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静音化  作者: なうなり
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第1章 正常

午前五時四十八分。


東京の空は、まだ夜の色を残していた。


東の地平線だけが薄く白み始め、高層ビル群の輪郭を冷たい灰色に浮かび上がらせている。道路には清掃車と配送車がまばらに走り、歩道を行く人影も少ない。街は眠っているようで、それでいて完全には眠っていない。


この都市は、眠っている間も記録されている。


通信、移動、決済、健康状態、行政手続き、学校連絡、医療相談、職場の勤怠、家族への短い返事。


そして感情。


警視庁捜査一課の刑事、神谷誠司は覆面パトカーの助手席で、窓の外を眺めていた。


四十二歳。刑事として二十年近く働いている。


若い頃は、事件の匂いというものを信じていた。現場に残る空気。嘘をつく者の呼吸。家族の沈黙。何も語らない部屋の乱れ。そういうものに意味があると思っていた。


今は違う。


今の刑事は、まず記録を見る。人がどこへ行き、誰と話し、何に怒り、何を恐れ、どの言葉を送ろうとして、どの言葉を送ったのか。ほとんどすべてが、何らかの形で残る。


それでも神谷は、ときどき思う。


残っているものが、真実とは限らない。


「被害者は佐伯美咲さん。二十六歳です」


運転席の若い巡査が言った。


「職業はエモーション・アーキテクト社勤務。利用分析部所属」


神谷の視線がわずかに動いた。


「エモーション・アーキテクト」


「はい。感情補正基盤の中核企業です」


知らない者はいない。


感情補正システムは、もはや特別なサービスではなかった。十数年前のように、任意で入れる補助アプリでもない。行政、医療、教育、企業通信、公共交通、緊急通報、家族間メッセージ。そのほとんどに標準搭載されている生活基盤だった。


人は毎日、それを使う。正確に言えば、使っている意識すらなく使っている。


怒りすぎた言葉は少し柔らかくなる。過度に攻撃的な表現は言い換えられる。相手を追い詰める語尾は緩和される。深夜の衝動的な投稿は、送信前に確認画面が挟まれる。


それは検閲ではない、と説明されていた。


感情の翻訳。社会的摩擦の低減。自己調整の支援。


実際、効果はあった。暴言は減った。誹謗中傷も減った。家庭内の衝突も、学校でのいじめも、企業内のハラスメントも、数字の上では改善していた。自殺予測システムとの連携により、危機介入も早くなったとされている。


「利用分析部で、何をしていた」


神谷が聞く。


巡査は画面を指で送った。「補正ログの統計監査です。市民の通信や相談記録そのものではなく、補正の発生量、強度、再編集率、対話時間、介入後の行動変化を分析する部署のようです」


「個人情報には触れるのか」


「原則匿名化されています。ただし、監査権限があれば一部の個別履歴を参照できます」


「優秀だったのか」


「かなり。社内表彰が複数あります。異常値検出の精度改善、補正強度評価モデルの再設計補助、利用者行動分類の監査……」


巡査は少し顔をしかめた。「すみません。専門用語が多くて」


「構わん」


神谷は窓に映る自分の顔を見た。疲れた顔だった。


「家族は」


「妹が一人。佐伯七海さん。二十三歳」


「交際相手」


「あり。高橋直人、二十七歳。交際期間二年半。関係性評価は良好」


「健康状態は」


「直近の医療ログでは異常なし。睡眠状態も安定。勤務ストレス指数も許容範囲内」


「AI危険度評価は」


「総合危険度ゼロです」


神谷は何も言わなかった。


ゼロ。きれいな数字だった。人間に使うには、少しきれいすぎる。


「自殺リスク、攻撃性リスク、急性ストレス反応、対人トラブル予測、全部低値です。むしろ安定群ですね」


「安定群」


「はい」


「AI利用時間は」


「平均より多いです。相談支援AIの利用頻度、感情整理ログ、補正ログ量、全部高めです」


神谷はそこで少し眉を動かした。「どの程度だ」


「かなり多いです。ヘビーユーザーと言っていいと思います」


「仕事柄もあるか」


「そうですね。補正ログを扱う部署ですから」


神谷は窓の外に視線を戻した。仕事柄。それは合理的な説明だった。だから今は気にしない。ただ、頭の片隅に小さく残した。利用時間が多い。ただそれだけのことが、なぜか引っかかった。


