあったなら、そこに痕跡が残る。
神谷は窓の外を見る。
東京は今日も静かだった。怒鳴り声は少ない。争いも少ない。暴力も減った。感情補正システムは成功している。誰もがそう言う。実際、その通りだ。
それでも。成功した社会ほど、小さな異常は埋もれる。誰も疑わないからだ。
神谷は小さく呟いた。「お前、何を見つけた」
もちろん返事はない。だが、AI利用時間が長いだけで偶然死んだとは、少しずつ思えなくなっていた。
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午後六時十二分。
神谷誠司の端末が震えた。発信者、佐伯七海。神谷はすぐ応答した。
「神谷です」
数秒の沈黙。そして。
『あの……少し時間ありますか』
七海の声だった。だが前回より緊張している。迷っている声だった。
神谷は駅へ向かう途中だったが足を止めた。「どうした」
七海が少し息を吸う。『ご連絡いただいた件です』
「それで」
また沈黙。そして。
『確かに書いてありました』
神谷の表情が止まる。
『手帳です。紙の』
紙媒体。今では珍しい。全員が記録AIを使う時代だ。予定も、感情整理も、対話ログも、多くはデジタル化されている。それでも完全には消えない、紙にしか書けない言葉がある。
「全部見たか」
『少しだけ』
「何が書いてある」
七海が迷う。『……意味が分からないんです』
「今から会えるか」
『はい』
「前と同じ場所で」
午後七時。警視庁近くの喫茶店、窓際の席に七海がいた。前回会った時よりも疲れて見え、その腕には封筒を抱えていた。
神谷が座る。「それか」
七海が頷いた。
黒い手帳、表紙に年数が箔押しされているだけの、ごく普通の市販品。端が少し擦れていて、かなり使い込まれているように見受けられる。
神谷は受け取り、開く。
最初のページは普通だった。仕事予定、会議、買い物メモ、映画、外食記録。ごく普通。
だが三分ほど読み進めたところで、空気が変わる。文字量が増えている。何かのメモか、多くが数字によって埋め尽くされている。統計、割合、比較。
神谷の指が止まった。
相談件数減少。
支援利用率減少。
危険通知減少。
良いことのはず。
でも現場負荷が減っていない。
神谷はページをめくる。
AI利用時間は増えている
AI利用時間が長い人ほど、相談が減る?
なぜ?
さらに。
数字と現実が一致しない。
神谷は黙った。
七海が不安そうに聞く。「何か分かりますか」
「まだだ」
これは仕事メモではない、違和感の記録だ。しかもかなり具体的だ。そして美咲が辿り着いた仮説は、神谷が今朝から考えていたことと重なっていた。AI利用時間が長い人間。そこに偏りがある。
神谷は聞いた。「姉さん、最近変わったこと言ってなかったか」
七海は少し考えた。「……ありました。AIの話です」
「どんな」
「"ちゃんと話してるつもりなのに、伝わってない気がする"って」
神谷の指が止まる。
高橋も、七海も、同じ話をしていたのを思い返す。
「他には」
七海は俯いた。「最近、会話ログを見返してました。AIとの会話を、何度も、何度も……。姉、急に聞いてきたんです」
『私って最近、言い方変わったと思う?』
七海は続ける。「私は分からないって言ったんです、そしたら」
七海は少し迷った。
『ちゃんと困ってるって言えてるかな』
神谷の視線が止まる。
困ってる。言えてる。妙な表現だ。普通なら「最近しんどい」「相談したい」とそう言う。だが美咲は、伝わるかどうかを気にしている。なぜだ。
神谷は手帳を読み進めた。最後の方で、文字が急に荒くなる。筆圧が強く、かなり乱れている。
AI利用時間が長い人ほど深刻相談が減る?
相談件数?
対話時間?
補正ログ量?
これは偶然?
それとも……
神谷の眉がわずかに動いた。
利用時間。今朝から引っかかっていた数字が、手帳の中にもあった。美咲は同じ場所を見ていた。
七海が聞いた。「姉、何か危ないことしてたんでしょうか」
神谷は答えない。まだ分からない。だが少なくとも、仕事の範囲を超えている。ここまで個人分析を追うのは異常だ。神谷自身の悪癖に、少し似ていた。
「手帳、預かる」
七海は頷く。少し安心した顔だった。「お願いします」
しばらく沈黙してから、七海は俯いた。
「姉、助けてって言う人じゃなかったんです」
神谷は何も言わない。
「でも、今思うと……言ってたのかもしれない」
その言葉が少し残った。
帰り道。神谷は電車に揺られていた。手帳を読み返す。
AI利用時間、相談件数、補正ログ量。
神谷は窓の外を見る。巨大広告が流れる。
〈あなたの感情を最適化〉
〈AIが寄り添います〉
〈無理を一人にしない〉
正しい言葉だった。現実に救われている人も多い、だから誰も疑わない。もし何か起きても、それは個人差として処理される。利用習慣の差、それで終わる。
システム自体は成功している。大多数には有益、しかも「ヘビーユーザー」だけに偏るなら、使いすぎによる問題として扱われる、合理的だ。
だが合理性は、ときどき真実を埋める。
その時、端末へ通知が入る。東条からだった。
例の12件、共通点出ました。
全員、AI対話時間、特に相談時間が長めです。
神谷はホームで足を止めた。背中を冷たいものが落ちる。
偶然。そう、まだ偶然かもしれない。だが点は増えている。美咲、十二件、AI利用時間、感情強度低下、危険判定正常。そして、助けを求める言葉。
神谷は短く返信した。
明日、全部見る。
送信してから、ふと手帳を開く。最後のページ。そこだけ、文字が小さかった。急いで書いたのか、乱れた文字で記されている。
もし勘違いならいい。
でも違うなら。
誰かが見えなくなっている。
電車が到着する。人が静かに乗り降りする、誰も怒らない、誰もぶつからない、誰も感情を荒げない。
理想的な社会。
それなのに。
神谷は初めて、少しだけ息苦しさを覚えた。