パトカーが交差点を曲がった。街路樹の葉に朝の光が薄く差し始めている。


「自然死っぽいですね」


巡査が言った。


神谷は答えなかった。


三年前なら、同じ言葉に頷いていたかもしれない。だが今は違う。


三年前、大学生の死亡案件があった。危険度評価ゼロ。自殺リスクゼロ。通信ログ正常。支援要請なし。家族との関係良好。友人との会話も穏やか。だから誰も深刻に受け止めなかった。


発見されたのは一週間後だった。


狭いアパートの浴室。死因は最後まで曖昧だった。他殺の証拠はない。自殺とも断定できない。事故とも言い切れない。


部屋には紙のメモが一枚だけ残されていた。震える字で、こう書かれていた。


――誰か助けて。


だが、その言葉はどのログにも存在しなかった。誰にも送られていない。送ろうとした痕跡も見つからない。


当時の結論は単純だった。本人が紙にだけ書いた。それだけ。神谷もそう処理した。


だが今でも、完全には納得していない。


記録にない言葉は、存在しなかったことになるのか。それとも、どこかで記録される前に形を変えられたのか。


パトカーが減速した。


「着きました」


八階建ての新しいマンションだった。外壁は白く、入口には顔認証、歩容認証、居住者端末照合の三重ロックがある。エントランスの壁面には住民向け通知が流れていた。


〈本日の感情負荷指数は低めです〉

〈穏やかな一日を支援します〉

〈強い不安や衝動を感じた場合は、いつでもAI相談をご利用ください〉


どれも柔らかな言葉だった。刺激を避け、恐怖を避け、衝突を避ける。この社会の文章は、年々似た顔になっている。


制服警官が神谷たちを待っていた。


「神谷さん、こちらです」


エレベーターに乗る。八階へ向かう箱の中は静かだった。モニターには防犯情報と健康管理アドバイスが交互に表示される。


〈睡眠不足は感情判断に影響します〉

〈不快な言葉を受け取った際は、返信前に三十秒置きましょう〉


神谷は表示を見つめる。正しい。何も間違っていない。だが、正しい言葉ばかりの社会は、時に奇妙な圧を持つ。


扉が開いた。廊下の奥に規制線が張られている。


佐伯美咲の部屋は八〇二号室だった。ワンルーム。南向き。家賃は高いが、若い社員が住めない額ではない。


神谷は靴を履き替え、室内に入った。


最初に感じたのは、静けさだった。


人が死んだ部屋に特有の荒れや乱れがない。床には物が落ちていない。キッチンは清潔で、洗い物もない。テーブルにはコップが一つ。観葉植物には水が与えられている。ベッドは整えられていた。


生活感はある。だが乱れがない。整いすぎている。


鑑識主任が近づいてきた。


「おはようございます」


「状況は」


「死亡推定時刻は昨夜十一時から午前一時の間。発見は今朝五時十二分。会社の出勤前健康確認に反応がなく、妹さんへの自動確認も未応答。その後、管理会社と警察へ通知が入りました」


「死因は」


「現段階では急性循環器障害の可能性。ただし断定不可」


「外傷はないか」「なし」「薬物は」「簡易検査では反応なし」「争った形跡は」「なし」「侵入者は」「認証記録上はなし。玄関、窓、非常経路、すべて異常なし」

神谷は頷いた。


あまりにも滑らかに、事件性が消えていく。


「来客履歴は」


「昨夜はゼロです」


「通信履歴」


「最終送信は二十二時四十一分。交際相手へのメッセージです。内容は後ほど」


「感情異常通知は」


鑑識主任は一瞬だけ目を上げた。「ありません。危機感情検出、急性ストレス反応、自己危害予測、すべて発報なしです」


「補正ログは」


「提出待ちです。会社側にも関わるので少し時間がかかるそうです」


神谷はそこで初めて、部屋の中央へ視線を向けた。


佐伯美咲は、床に横たわっていた。白い部屋着。仰向けに近い姿勢。片手が胸のあたりに置かれている。顔に苦悶はない。目は閉じられている。


眠っているようだった。


それが逆に、神谷には気になった。苦しまずに死ぬことはある。突然死なら、そう見えることもある。だがこの部屋には、死の直前に起きたはずの小さな乱れすら少なすぎた。手を伸ばした跡。倒れ込んだ拍子のずれ。助けを求めようとした端末。そういうものが見当たらない。


神谷はしゃがみ込んだ。爪。手首。首筋。唇。目元。外傷はない。抵抗痕もない。


「発見時、端末は」


鑑識主任がデスクを指した。「そこです。充電台に置かれていました」


神谷は立ち上がり、デスクへ向かった。仕事用端末と私用端末。どちらも整然と置かれている。私用端末の画面には、睡眠前のセルフケア通知が残っていた。


〈本日の会話負荷は平均より高めです〉

〈休息前に三分間の感情整理を行いますか〉


その下に、実行済みの表示。


「会話負荷は高め?」


「職場でのやり取りが多かったようです。ただ異常値ではありません」


神谷はデスク周りを見る。写真立てが一つあった。若い女性二人が笑っている。佐伯姉妹だ。美咲と七海。


写真の中の美咲は、よく笑っていた。目元に熱があり、表情に揺らぎがある。誰かに合わせた笑顔ではなく、思わず笑ってしまったような顔だった。


神谷は遺体の顔を思い出す。


穏やかすぎる死顔。そして写真の笑顔。同じ人物なのに、どこか遠い。


「神谷さん?」


鑑識主任が声をかける。


「いや」


神谷は写真立てを元に戻した。気のせいだ。そう言い聞かせた。だが、気のせいという言葉を、神谷はあまり信用していない。


部屋の本棚には、統計解析、行動科学、AI倫理、認知心理学の本が並んでいた。若い社員の趣味としては専門的すぎる。付箋が多い本もある。


神谷は背表紙を追った。


『感情介入と社会適応』 『行動予測モデルの監査』 『AI選択バイアス入門』


その一冊で指が止まった。


選択バイアス。一般の刑事が気にする言葉ではない。だが被害者は、その言葉を仕事にしていた。


「会社のIDカードは」


「デスク右です」


神谷はカードを見た。


佐伯美咲 Emotion Architect / 利用分析部 / 補正応答監査班


「補正応答監査班?」


鑑識主任も知らないようだった。「利用者の反応を見る部署らしいです」


神谷はカードを見つめた。補正される言葉。補正を受け入れる人間。補正に適応していく人間。その差を、彼女は見ていた。


「最後のメッセージを見られるか」


鑑識主任が端末を操作する。「交際相手への送信文です」


画面に短い文章が表示された。


〈今日は少し疲れました。明日は予定通りで大丈夫です。おやすみなさい〉


自然な文面だった。何もおかしくない。むしろ、落ち着いている。


「送信前の下書きは」


「通常権限では見られません」


「残るのか」


「補正ログとしては残る場合があります。ただ、個人の感情データ扱いになるので、開示には手続きが必要です」


神谷は頷いた。


今の社会では、人が送った言葉は簡単に見られる。だが、送ろうとしてやめた言葉、AIに言い換えられた言葉、本人が補正案を受け入れる前の言葉は、むしろ慎重に守られている。それはプライバシーのためだった。人が一瞬だけ抱いた怒りや恐怖や弱さを、永遠の記録として暴かないため。


正しい制度だ。


だが、と神谷は思う。そこにしか真実がなかった場合はどうする。


部屋の空調が静かに動いている。窓の外では朝日が昇り始め、東京の街が少しずつ明るくなる。


神谷はもう一度、室内を見回した。


完璧な記録。完璧な認証。完璧な生活。危険度ゼロ。健康異常なし。交際関係良好。家族関係良好。職場評価良好。そしてAI利用時間が多い。


そのすべてが、彼女は問題ないと示している。


だが、彼女は死んでいる。


記録が正しいなら、死だけが間違っている。死が正しいなら、記録のどこかが間違っている。


神谷は、その矛盾を静かに胸の内へ沈めた。


まだ事件ではない。まだ疑う材料も少ない。だが、本格的な事件というものは、最初から事件の顔をしていないことがある。一見すると何もない。何もないから、見落とされる。そして見落とされた空白の中にだけ、真相が残る。


神谷は佐伯美咲の顔を見た。


穏やかな死顔。穏やかすぎる死顔。


その静けさが、なぜか彼には、声にならなかった叫びのように見えた。


---

午前九時二十分。佐伯美咲の妹、佐伯七海が到着した。通されたのはマンション一階の管理室だった。


神谷は先に資料へ目を通していた。


二十三歳。大学院生。姉とは別居。緊急連絡先。週に一度は会っていた記録がある。家族関係スコアは「安定」。


七海が入ってきた。白いシャツに黒いカーディガン。目が赤かった。眠っていないのだろう。それでも泣き崩れてはいない。感情を抑えているというより、現実がまだ身体へ追いついていない顔だった。


神谷は立ち上がる。「神谷です」


七海は小さく頭を下げた。「……姉は」


声が途中で止まる。


神谷は静かに答えた。「確認中です」


七海は椅子に座った。指先が少し震えている。神谷は資料を閉じた。


「少し聞かせてください」


七海は頷いた。


「最近、変わった様子はありましたか」


沈黙。そして。


「……普通でした」


神谷は心の中で小さく息を吐く。


普通。誰もが使う。そして刑事が最も信用しない言葉の一つでもある。


「仕事の悩みは」


「忙しそうではありました……ただ」


七海は少し迷う。「姉、仕事の話をあまりしない人だったんです」


「最近でも?」


「はい」


「交際相手との関係は」


「良かったと思います」


「喧嘩は」


「聞いてません」


神谷は質問を少し変えた。


「眠れていなかったとか、食欲が落ちていたとか、様子がおかしいとか」

七海は首を振る。「ありません」


そして少し間を置いて付け加えた。「……むしろ元気でした」


神谷は顔を上げた。「元気?」


七海は戸惑うように言葉を探す。「変なんです。亡くなる人って、もっと……」


言葉が見つからない。神谷が続きを待つ。


七海は俯いた。「苦しそうだと思ってました。でも姉、普通だった。むしろ、少し落ち着いてた気がします」


神谷は黙った。


言葉だけなら、何も異常ではない。人は死の直前まで普通に見えることがある。だから刑事は「印象」を証拠にしない。


ただ。何かが引っかかった。


「仕事で大きな変化は」


七海は少し考える。「……あ」


「何だ」


「最近、AIと話す時間が増えてました」


神谷の視線がわずかに動いた。「AI?」


「相談支援です」


七海は言った。「感情整理モードみたいな」


「珍しいことか」


「姉は元々よく使う方でした。でも最近はさらに増えてた気がします」


「もともと多かったのか」


「はい。学生の頃から。姉、感情の整理が得意じゃなくて……傷つきやすいところがあったので、AIに話すのが一番楽だって言ってました」


神谷はそこで少し止まった。傷つきやすい。AIに話すのが楽。その二つが並んだ。


「悩んでいた?」


七海は少し考え、首を振る。「分からないです。ただ」


また言葉が止まる。「何だ」


「何か、確認してる感じでした」


「確認?」


「うまく言えないんですけど……」


七海は自分でも説明できないようだった。「姉、よくAIと会話しながら、あとで自分の言葉を見返してたんです」


「仕事か?」


「たぶん。でも」


少し迷う。「『ちゃんと伝わってるかな』って、言ってたことがあります」


神谷の眉がわずかに動いた。「何が」


「分かりません」


七海は力なく首を振った。「聞いても、笑ってごまかされました」


管理室の時計が静かに進む。


神谷はメモを取った。小さい。小さすぎる違和感だ。今の段階では意味がない。だが刑事の仕事は、意味がないものを捨てずに積むことでもある。


「姉の私物を確認しても?」


七海はすぐ頷いた。「お願いします。何か見つかるなら」


その言葉の最後が少し震えた。


神谷は立ち上がった。「後でまた話を聞くかもしれません」「はい」


七海は小さく頭を下げた。その顔に混乱はある。悲しみもある。だが、強い後悔の色が見えない。気づけなかった者の顔ではなかった。なぜなら、気づくべき兆候を見ていないからだ。


それは逆に、神谷には奇妙だった。


もし本当に深刻な問題を抱えていたなら。何か一つくらい漏れる。家族に。恋人に。友人に。人間は、そう簡単には完璧に壊れない。壊れる前に、どこかが軋む。そして普通は、誰かが聞く。「大丈夫?」と。


なのに今のところ、誰も何も聞いていない。


なぜなら。誰も異常を見ていない。


---

昼過ぎ。神谷は東条悠人と合流した。


三十歳。頭の回転は速い。情報解析にも強い。ただし、少し軽い。


「どうです?」


コンビニのコーヒーを持ちながら東条が聞く。「自然死っぽいですか?」


神谷は答えなかった。


東条は勝手にタブレットを開く。「見ました? 佐伯さんの利用傾向」


神谷が見る。そこには市民利用基盤の概要分析が表示されていた。感情補正利用率。AI対話時間。セルフケア支援頻度。再編集回数。


東条が言う。「かなり多いです。平均より」


「どう違う」


「AI対話時間が長い。相談ログ量も多い。補正ログも多い。セルフチェック頻度も高い」

神谷は黙って聞く。


東条は少し肩をすくめた。「でも仕事柄ですよ。補正ログを監査する仕事なんだから、当然ログ量は増えます。AI対話時間も増える。普通に考えたらそうなりますよね」


「普通に考えれば、な」


「え?」


神谷は答えなかった。仕事柄。それは正しい。合理的な説明だ。だから今は否定しない。ただ、少し残っていた。利用時間が長い人間が、なぜ死んでいるのか。それだけが、小さく引っかかっていた。


「交際相手は?」


神谷が聞く。


東条が画面を送る。「高橋直人。午後会えます」


「様子は」


「普通っぽいです」


またその言葉だった。


神谷は小さく息を吐いた。


---

夕方。高橋直人と会った。


二十七歳。システム開発会社勤務。穏やかな青年だった。落ち着いている。少し疲れている。だが、取り乱してはいない。


最近は珍しくない。感情表現が整理された世代。悲しみを強く出さない。怒りを爆発させない。代わりに、静かに整理する。


高橋は水を一口飲んだ。「信じられません」


その言葉も静かだった。


「最近の様子は」


「普通でした」


やはり同じだった。


「悩みは」


「聞いてません」


「仕事の愚痴は」


「少し」


高橋は少し考えた。「最近、調べ物してました」


神谷の視線が止まる。「何を」


「分かりません。でも、"数字が変"って」


「どういう意味だ」


「相談件数とか、利用傾向とか。そういう話です」


高橋は困った顔をする。「俺、専門じゃないんで。でも、なんか納得してなかった。"数字と現実が合わない"って」


神谷は静かにメモを取った。


初めて、小さな線ができる。


死、分析職、調査、違和感。まだ意味はない。だが、偶然だけでは片づけにくい。

別れ際、高橋がふと思い出したように言った。


「あ。最後の方、変なこと言ってました」


神谷は止まる。「どんな」


高橋は迷った。そして言う。「"ちゃんと伝わってるのかな"って」


神谷の指が止まった。


また同じ言葉。七海と同じ言葉。


伝わる、何が、誰に。


高橋自身も分かっていない顔だった。


「意味は聞いたか」


「いや。笑って誤魔化されました」


外は暗くなり始めていた。神谷は店を出る。


駅前スクリーンには政府広報が流れている。


〈対話は社会を守ります〉

〈困った時はAI支援へ〉

〈あなたの感情は、一人にしません〉


正しい言葉だった。誰も反対しない。実際、多くの人は救われている。


それでも。


神谷の頭に、美咲の部屋が浮かぶ。


完璧な記録、完璧な部屋、危険度ゼロ、問題なし。なのに死んでいる。そして、二人が同じ言葉を聞いていた。


――ちゃんと伝わってるのかな。


神谷は立ち止まった。東京の夜風が少し冷たい。


何かがおかしい。まだ理由は分からない、証拠もない、刑事の勘に過ぎない。だが、違和感というものは、いつも小さい。誰も拾わないほど小さい。そして本物ほど、最初は説明がつかない。


神谷はスマートフォンを取り出した。警視庁データベース。検索欄を開く。


入力した言葉は一つだった。


 佐伯美咲 補正ログ開示申請


彼自身、まだ理由を説明できなかった。


ただ。死ぬほど困っていた人間が、最後まで誰にも困って見えなかった。


そして、AIを長く使っていた。


その二つの事実だけが、妙に胸へ残っていた。

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